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永遠の紅蓮

第6話 蒼のトップ


 あまりにもあからさま過ぎただろうか。
 鞄を持って、千影は道を全力で走っていく。
 先ほど電話の先から聞こえてきたのは、粘着質なあの声だった。
『もしもし、高里さん? いま、君たちがいる店の前にいるんだ。一般人もろとも巻き込んで異空間の中に入れちゃったら、どうなると思う?』
 ゾッとした。
『僕の能力はまだ見せていないだろうけど、精神系に特化しててね……この場所くらいなら、簡単に干渉できるよ』
 能力者の攻撃でしか切り裂けないそれは、一体何人を殺すのか。
『ねえ、君と話がしたいな。一人でおいでよ。近くの公園で待ってるから、さ。来なかったらどうなるか……わかるよね』
 拒否権など、あるわけがない。千影は渋々それを了承した。
「わかった……すぐに行く。だからその妙な考えをやめて、公園にいろ……」
 悠には、こんなこと話せるわけがない。
 昨日自分の頬を叩いた男。そんな男が、自分を心配するかのような素振りを見せている。
 それもまた、自分を騙すための作戦なんだ。
 貴広じゃなくて、自分を好きになればいいと思っているんだろう。だからなにもかも信じることはできない。面白がっているだけなのだから。
「……フン」
 自分は貴広さんが好きなんだ。
 改めて決意してから千影は、公園の前で足を止めた。
中からは、子供たちが遊ぶ声が聞こえてくる。
 まだ会ったばかりだとか、そんなこと、関係ない。
好きなら、自分は命さえも懸けられる。
 ベンチには、悠々と高柳仁が座っていた。
 歪んだ笑みだ。千影の体を舐め回すように眺めている。前から思っていたが、その視線は不愉快極まりなかった。
「来てくれたんだね。まあ、来ないわけがないけど」
 座りなよ、と高柳は自分の隣を叩いた。全身が拒絶するが、明らかに自分より強い彼に逆らえば、砂場で遊んでいる子供が犠牲にもなり兼ねない。
 ゆっくりと千影は彼の隣に腰を下ろした。
「嫌だなぁ、そんな警戒しないでよ。朝の怪我、大丈夫?」
「誰がつけたと思っている」
 鋭くそう返せば、バカにするような笑みが返ってきた。非情に腹立たしいが、今は我満するしかない。千影はグッと感情を抑えて、彼の方へ視線を向ける。
「僕だね」
 高柳は両肘をベンチの背もたれに預け、足を投げ出す。
行儀がいいとは言えない姿勢だ。
「僕がなにしに来たんだ、って思うでしょ?」
 そう言うなり、彼の行動は一瞬だった。
 鈍い痛みと、そこから逆流してくる胃液が食道を痛める。
「かっ……は、ぁ、くっ……」
 みぞおちに拳を入れられたと気付いたのは、数秒あとだった。
「どうやら僕よりディートハルトの方が好きみたいだから、もう一度確認をしようと思ったんだよ。誰が誰のものなのか、ハッキリと」
 ディートハルト、という名前に千影は一切覚えがなかった。懐かしい響きはするが、記憶をかきたてる程の熱を持ってはいない。
「ディ、ト、ハルト……って」
 周りは既に異空間になっていた。赤い膜が、自分を静観している。
 それを説明する間もなく、高柳は千影の腹部を何度も殴りつける。
「いいかアリシア、君は過去においても未来においても、金で僕に買われる運命だ。見ていた、ずっと見ていたよアリシア。君がレオにうつつを抜かしていても、僕は君を金で買えた! 今もそうだ、僕は君を金で買う、金で買えなければ力で買う!」
 激しい痛みで、吐瀉物が口から溢れ出てくる。
よかった。誰も巻き込まれていない。その希望だけが、彼女の気持ちを安心させる。
「ねえ、氷蒼に来て僕のものになりなよ。そうしたら、紅蓮のあの男のことなんて忘れられるでしょ? どう思う、涼子」
 自分と全く違う名前が呼ばれたことに驚きながら顔を上げると、そこには麗艶な女性が立っていた。腰まで伸びた髪で赤いスーツを着た、冷酷な表情の女性だ。
「さあ、どうだろうか? もしそうだったら、心変わりの早い女だと思うだけだな」
 高柳に蹴り飛ばされて、反撃もできずに地面に倒れ伏す。
「かっ、は……くそ、好き勝手、言いやがって……!」
 するとハイヒールを鳴らしながら、次に涼子が踵で千影の顔を踏みつけた。
「ぐっ……」
「氷蒼に来るか、小娘?」
 千影のすぐ横で、ムチが風をあげて唸る。
 あれはきっと、涼子と呼ばれた人の武器なのだろう。
 彼女も――氷蒼の人間なのか。
「そうすればもうこんな痛い思いをすることもないぞ。波原は私の獲物だ、貴様如きに守らせたりはしない」
 波原、という言葉に、意識が遠のきかけていた千影の意識が覚醒した。
 目を見開いて、涼子の足首をつかむ。
