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永遠の紅蓮

第7話 君と私の憂鬱な日


 結果から言えば、二人は一切会話しなくなった。
 もちろん、千影も樹も怒っている。お互いに対する遠慮が、余計に仲直りを引き延ばした。
「ちーかげっ」
 授業開始のチャイムが鳴る三分前、麗奈は千影に後ろから抱き着いて教室移動を誘う。樹は無言でその横をすり抜け、教科書を持って教室を出ていった。
 一瞬彼の方を見はしたものの、千影は結局麗奈に笑顔を返した。
「移動教室一緒にいこっ。そろそろ中間テストじゃん? バイトと並行しながらだし大変だけど、頑張ろうねー」
 抱き締められて後ろからゆらゆらと揺らされつつ、千影は頷いた。
 定期的に行われる学力テスト、月ノ宮学園高等部一年S組の試験範囲は恐ろしく広かった。どの教科も嫌いではないが、突然紅蓮のために呼び出されることを考えると試験範囲のいくらかは、余裕がなくなるだろう。
 大変ではあるが、自分で選んだ道だ。
「そうだね。テスト中は午前授業だし、何処かで勉強しようか、樹も……」
 言いかけて、妙な沈黙が生まれた。
麗奈は表情を変えずにニッコリと笑う。
「り、陸くんとかね、呼んでさ」
「えー、アイツ? 頭いいの? まあ悠と同じだから顔はいいけどー」
 どうも麗奈は陸に警戒心を持ち続けているらしい。お互いに初対面であれば、それも仕方ないだろう。
 陸は勉強が得意なのかあとで聞いてみようと、千影はポケットの中にある携帯を握りしめた。
 実は千影だけが聞いていることがある。家に帰ってしばらくしてから、陸から電話があった。月ノ宮学園の高等部に明日編入する、という連絡で、たいそうびっくりしたものだが、今日一回も校内で陸を見ていない。
 恐らく、遅刻だろう。或いは、別のクラスだったということも考えられる。
 麗奈が千影の手を引っ張り、ずんずんと教室のドアへと向かっていった。
「あっ、いこいこっ、本鈴鳴っちゃう。実験めんどくさいね〜」
「あ、うん!」
 千影と麗奈は、理科実験室へと走っていった。

