永遠の紅蓮

第8話 誰が為に人は行く


 砂嵐に巻き込まれて、千影は標的を見失った。
それは同時に、ここでの死を意味する。
 真剣の切っ先が千影の頬を掠めた。チリッとした痛みと共に、血が頬を伝っていく感触がする。
後ろに退けようとした足を辛うじて留まらせ、手に握ったフェニックスを振りかぶる。
 と同時に、足元をすくわれた。
「うわっ!」
 尻餅をついて上を仰ぐ千影の喉元に、ブロードソードの先端が当たる。
「お前、一直線でしか突っ込んでこられないの?」
 その剣の持ち主は、エメラルド色の瞳を不愉快そうに細めて喉元から剣を外した。腰の鞘にそれをおさめる姿は、なかなかに、西洋の騎士然としている。
 お互いの行動パターンを頭に刻み込む、という名目で、千影は悠と訓練を開始することになった。
 大きなため息をついて立ち上がり、フェニックスをルビーの中にしまいこむ。
「剣は読み合いだ。氷蒼の奴らが全員、正々堂々と突っ込んでくるなんて幻想は捨てろ。俺らにも麗奈ちゃんがいるように、武器は剣だけじゃねえ。個々の武器を使いこなせるように平均的に実力を上げていくのはいいが、それでも全てが平均以下になるくらいなら、なにかに特化することを考えた方がいい」
 ドギツいことをサラリと言いながら、悠は変身を解いた。
 千影も同時に、悔しい気持ちを感じながら変身を解く。立ち上がろうとしたその腕を、強く彼が引っ張りあげた。
 二人の視線が絡み合うが、千影は尊敬の視線だ。甘い雰囲気を感じさせることはない。
「……強いな」
 羨むように言われて、悠はため息をついた。彼女より戦っている経験は長い。
 ましてや紅蓮の筆頭である自分だ、弱いはずがない。
「当たり前だ」
 その手は優しく、彼女の頬にできた傷を拭う。
 顔を赤らめ視線をそらす千影に、悠はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「オイ蓮、つぎ頼む」
 紅蓮の地下室で、部屋の外に控えていた蓮を悠は見やった。
 剣と格闘技で戦うのは、まるで違う。
これは千影が悠と蓮に頼んだ、訓練だ。
「はいよ」
 マイクを通して、二人の耳に蓮の声が届いた。
 軽く千影の頭を叩いて、悠は背を向ける。
「……あまり、無理するなよ」
「早く、強くなりたいんだ」
 悠は、千影を平手打ちしたときの、彼女の悔しそうな表情を思い浮かべていた。自らの無力さに苛立ち、それを堪えるようなあの表情が、どうしようもなく自分に似ていた。
「誰も守れない自分は、もう嫌なんだ」
 それに答えず悠は、ポケットに手を突っ込んだまま蓮のいる部屋へと向かった。
 今なにかを伝えて、聞き入れてもらえるとは思えない。それは確実だった。
「お前、よく千影ちゃんの訓練に付き合う気になったな。あれだけ嫌だ嫌だって騒いでたのに」
 含みを持たせた口調だ。
 悠は吐き捨てるように「気まぐれだ」と言い、そのまま調整室の椅子に腰掛けた。想定しうる最悪のシチュエーションを用意するべきだ。

「じゃあ千影ちゃん、サクッとオレ殺すつもりでね。大丈夫、オレ簡単に死なないから」
 語尾にハートマークでもつきそうな勢いで、蓮は微笑んだ。その姿がただのTシャツ姿から、引き締められた上半身をさらしたズボンだけの姿に変わっていく。その手には、グローブがつけられていた。
「……蓮くんの前世って」
「ただの格闘技の先生でーっす」
 どう見てもそうではない。
 突っ込もうとしたとのとき、ガコンと音がして思い切り雨が降ってきた。雷雨と共に、ぬかるんだ泥沼が千影の感覚を鈍らせる。慌てて変身をし、シトリンの短剣を構える。