「ふざ、けるな……波原さん、は、殺させない……」
 変身する気力が少しでもあれば良かったのだが、精神を集中する前に涼子が踵に込める力だけがどんどんと強くなっていって変身ができない。
 悔しさに砂を握りしめたそのときだった。
 天から光が差し込んで、二つの影が千影の前に落ちてくる。
「涼子サン、新人に構ってる暇があったら仕事したらどうです?」
 マフラーをはためかせ金色の槍を持った陸と、
「たまには弟も役に立つもんだな」
 剣を構え、涼子を睨み付ける悠だった。
「ああ、ディートハルトにレオじゃないか。前世の償いにアリシアを助けに来たのかい? どうだい、助けられそうかな?」
 高柳の大きな高笑いに、悠の眉が歪んだ。
 陸は悠以上に表情を怒らせて、高柳を睨み付けている。
「オイ、それ以上喋ったら殺すぞ」
「僕の名前を忘れたとは言わせないけどね、どうやらアリシアは、君に関して一切覚えていないようじゃないか! 可哀想だなぁ、ディートハルト! あんなにアリシアのことが大切だったのに、歯牙にもかけられないなんて!」
 高柳の怒りは、悠に対してらしい。
 だが、厳密に言えば違う――いや、だめだ。
 苦しくて息が詰まり、正常な判断ができない。
「最期は本当に愉快だった! レオもディートハルトも、ああまで屈辱を感じたのはあれだけだったろうなあ、どうなんだディートハルト、答えろよ!」
「やめろっつってんだろ!」
 麗奈はどうしたんだ。そう思ったが、声に出すことはできない。
 怒りの剣戟が高柳に襲いかかる。彼が動いたことで涼子も反応し、瞬間的にハイヒールの痛みから逃れられた千影は、陸に抱きかかえられて後方に移動した。
 熱を持った痛みが、徐々に増していく。
「千影ちゃん、大丈夫? ごめんね、こんな、こんな怪我……」
 陸の方が泣きそうな顔をしている。遠い前にも、こんなことがあった気がする。
 耳からは、剣とムチの音が交互に聞こえてきた。
 千影は起き上がろうとする。悠を、助けなければ。どんなに嫌な奴でも、私のパートナーなんだ。
「あ、り、がと……大丈夫、離して……」
 だが、陸は決してその手を離そうとはしなかった。悲しい顔をしたかと思えば、怒った表情で千影を抱きしめる。
「駄目だよ。今度こそオレは千影ちゃんを守るって決めたんだ。あのふたりは規格外だ、大人しく兄貴に任せておいて」
 規格外。その言葉に千影は眉を歪ませた。そんな人間二人に、どうして私が狙われる必要があるのだろうか。
 いや、高柳の方は、千影の前世の知り合いだ。関わってくるのも当たり前かもしれない。しかし、ならば涼子と呼ばれたあの女性はどうして自分を狙うのか。
「でも、アイツ、左からの攻撃に、反応が遅れるんだ……」
 変身できるだけの気力は戻ってきた。意識する前にもう服は変わっている。ウンディーネの弓を高柳に向けて、千影は矢をつがえた。手は震えるが、それでも注意を反らせれば万々歳だ。
 照準を合わせることに手間取っていると、そっとその手を大きな手が支えた。
「……いいよ。オレの体は千影ちゃんのためにある。そのまま放って」
 敵だと知っていても、その言葉は心強かった。その間を越えてまでも、自分に味方してくれる陸に、千影の心は激しく揺れた。
 放った矢は、鋭利な氷をまとって高柳の頬をかすっていく。
 悠が鬼気迫った表情でこちらを振り向く。その瞬間その姿も、なにかに重なった。思い出せない。断片的な感覚で、彼女にはその詳細が思い出せない。
「千影っ!」
 彼が叫ぶのと、高柳が駆けてくるのは同時だった。反応しようと構える千影の前に、鮮やかに陸が立ちふさがり、高柳の剣を防ぐ。
 一方、悠は剣をムチで縛られ、拮抗状態だ。
「レオ、貴様はいつから僕に逆らえるほど偉くなったつもりだ? ひれ伏せ、奴隷め。氷蒼の人間でありながら、裏切りアリシアを守るのか!」
「おれは氷蒼である以前に、千影ちゃんの友だちだ。前世に捕らわれた考えは捨てろ。おれは絶対的に、この子の、味方だ」
 片手の槍で容易く剣を防ぎながら、陸はもう片方の手で千影を抱き寄せる。
 それは今までに感じたことのない安心感だった。
「陸! そのまま退避しろ! 結界の外でまで行動はできない!」
 ムチの束縛から逃れた悠は、剣を思い切り払い、構える。
「わかった」
 陸は千影を抱き寄せたまま、力で高柳を押し返した。千影は悠を置いて逃げることに抵抗を感じながら、陸の腕の中でもがく。
「陸くん、離してくれ! 悠を助ける! 守られるだけは嫌なんだ!」
「君は今、一番守られるべき人間だよ。兄貴なら簡単には死なない。紅蓮の負け知らずだ」
 悠は片手で手を上げている。その通りだ、と言いたいのだろう。