「ううー……」
 金色の頭が、ぴょこぴょこと月ノ宮学園の校門前で動く。その男性が着ているのは、紫色の月ノ宮学園高等部ブレザーだ。瞳は憂い気に伏せられ、不安感がありありとわかる。
「転入初日に遅刻ってなぁ……」
「あれ、あの服着てるのって悠くんじゃない!?」
 何人もの黄色い女性の声に、陸はビクついて振り向く。視線の先には、派手な服装のうえ、厚化粧の女子大生たちだ。
 悠とは違い、彼女らをいなすことに慣れてない陸は、あからさまに狼狽えてしまった。
「ねえねえ悠、高等部のコスプレなんかしちゃってどうしたの!? またわたしとホテル行こうよー」
「やーだ、アタシが先だってばー」
 陸は間違いなく固まった。
兄のふりをするのは簡単だが、それでは今後同じ顔が二人現れたときにどう対処すればいいのか。というか、ホテルだなんて、そんなこと。したことが、ない。
 必死に陸が頭をフル回転させていると、ヒョイとそのワイシャツの首根っこが掴まれる。後ろを見てみれば、冷たい瞳をした悠だった。
 黒いジャケットの中に赤い服を着て、下は黒いスラックスだ。陸の耳元で、怒ったような声音が響く。
「……なにやってる」
「あれー、悠!? じゃあこっちは!?」
 見下すような冷血の瞳を、柔らかい春のような微笑みに変えて悠は女子大生たちに答える。
「双子の弟なんだ。ちょっと外国に行ってて」
「え、帰国子女!? やだ、かっこいいー!」
 言われて陸は、兄に助けを求めた。女性に囲まれることは容姿のせいで多かったが、このテンションにはついていける気がしない。
 ふーっと溜息が聞こえ、悠の更なる笑顔が女子大生たちを襲う。
「ごめんな、コイツまだ英語しか喋れなくてさ。日本語喋れるようになったら連れてくるから」
 キャーと、また大きな声が上がる。
 首根っこを引きずられながら陸は歩き続け、その手を離してもらえたのは校内に入ってからだ。ベンチに深く腰掛けて、悠は下からギロリと陸を睨み付ける。
「……なんでお前、高等部の制服着てるんだ」
「え、だってそりゃ――編入するから」
 聞いて悠は、思わず立ち上がる。誰が一体そんなこと――と考えて、そんなことができる人間は一人しかいない。
「貴広か」
「う、うん。涼子サンの狙いが千影ちゃんなら、どうせならお前が昼は見張ってろって」
 まさか二十歳にもなった自分の片割れが、高校の制服を着ているとは。
 微妙な気分になりつつも悠は、あごに手を当てた。なにか引っかかることがあるが、それは頭の中で不可解なもやに包まれて、上手く言葉が出てこない。
 黙り込んでいる悠を見て陸は、何事かと顔を覗き込んでいた。
「兄貴?」
「……陸、お前今まで何処でなにしてた」
 中学を卒業してから陸は何処かに行ったっきり、悠とは会っていない。
 敵対する組織として会い始めたのは、およそ三ヶ月前の話だった。その間のことを、お互いに話したりはしていない。
「え? 世界放浪してアリシア様探してたけど」
 はー……と、悠は自分の口からため息が漏れるのを感じた。
現世の生活と、前世の記憶、どっちが大事なんだと問いたい。
 しかし蓮見陸という人間は、ためらいもなく前世の記憶と答えるのだろう。
 思っていることを口に出すべきかどうか悠は考えていたが、やがて諦めて、ベンチから立ち上がった。鞄の中にある教科書が、どうにも重く感じる。
「まあいい。それなら話は早い、朝から放課後までは頼む。俺は放課後からバイト終わるまで、なるべくアイツのそばにいるようにする」
 その好意が、陸の千影に対する愛情ならば、悠は口を挟むところではない。
 背を向けて大学に行こうとすると、呼び止められる。
「兄貴!」
「なんだ」
 振り返った悠に、陸は一瞬喉の奥に言葉を溜めたあと、こう問うた。
「……後悔、してる? 兄貴は、もう一度、守りたい?」
 陸のいう「守りたい」の対象が誰なのかは明確すぎて、直球すぎる。
 悠はハッと鼻で笑って、首の後ろを左手でかいた。
 答えないままでいると、陸は肩をすくめて教室に行こうとする。
 だが悠の一瞬の考えが、陸の歩みを呼び止めた。
「陸! ちょっと」