「おーい悠、お前泥に転んでオレが頭打ったらどーすんだよ」
「馬鹿が治るんじゃないのか。十五分で設定してある。始めろ」
 マイクを通して、無愛想な悠の声が聞こえる。あれでも強いのだから、早く追い越してやりたい。
 雨で髪が濡れる。ベタつくそれを無理やり払い、千影は蓮に向かってかけていった。
 結局、樹とは話ができないままだった。完全に謝るタイミングを逃しているとは思っていたが、だからといって動けるほど、彼女は喧嘩の仕方を知らない。
 彼女の繰り出す短剣を簡単にかわしていく蓮も、きっと実戦経験を大量につんでいるのだろう。
「蓮くん、私は強くなりたいんだ」
 樹に心配をかけないくらいに。一人で、悠を助けられるくらいに。そして、貴広に見てもらえるくらいに。
 それを声には出さなかったが、蓮の気迫を強めるには十分だった。
 ニッと笑った蓮は、その一撃を千影のみぞおちに叩き込む。見事に入ったそれは千影の呼吸を奪っていくが、背中を強かに打ち付けても彼女は立ち上がった。
「オーケー。そういうことならオレ、手加減しないで行くよ。その体で、体術全部受けて身に付けて帰って」
 凄まじいほどの連撃が、千影の体を襲う。あらゆる方向から来る痛みが意識を飛ばそうとしてくるが、意識を引き戻した千影はその右足から蹴りを繰り出した。
 受け止める蓮の動きも想定していたのか、落下と同時に左足でも蹴りを繰り出した。それは彼の頭部に当たり、視界を歪ませる。
「っつぁ……!」
 呻いた一瞬の隙を、千影は逃さない。逆手に持ち直した短剣をグッと握り直して、蓮に駆けていく、直前だった。
 ぬかるみに足を取られ、下着を気にする暇もなく足を広げて後ろに転倒する。
 驚きに立ち上がった悠と、すっかり動きを止めた蓮は、数秒待った。
 待ったが、蓮が片手を上げて悠に叫ぶ。
「おーい、訓練中止。千影ちゃん伸びてる」
 悠は頭を抱え、シチュエーション終了のボタンを押すのだった。

「いやー、あそこまで色気のないパンツ久し振りに見た」
 蓮は隣でからからと笑っているが、悠は気が気ではない。この腕の中の女を投げ捨ててしまいそうだ。肝心なところでミスを犯すなら、前線に出さないほうがいいのではないかと思いながら、悠はため息をつく。
「……不安だな」
「えっ、そんな不安なら千影ちゃん、オレと組ませてよ。あわよくば彼氏に立候補しちゃおっかなー」
 爆笑しながら蓮は廊下を歩く。そのとき、得体のしれない感情が悠の心臓を刺した。
「アホか。俺だからコイツに合わせられるんだぞ。お前と千影だったら突っ走って殺されるのがオチだ」
「あれあれ、結構気に入ってんじゃん。もしかして惚れてる〜?」
「こんな色気のない女はゴメンだ。じゃあ俺、千影の目が覚めるまで付き添うから。お前帰っとけ。今日は悪かったな」
 ベッドのある部屋に着いて、悠は千影をそっとベッドの上に下ろす。ミニスカートからのぞく太ももを直視できないまま、彼は蓮の方を向いた。
 蓮はあくびをして、ひらひらと手を振る。
「まあ、オレ結構千影ちゃんのこと気に入ってるからさ。お前が飽きたら本当にオレ、貰っちゃうからね」
 ざわりとした寒さを感じて、悠は思わず振り返る。笑顔の蓮だ。
しかし、その目は一切笑っていない。こんな表情を見るのは、初めてだった。
 俺の、勘違いだろうか。
 心臓がドクドクと音を立てる。ここで聞いてみても、いいのだろうか。
 蓮は自分の言葉を待つようにして、立っている。
 一体なにを、考えているんだ?