『オレ、蓮見陸です! 外国に行ってて進級が遅れたので、二十歳ですが今日からここに編入します。そこの高里千影ちゃんのことが好きで好きで仕方ありません、なんかしたら許さないんで、よろしく!』
『アホかーっ!』
 飄々と理科室で言い放つ陸。大絶叫で千影がツッコミを入れて、教室は混乱に包まれた。それがなんとか静まる頃には、千影の右には麗奈、左には陸が定位置となる。
 ただでさえ、樹とは付き合っているとあらぬ誤解をされているのに、と千影は実験を進めながらもため息をつく。
 右に座っている麗奈は、千影の耳に唇を寄せてきた。
「みんなびっくりしてるねー、こりゃ注目の的は千影だ」
 麗奈が一緒にいてくれるようになったから和らぎ始めた陰口は、最早増していく一方だろう。なにより、同級生の年上だ。女生徒が放っておかない。
「やめてよ……ただでさえ変なこと続きで噂されてるんだから」
「あーそれなんだけどねー、一回クラスのみんなとカラオケとか行った方が」
 言いかけて麗奈が、鋭い殺気の視線に振り向いた。バイト柄、その手の視線には反応せざるを得ない。
 てっきり高柳かと麗奈が視線を移せば、それは樹からだった。余計なことを吹き込むなとでも言うように、麗奈を睨んでいる。
 あかんべえをして樹から視線をそらして、彼女は千影に抱きついた。
 千影第一の樹にしてみれば、それが心中察するにあまりあるくらいの嫉妬心だったが、授業中では割り込むわけにはいかない。
「ね、だから今日遊び行こうよ! たまには森谷のことなんか忘れてさ」
 千影は物憂げに息を吐き出してから、麗奈に微笑みかける。
「ごめん、麗奈。今日も訓練するから」
「ええー」
 麗奈は不満そうに口をすぼめる。
 しかし、千影の中には確固たる意思があった。
高校生の本分として、遊びに行くのも大事かもしれない。
 だが、まだ人は死に続けているのだ。少しでも、防げるなら。
波原の憂いを、少なくしていけるのなら。
 それだけだった。
 そんな彼女を、じっと陸は見ていた。実験中にも関わらず、陸は各テーブルをウロウロとしている。そして樹の背後に立ったとき、そっと彼に囁きかけた。
「……こんなになったのは悠のせいだ、って思ってんのか?」
 バッと、樹は振り返った。
「俺(・)のせいじゃないぜ。千影が世界を広げようとしたのは、千影の意思だ」
「お前っ……」
「さて、ここでお前がキレて俺の胸ぐらを掴みあげたらどうなる? 千影はどう思うだろうなぁ?」
 喉で笑いながら、悠は樹の肩に手を置いた。周りからは、仲良くなり始めた友人同士に見えるだろう。だが二人が感じるのは、絶対零度の空気だけだ。
「……なにしに来た」
「身の程を教えてやろうと思ってな。お前はこのままが良かったかもしれないが、千影の周りにはお前しかいなくなる。それがアイツにとってどんな影響を及ぼすか考えたことがあるか? 守るとかなんとかいいながら、結局縛り付けてるだけだ。お前のその浅ましい願望で、千影の世界を狭めている。千影が好きなら、そこらをよーく考えることだ」
 樹の嫌悪に満ちた視線が、悠を捉えた。元々この程度の修羅場ならいくらでもくぐってきた。
 ここで千影の味方をするのは、ハンカチで傷を拭ってくれた分だ。
 それ以外に理由なんてない。
 自分が彼女のことを大切に思っている、だなんて考えを悠は捨て去った。
「……千影には、オレだけがいればいい。オレだけが千影をわかってあげられるんだ」
「千影に壁を作ってるのはお前の方だ。それ、肝に命じとけ」
 底冷えのするような声でそう言われたが、樹はそれを恐れることはなかった。
 それほどまでの強い意志を持って、自ら行動しているからだった。
 視線が絡み合い、激しく火花が散る。だが樹の耳に「陸―」と呼ぶ麗奈の声が聞こえてきた。
 悠に対して舌打ちをして、樹はそのまま実験の続きに取り掛かる。
 これ以上の会話は不毛どころか、互いに争いしか生まない。それがわかっているからこその行動だった。
「陸、うろちょろしないでよ。レポート書くのはアンタなのよ」
「ごめんごめん。最初っから遅刻しちゃったから、挨拶回りしてて」
 と、突然悠は腹を押さえて地面にしゃがみ込んだ。
 これを言うためだけに陸と入れ替わったのだ。それが終われば、もう用はない。というか、この歳でコスプレしてるみたいで恥ずかしい。
「うー、腹いって……」
「え、ちょっと、どうしたの陸」
「朝牛乳飲み過ぎて、腹いてー。トイレと保健室!」
 そうさっさと教室をでていこうとする悠の声に、千影の声がかぶさった。
「私が保健室に連れていきます」
 悠は目を見開いた。「……なんだ、保健委員だ、私は」と答えて、さっさと千影は悠の腕を掴み廊下に出ていく。
「ち、千影ちゃん、オレなら大丈夫だから」
 そんな陸もどきの足を、千影の上履きが踏み抜いた。陸に対する態度ではないそれに、悠はまさか、と口にする。
「お前、まさか……」
「なにが千影ちゃん、だ。高等部までわざわざなにしにきた、悠」
 二人揃うことがまずなかったが、ほぼ他人に見分けられることはない自信を持っている悠にとって、この言葉はかなり意外だった。
 ましてや彼女は、ディートハルトのことを思い出していない。
「り、陸があがり症でな、最初だけは俺に頼み込んできて……いだっ」
 第二撃。千影は見事に悠の足を踏み抜いて、腕組みをする。
 その視線は樹より弱いはずなのに、悠の背中を震え上がらせた。
「言い方が胡散臭い。陸くんとお前の違いなんてすぐわかる。さあ吐け、なにしに来た。陸くんはどうした」
 見分けられたことにすっかり精神を持っていかれた悠は、なにも言えなくなって口をつぐんだ。
 十秒きっかり経ってから、千影は腕組みをといて、悠の手を軽く握る。
 今までの千影なら有り得ない行動に、悠は後ずさりそうになる。しかし彼女の表情が悲しげであることに気付いた彼は、手を離すことなく、握り返した。
「……樹とのことを心配して、見に来てくれたんだろう? 私なら大丈夫だ。手間をかけたな」
 そのいじらしさに危うくキスしそうになって、悠はとどまった。
 けだものか、俺は。
 しかもこんな校内で、誰かに、教師にでも見つかれば大目玉だ。
 手は離さないまま、彼は千影から視線をそらす。
「し、心配なんてしてねーし。女子高生の物色しに来たんだよ、俺は」
「あまり不誠実なことをするなよ。麗奈には特に」
 まだそれを言うか、とも思うが、「お前にはいいのか」という最大の疑問が悠の脳内をすり抜けていく。しかし、口には出せなかった。彼女には波原という好きな人がいて、自分はそこにつけこんでいるのだ。
「ディートハルト」
 前世の名前を呼ばれて、悠は思わず千影の顔を見る。
思い出して、くれたのだろうか。あのどうしようもない、自分のことを。
 しかし千影の方が顔を伏せて、その表情を知ることができない。
 思わずほころびそうになった表情を、悠は慌てて取り繕う。
 そんな顔など、見せるわけにはいかない。
「すまない。昨日思い出そうとしてみたんだが、本当に心当たりがないんだ。私の関係者なんだろう。前世の……アリシアの私は、お前によほど酷いことをしたのかもしれない。それで、思い出したくないのかもしれない」
「……っ違う!」
 絞りだすような叫び声が、悠の喉から出た。
彼女の両肩を思わずつかむが、壊れそうに柔らかい感触がして、悠はすぐに手を離す。
 こんな身体に触れてしまったら――取り返しがつかなくなる。
「違う……アイツが、悪いんだ。お前は本当に、思い出さなくていい」
 視線が合う。彼女は理解しがたいといったふうに眉を歪めて、顎に手を当てた。桜色の唇が、なにか言いたげに動いて閉じ、また開く。
「お前がそう言う理由がわからない。悠も陸くんも、私の前世で大事な人だからここでも会ったのだろう? どうして思い出すことを拒む」
 それには、自分が覚えている限りの話をしなければならない。
 悠は唇を噛み締めた。
 思い出さないでほしい。思い出してほしい。
 少しでもその気持ちが心中にあったことに悠は気付いて、どうしようもないやるせなさが身体中を駆け抜ける。
 紅蓮に入ることに決めやがって。悠は舌打ちをした。
「なっ、なんで舌打ち……」
 その千影の頬を、悠はぐにぐにと両手で伸ばしていた。
 言葉にならない声を上げる千影に、悠は吹き出して、彼女の両頬を適度な力で叩く。
「なっ、なっ、なにす……!」
「お前が思い出したら、俺の事細かな補足もつけてダイジェストにしてやるよ! 陸と変わってくる、待ってろ」
 話してしまいそうだ。
慌てて千影に背を向けた悠は、左手の甲で口を押さえながら早歩きした。
 そんな彼の背を、千影の声が追い立てる。
「悠、私にはわからない。だってお前は、悠だろう?」
 ああ、駄目だ。心を、これ以上かき乱してくれるな。
 悠は決してその質問に答えず、廊下の奥へと消えていく。