「……好きなのか?」
「んー、あんまりにも貴広、っていうかお前の背中追っかけてるから、いじらしいのが可愛くて気になってるって状態?」
 にっこりと笑って、彼はやんわりと肯定した。
「蓮――」
「『お前の千影ちゃん』でいるうちは手ェださねーよ。じゃあな」
 あっさりと背を向けて、蓮は帰っていく。
 彼の言葉が衝撃的過ぎて、悠はしばらく動きを止めていた。こんなのがタイプか、と悩むくらいには、子供っぽい上に、意地っ張りだ。
 自分の千影、だと? そんな勘違い、甚だしい。元々彼女は偽の恋人だ。
 恋愛の関係性なんて存在しない。
 千影の体をベッドの上に横たえて、タオルケットをかける。その唇が、ゆっくりと動いていた。なにか言おうとするその口をキスでふさいでやりたい衝動に、悠は突き動かされる。
「た、かひろ、さん……」
 寝ても覚めても貴広のことか。
 そう言いたいのを抑えて、悠は煙草を取り出す。右手では、千影の唇を押していた。弾力があり、柔らかい。リップクリームを塗っているのか、その唇は湿り気を帯びて、乾燥していなかった。
 ぼうっと悠は、千影の顔を眺める。
 どうしようもない激情が、悠の中を焚きつける。
アリシアに対しての愛情なのか、悠が持つ感情なのか、千影の前では常に混乱する。
 そっと悠は、千影に唇を重ねた。
 手をかけたベッドが軋み、音を立てる。
 起きはしない。安心して、間近で彼女の顔を見てから、また口づけをする。
 これはディートハルトが抱く、アリシアへの恋愛感情だ。守れなかった婚約者への、達成しきれなかった欲望であり、蓮見悠が持つ高里千影への恋慕ではない。全く。決して。
「ん……」
 ふと千影の目が開いた。寝ぼけているのか、虚ろな視線で悠の頬を撫でる。濡れた瞳が、吐息の全てが、アリシアと重なった。
 唇が触れ合う瞬間、千影の方から口付けられた。
「貴広、さん……」
 間違えられている。そう気付いた瞬間には、あの熱情は何処かへと消え去っていった。
 何もかもが現実に引き戻されて、うんざりしてくる。
そうだ、コイツは貴広が好きなんだ。
「起きろアホ。俺だ」
「たかっ……ユ、悠!」
 完全に覚醒したのだろう。千影にそのまま突き飛ばされて、悠はよろめいた。
「わ、わわわ悪かったな、あれなんで私こんなところに、っていうか蓮くんが」
「落ち着け。お前すっ転んでパンツ丸出しのまま気絶してたんだよ。蓮は帰った」
 今度こそ煙草に火を点けて、悠は椅子に足を組んで座った。蓮も千影のどこを見て気になってるといえるのか、さっきの状態を改めて口にしてみた悠にはさっぱりわからない。
 千影は顔を真っ赤にして、手で顔を覆う。
「……見たのか?」
「黒はもうちょっと大人になってからにしておけ」
 煙を吐いてそう悠がそう答えると、千影はもうなにも言えないのかベッドに突っ伏した。
「不覚……不覚だ……」
「お前がパートナーってことが俺にとって不覚だよ」
 からかいのつもりだったが、彼女がいる方向から漂ってくる雰囲気が変わって悠は顔を上げる。
 傷付いていた。
 悲しそうに眉を伏せて、苦痛に耐え抜こうと、ぐっとこらえている表情だ。
「今に強くなってやるから、見てろ」
 千影は必死にその表情を崩さないようにして、服を戻して立ち上がる。
「お前の背中は私が守るんだ」
 悠はまずいと思った。千影に続いて身体を動かし、その手首を強すぎる力でつかむ。
「ち、千影、悪い、言い過ぎ――」
「悠!」
 怒鳴られて、悠は動きを止めた。それは、あまりにも千影の声が真剣だからだった。泣きそうな顔で、でも彼女は泣かない。
「……未だ強くなれない私が悪い。お前はそう思って当然だ。気にするな」
 千影が出ていってから、悠は煙草をねじり消して顎に手を当てる。
 あれは本気で傷付けた。あの顔が、頭から離れない。
「あーにーきー」
 背後から自分と似たような声が聞こえて、悠はじっとりと後ろを振り向くと、陸がそこに立っていた。
「うわお前、いつからっ」
「兄貴が千影ちゃんに何回もキスしてた辺りから」
 その視線は恨みがましげで、悠は大きなため息をつく。あまり行儀がいいとは言えない行動だ。