 十分ほどで、傍目には同じ姿の蓮見陸が戻ってきた。犬のような人懐っこい笑顔を浮かべて、走ってくる。
 なんという早着替えだろうか。
「千影ちゃーん! ごめん、馬鹿兄貴が。なんかやらかさなかった? どうしても高柳の様子見ときたいってうるさくてさー」
 彼はうそつきだ、と千影は思った。
 決してなにを思っていても飄々とかわして、人の急所を突いていくのだ。
「あはは、多分見ていったんじゃないかなぁ。いま陸くん、下痢ってことになってるから、ちょっとは痛そうにしてて」
 自分の本心は決して悟らせまいと立ち回っているのだろう。
 それはどのくらいの努力と嘘の積み重ねなのか千影には計り知ることができないが、それでも千影は、ディートハルトのことを思い出したいと思っていた。

 開けてはいけない蓋をこじ開けたんだろう、と樹は溜息をつく。
 今まで決してその感情を言葉にすることなく、過ごすことができたのに。彼女の世界が広がるという不快なきっかけで、それは崩れてしまった。
 横目で麗奈と陸と話す千影を見やる。困ったような、戸惑ったような笑顔ではあったが、樹にはわかる。彼女は楽しんでいる。
「樹くん、レポート終わった?」
 グラフも書かずにぼーっとしていると、クラスの女子が話しかけてきた。
 ああ、この人の名前なんだっけ。
「あっ、書いてないじゃーん。わたしのどーぞ」
 媚びるような笑顔で、女子生徒はレポート用紙を差し出した。キッチリと書き込まれた結果に、「ありがとう」と言いながら手を動かしていく。
 千影以外を見たことはなかった。他の人と友人のフリをして喋るのも、千影に悪いうわさが広がれば自分が対処して回れるようにという思いからだ。こうして外にいい面を出しておけば、最終局面にまで彼女が追い詰められることはない。
 全てが千影のためだった。
 それが崩れる。彼女の周りに人が集まってくる。自分は取り残される。
 千影は素直ではないだけだ。それに他のみんなが気付いてしまったら――オレは、どうすればいい。
 彼女が好きだ、ということを認めたと同時に、樹はもう一方にも気付く。
 自分の愛情がどれほどまでに傲慢で一方的で、彼女を縛り付け、視界を奪うものか。
 それがわからないほどに、樹は子どもではない。
「……限界、かな」
「樹くん?」
 ぽそりと呟いた言葉に反応され樹はすぐに取り繕う。
「ごめん、独り言。ありがとう」
 プリントを渡された女子は、頬を染めて自分の席へと戻っていった。
 頬杖をついて窓の外を眺め、樹は思い出す。
 最初から波原を見たとき、「始まったか」としか、樹は思わなかった。