 咎めたい気持ちになるが、そんなことより優先すべきことがある。
「気配消して覗き見か。いい趣味だな。そこから見てたなら、千影でも慰めに行けよ」
「あれは兄貴が傷付けたんだよ。兄貴以外にそれを消せる人間なんていないよ」
 言われて悠は、答えを返せなくなる。それは確かに正論だ。そして陸には付け入ろうとする思惑がないことに気付く。
「大体さー、記憶のない千影ちゃんってアリシア様じゃないわけ。別人。わかる? 千影ちゃんには兄貴がディートハルトだったって記憶、ないんだから。それを同等に扱って千影ちゃんがアリシア様と同じように戦えると思ってるとしたら勘違いも甚だしいよ」
「だから言い過ぎたって言ってんだろ。なんでお前に謝んなきゃいけない流れになってんだよ」
 自分だけが千影のことわかってるって顔しやがって、と呟いた悠に、陸は驚きの視線を向けた。向けられて数秒し、ようやく悠は自分がなにを言ったのかを理解する。
「……今までパートナーとして組んでるんだ。そう思うだろ」
 慌てて悠は訂正するようにかぶせた。
 陸は変わらず目を見開いていたが、見逃してくれるつもりなのか、ひらひらと手をふって流してくれる。
「あっそう。まあ兄貴が千影ちゃんをアリシアだと思ってて、ディートハルトとして好きなら、オレは絶対にアンタに千影ちゃんを渡したりなんかしないけど」
 陸はそのまま歩いて出ていこうとする。
「陸」
 呼ばれて立ち止まる彼の後ろ姿が、あの日アリシアを守るために毅然と振る舞ったレオの姿を思い出させる。
「――もし、俺が、好きになったとしたら、守れる、だろうか」
「オレに答えを求めないでよ。それは他人が決める答えじゃない」
「手厳しいな。前はお前から聞いてきたのに」
「千影ちゃんに関してはね。それを考え始めたなら、自分で答え出してよ」
 アイツ、説教しに来たのか。
 ドアが閉まってから、悠は千影に連絡をしようと立ち上がってスマートフォンを出した。しかし、連絡先を知らないことに気付く。
 またもや大きなため息が出てきて、彼は椅子に崩れ落ちた。

 千影が赤い洋館を背にして立ち去ろうとすると、後ろから思い切り抱きつかれて千影はうろたえた。明らかに、男性の力だ。
「ちっかげちゃーん!」
「り、りりり陸くん!? 来てたの!?」
「昼寝しにっ。ねーねー千影ちゃん、オレお腹減ったなーでも一人でファミレスとか行けないなー、誰か一緒に行ってくれないかなー」
 抱きついたまま、陸は千影の首筋の匂いをかぐ。苦笑しながら千影はその腕に手を添えた。
「わかった、行こう」
「やった! 美味しいケーキつけちゃう!」
 笑っていた陸の表情が、一瞬ふと無表情になった。千影には彼がなにを考えているのかはわからない。だがとてつもなく空虚で、寂しい瞳だった。
「……陸くん?」
「ん?」
 その表情は一瞬にして溶けていく。
 なにがあったのかを追求させないテンションで、陸は千影を連れて行った。
 そんな二人を、悠は窓の外から姿が消えるまで眺めていた。

 午後九時だ。貴広からの着信で、悠はまどろみから目覚めた。
 横には裸の女が寝ている。しかし躊躇わずに通話ボタンを押すと、気だるそうな声が聞こえてきた。
「悠、悪いな。近くに反応がある。斬ってこい」
「わかった。すぐ行く。メール寄越せ」
 二つ返事で通話を切ると同時に、メールが来る。貴広からの、場所を記した文章だ。
 ワイシャツをはおり、下着とズボンを履いていると女が身じろぎをした。
 どうやら起こしてしまったようだ。化粧の派手な女が目をこすり、悠を見上げる。
 だがそれに相対する彼の視線は、冷たいままだった。
「んー、悠……?」
「すまない、用事ができた。金は置いていく」
 財布から一万円札を抜き出し、テーブルの上に置く。
「ちょ、ちょっと!」
 女の制止も聞かずに、悠は部屋から出ていった。
 そのまま住所を確認し、走って向かう。十五分ほど走った先にある、裏路地だった。
 一人でもなんとかできる。そう思って駆け込んだ先にいたのは、高柳だ。
「お、やーっぱ涼子の言う通りディートハルトが来た。アイツの予想も、当たるもんだな」
「てめぇっ!」
 ゴミ箱に寄りかかっている男は既に腹部から血を流し、涙を流しながら助けを悠に求める。