 忘れもしない、十一歳のときだった。
 前世の記憶、能力を催眠で引き出すことが可能ならば、もしや幼少期から優秀な人間を造れるのではないか。
 そういった大人たちの欲望で、樹は孤児院から買われた。
 何故自分が孤児院にいるのかも、親の記憶すらもない彼に、大人たちは研究対象としての目を向け続けた。
 そう、ひたすらに過去を遡る催眠を経験し、樹は何度も前世である自分の死を追体験する。
 痛い、やめて、怖い、辛い。
 そんな言葉は、通じない。
 まるで目の前にいるのが怪物かのように思えるほど、冷たい大人たちの目。
「やはり56番が持つ前世の能力は、今後有用なのではないでしょうか。しかしこのままでは精神状態が良くありません……」
 彼の前世は、情報面で特に優秀な人間であった。その能力から存在を秘匿され、陽の目を見ることはなく、あっさりと二十で空へと旅立った。
 内部で彼の才能を憎んだ仲間よる、毒殺だ。
 樹は昔も今も、独りだった。
 ある日、吐き気を催すような猫なで声で白衣の男が話し掛けてくる。
 彼は生涯、この日のことを忘れないだろう。
「ありがとう、樹くん。君のおかげでいいデータが取れた。君の役割はもう終わった。そのまま外に出て、自由に過ごし給え」
 用済みになったと、白衣の男は言わなかった。
 骨張った体、あばらの浮き出た上半身、折れそうな手足の細さ。
 これで外に出ろというのか。
 樹は男を見上げるが、メガネに反射した男の瞳はうかがうことができない。
 Tシャツとズボン、たったそれだけを与えて、白衣の男は樹を追い出した。
 このとき既に、樹は十三歳になっている。
「……ひとりだなあ」
 森の中をさまよい歩き、車道に出、周囲の綺麗な人間に避けられながら、空腹で限界になってとうとう彼は行き倒れた。
 見たこともない、住宅街だった。
 アスファルトに爪を立てて、樹は頬に涙をこぼす。
 月明かりと、コオロギの声。家族と一緒に見られたら、良かったのに。
 そう思っていると、不意に体が持ち上げられた。
 青い髪だ、と一瞬樹は目を見はった。サラリとしたセミロングの髪が、憂うように樹の頬に落ちる。
 その眼力は強い。不思議な魅力の少女だった。
「あ、生きてる」
 驚くほどに淡々とした声でその少女は口を開いた。
「神楽兄、人が倒れてるよ」
「えっ、ちょっと、生きてる!?」
 似た顔が二人駆け寄ってきた。
それと同時に、巨大な腹の音が辺りに響く。
「お前、お腹減ってるのか?」
「……おっ」
 喉から掠れた声が出た。こんな声を出すのは、数年ぶりだろう。
「お腹、すいっ……」
 涙が止まらず、そのまま樹は千影に抱き着く。なによりも彼の涙を溢れさせたのは、彼女の体温だ。
 彼女は手に持っていた肉まんを、樹の手の上に置く。暖かい肉まんだ。かぶりつくと、じわりと旨みが口に広がっていく。思い切り口に含んで、飲み込んだ。
「神楽兄、神楽兄のぶんの肉まんもちょーだい」
「ほい」
 見ず知らずの人間に食料を分け与えるお人好しな兄妹は、道端で樹に買ってきた食料を渡し続けた。チョコレートからポテトチップス、コンビニのおにぎり、三百九十八円の冷やし中華、炭酸飲料。
 それらを全てペロリと食べてから、樹はようやく視線を二人に移した。
 空腹のあまりこの人達が渡してくれる食料を全て食べてしまったが、大事な食べ物だったのではないか。
 どう言っていいかわからない樹は、視線を伏せる。
 ふわりと、頭に優しい手が乗った。
「私は高里千影、あっちは兄の神楽だ。お前は?」
「い、樹……森谷、樹」
 体力が回復したおかげか、立てるようになっている。これ以上、この二人に迷惑をかけるわけにはいかない。
 土を払って立ち上がり、礼を言ってその場を後にしようとする。しかしその行動をアッサリ止めたのは、千影という少女だった。
「神楽兄、しばらくこの子家に泊めようよ。なんかありそうだし」
「そーすっか。何処かで死なれてもぼくの寝覚めが悪い」
 飲め、と男性がペットボトルのお茶を差し出してくる。
 今度こそ、樹は耐え切れず千影に抱き着いて大泣きした。

 チャイムが鳴って、樹は無言で立ち上がった。思うようなことは、なにもない。
 教科書を持って移動する最中、千影とすれ違う。視線は合ったが、彼女はなにも言おうとはしなかった。
 命を助けられたことに対して、並々ならぬ感謝の気持ちを持つのは当たり前だ。人付き合いの苦手な千影に対して、だったら自分が一番の友達でいよう、と思ったのも確かだ。
 それが愛情に変化していることに気付かなかったのは、自分の盲点だった。
 片手で顔を覆って、樹は長く息を吐く。
 あの狐は、一体なにを隠しているのか。
 それを知るためには多少、単独で動かなければいけないこともある。踊らされてやろう。
樹はなにもない天井を睨み付けた。

 波原と初めて会った瞬間を、樹は思い出していた。
あの薄暗い施設の中にいた、波原貴広の、人を見下すような冷たい視線を。

 守らなければ、と、一人の少年は固く決意したのだった。


第8話へ続く


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