 なんとしてでも生きて帰ろうという意志がある。絶対に、帰してやらねばならない。
 悠は歯を食いしばった。
「コイツ、失敗しちゃってねぇ。やっぱり後天性ってのは、出来損ないか」
 男の頭を、高柳の剣が貫いた。目を見開いたまま絶命したその男は、ゆっくりとゴミ箱に倒れ込む。悠は、手をきつく握りしめた。
 ここで冷静さを欠いてはいけない。頭をクリアにして、これから先のことを考えろ。
「なあ、アリシアはどこだ。僕は彼女を氷蒼に連れに来た」
「……何故そこまで、彼女にこだわる」
 気付いた瞬間、懐に高柳が入り込んできていた。その剣を思い切り受け、悠は結界の壁にぶつかる。
「がはっ……!」
「何故だって? 僕はねぇ、前の世界でアリシアを二度ものにしてないんだよ。お前とレオが邪魔してくれたからね。初回は散々だった、あんなモノ、楽しくもなんともない」
 高柳は悠の胸ぐらを掴みあげる。声が出ない。
 その不快感は悠を更に苛立たせる。
「運良く彼女と同じ年齢に生まれることができた。アリシアをねじ伏せて、僕の子供を産ませるのが僕の願いだよ。アリシアは前世そっくりに産まれてきてくれた、泣かせ甲斐がある」
 悠を離して、高柳は笑い声を上げた。その声は、空へと吸い込まれていく。
「……アイツは高里千影だろ、アリシアと一緒にすんなよ」
 矛盾している。わかっていながら悠は、不快感ゆえにそう問うことしかできなかった。高柳は彼を見下すように笑う。
「あぁ、お前はレオにアリシアを取られて、結局ヤれなかったのか」
「……それ以上喋るな」
 沸々と、押し込めていた感情のふたがこじ開けられていくのを彼は感じていた。
 人が二十年かかって押し込んでいた感情を、こうも無理やり解放させようとは。
「僕はアリシアを愛しているんだ。前世から、今も、この瞬間もだ!」
 剣を振り上げ、悠は高柳に向かって駆けていった。男の死体は、あとで弔おう。
 彼の力に押されながらも、悠は耐えた。
高里千影という人間を、彼は見てきている。
 彼女だって、悠が守りたい者の内の一人だ。
「そりゃお前、失恋してるよ。諦めろ!」
 かろうじて悠の力が勝った。振り払うと同時に、体勢を立て直す。
「それはどうかなぁ。時間をかけてゆっくりと好きになってもらう手もあるよ、ねっ!」
 高柳の剣から、風が放たれる。躱せない、と思った瞬間だった。
「シルフッ!」
 悠の前に、緑の盾が展開した。横にふわりと、千影が降り立つ。
 まだ濃いシャンプーの香りが、悠の鼻梁をくすぐった。ああ――来てくれたのか、と安心してしまう。
「千影……」
「遅れてすまなかった」
 淡々とそう言い放ち、千影はシルフを風とともに消滅させる。ウンディーネの矢をつがえ、消滅の瞬間に放った。
「アリシアァアア……」
 にい、と高柳の唇が歪む。千影は続けざまにフェニックスを出して、その剣を――投げた。
「千影、俺が前に出る」
 いとも容易く、剣は振り払われた……かのように思えた。それは高柳の武器に絡み、消滅に伴う炎に燃やされ溶けていく。
「大丈夫だ。もうあのときのように、迷惑をかけたりはしない」
 言うが否や、千影はシトリンの双剣を構えて走り出す。
 自分が力になれないことを悔やんで努力していることを、悠は知っていた。
 そして千影を、傷付けたことも。
 だからといって、ここまでムキにならなくてもいい。
 そう伝えたいのに、悠は止められなかった。どうしたって、彼女は言うことを聞かないだろう。
 双剣が、高柳の頬を裂いた。しかし攻撃を止めることもなく、その肩に思い切り剣を突き刺した。流れ出る仁の血が、千影の頬に花を咲かせる。
「……ああ、これがアリシアの怒りか。ははっ……生温い」
 次の瞬間だった。
 千影の体が吹き飛ばされ、悠が彼女の体を受け止める。しかし、千影は立ち上がりなおも向かおうとしていた。
「千影、後衛を頼む。俺が行く」
「……いい、私がアイツを!」
 上を向いたまま、高柳は笑っている。その肩からは血が噴き出しているが、彼がそれを気にする様子はない。
 ふらりと体を揺らして、瞳孔の開いた目で高柳が千影をみつめる。
 瞳は狂気に満ちている。ぞくりと千影の背中が粟立ち、身体を震わせた。
 だがしかし、退くだなんてことは考えられない。
 ここでどうにかしてやろう、そういう気持ちだった。
「いい……いいぞアリシア。全て受け入れてやろう。絶対にお前を僕のものにしてやる」
 結界が消えると共に、高柳も消えていく。
 歯を食いしばって千影は彼の消える方向を睨みつける。なにもできない、ままだった。
「……千影」
「っ……!」
 ムキになっている、と悠は感じた。それが何故なのかわからないほど、鈍感ではない。
「奴らがどう消えているか、理屈はわからん。追ったところで無駄だ。家まで送る」
 変身を解いた悠は、千影の手首をそっとつかんだ。手のひらに食い込んだ爪から血が落ちているのに気付いた悠は、静かにその手を開く。泣くまいとしている千影を、今ここで泣かせてはいけない。
「……助けてあげられなくて、ごめんなさい」
 掴まれていない方の手で、千影は思い切り壁を殴った。
 その視線は、目の前で静かに横たわっている男に向けられている。
 悠はなにも言葉をかけられずに、ただ黙り込んだ。悠は幾度と無くその光景を見てきた。
 諦めて、割り切って、乗り越えてきた。
 だから今、握りしめた千影の手を開くことができる。
「助けてあげられなくて、本当に、ごめんなさい」
 唇をかみ、千影は涙をこらえていた。
今までに自分が失ってきた感情を、千影はまだ持っている。
「……あとは貴広に任せろ。帰るぞ」
 壁に拳を押し付けて、千影は怒気を孕んだ声で前を向き、呟いた。
「……悠、私、強くなるから」
「ああ」
 わかっている。
アリシアと千影が違う人間だと思っていても、その根元にある魂は同じだ。
 確かに彼女は、千影であり、アリシアだった。
「強くなるから」
 その手が震えている。
「ああ」
 引いた手を、千影が拒絶することはなかった。

 送っていく途中に消毒液とばんそうこうを買い、公園のベンチに千影を座らせる。手を開かせると、傷は生々しく手のひらに残っていた。
「悪いな。俺が治療できれば良かったんだけど」
 消毒液をかけ、ティッシュで拭きとってからばんそうこうを貼る。
 千影は不思議そうにその手のひらを見つめ、そして、軽く手を握った。
「……嫌なやつだと思ってたのに、優しいな。困る」
 苦笑いを浮かべて、千影はポロリと一粒涙をこぼした。
「俺が優しいわけあるか。困るってなんだ、困るって」
 その涙に気付かないふりをしたまま、悠は煙草を取り出す。ライターで火をつけ、千影の横に座り煙を吐きだす。気付かないことでしか、彼女を守る術を見付けられなかった。
「私を見捨てないでくれている。それだけで、優しい」
 千影は悠を見て、微笑んだ。その笑顔が、あまりにも悲しげで綺麗で、悠は言葉を失う。煙草の灰が、ジリジリと燃えて落ちていった。
 悠の手が、千影の頬に触れる。彼女は、拒絶しない。
「……そんなんだから、俺に付け込まれる」
 キスしようとしたその唇を手で押し返し、千影は立ち上がった。
「貴広さんを好きな私をからかいたいだけなのはわかっている。私はいい。けど、麗奈には誠実に向き合ってくれ」
「……お前には不誠実でもいいと?」
 千影は悠を一切見ず、煌々と光る月を眺めながら千影はポツリと答えた。
「どうせ叶わない。お前に遊ばれてやる」
 諦めの声音だった。それが悠の心臓を、ちくりと傷ませる。
 貴広に思いが伝わらないのにどうして恋ができるのか、そんなことはわかりきっていた。
「なんでまだ、好きなんだ」
 こればかりは、論理的なことが言えそうにない。
「筋の通った説明ができれば良かったんだが」
 ふっと千影は淋しげに微笑んだ。
 綺麗だと悠は思うが、口には出せない。どれだけ罵倒が返ってくるか、考えれば考えるほど恐ろしい。
 立ち上がり、煙草を携帯灰皿に放り込む。
「帰るぞ。お前明日、学校だろ」
「いかん、忘れていた。寝坊したらお前のせいだ」
「なんでだよ」
 月は照り続ける。
 もやもやとした感情が、悠の心臓の周りを覆っていた。


第9話へ続く


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