 有無を言わせず、陸は空間を切り裂いて外へと飛び出た。瞬間的に変身を解き、そこには砂場で遊ぶ子どもたちや、飛び交う鳥の歌声しか聞こえない。
 空間の歪みが確かに見えて、そこに入っていけるはずなのに――怖かった。
 あの圧倒的な強さを目前にして、なにもできなかった。悠なら、なんとかできると陸でさえも、悠に投げて、自分は安全な場所に立っていられる。
「千影ちゃん、こっち」
 千影を抱き上げた陸は、ベンチの上に千影をそっと下ろした。そして下から覗き込む。その顔は、心底彼女を気遣っていた。
 すぐ近くでは、悠がまだ戦っているはずだ。助けに行きたいのに、震える足が、彼女を再度あの戦場に戻そうとは思わせない。
「ごめんね、一人にするんじゃなかった。千影ちゃんが昔の記憶を少しでも得たこと、アイツが知ったらどうなるかわかってたのに……隠しきれなかった。ごめん」
 ただそう謝って、陸は千影の傷をそっと拭う。
「あ、あの、人達は……」
 声が震えて、上手く発音ができない。陸はそんな千影の手を包み込んで、さすりながら話を進める。
 どうしてだろう。前世からの仲間ということ以外にも、暖かい気持ちになる。
「佐原涼子。氷蒼の頭で、波原の命を狙っている。高柳仁、アイツはおれたちの前世の関係者だよ。千影ちゃん、覚えてない?」
「怖い、ことしか……」
 それ以外の感情はない。それが彼の気持ちを悲しくさせるものだとしたら、自分はなんと答えればいいのか。
 狼狽えていると、陸が千影を抱きすくめるようにして、耳元で呟いた。
「前世の君を、無理やり金で買って、無理やり結婚しようとした男だ。君が忘れているのも無理はない。オレは怒りでどうにかなりそうだ」
 それが、あの男の言っていた真実か。
 いや、うっすら気付いていた。だが、真実を目にするまで、耳にするまで信用してはいけないというのが千影自身の生き方だ。
「陸くん、氷蒼のトップの人の目の前で……」
「そんなことはどうでもいいんだ」
 裏切りなど気にしていない、そう捉えていることがありありとわかる声音で、陸は千影の頭を抱き寄せた。
「オレは君を守ることが全てだ。それに比べたら、氷蒼なんて」
 答えようとしたとき、不意に空間の歪みを千影と陸は感じた。感じた方を見ると、涼子と高柳はいない。血だらけで頬を拭う悠がそこに座り込んでいる。そして彼の息は荒い。
「陸くん、ごめん。アイツ、私守って怪我したから」
 千影はふらつく体を立たせ、ハンカチを持って悠の元へと駆け寄った。
「……奴ら消えやがった」
 息を吐いた悠の顔は、疲れ切っている。千影は怪我を治せない。恐らく、麗奈の力でないと治癒は無理なのだろう。
「いい、汚れるぞ」
「問題ない」
止められるのを振り切って、彼の頬の切り傷をハンカチで拭うと、ベッタリと赤い血が付いた。傷は浅いようだが、千影は不安になる。
「すまない。予想外だった」
 後ろから陸が歩いてきて、二人と同じ目線に合わせて座る。千影の視界横では子どもたちが不思議そうに自分たちを見ているが、大人が転んで大怪我したくらいに捉えてもらっていることを祈るだけだ。
「ひどいよね、兄貴の方が強いとか。オレの方強くしといてくれればいいのに」
「訓練しろ。アイツら二人相手は流石にきっついな。千影んとこ来るとは思わなかった。で、陸はこれからどーすんだよ」
 酸素を取り込んだ悠は、手が汚れるのも構わず地面に手を付けて空を見上げた。その金髪に太陽の光が透き通り、キラキラと光る。
「オレ? まあ多分氷蒼クビになったし、千影ちゃん守ろうかなーと思って」
「あっそ。じゃあ俺もある程度自由に動けるってわけだな」
 立ち上がって悠は、ポケットからタバコを取り出した。足は公園の出口に向いている。まるで早くここから立ち去ろうとしているようにも見えて、千影は一つ、聞いてないことを思い出す。
「悠、お前がディートハルトって……」
 背を向けて既に歩き出している悠は、一度立ち止まって横顔だけで千影を振り向いた。その口にはタバコがくわえられている。
「その名前に、聞き覚えは?」
「い、いや、ないんだが、忘れているなら……」
 ほんの一瞬だけ、彼は悲しそうな顔をした。それが彼の醸しだす「悲しい」という感情であることに気付いてなにか話そうとするが、それより早く悠が喋り出す。
「忘れてるなら、それでいい」
 そして傷だらけの顔を気にすることもなく、公園の外に出ていってしまった。
 陸の方を向くが、彼も黙してなにも語ろうとはしない。ただ子どものように拗ねた顔をして、明後日の方向を向いているだけだった。
「陸くん」
 話し掛けると、拗ねた表情を押し隠すようにして陸が笑った。
「ま、ディートハルトのことは気にしない方がいいよ。思い出してないなら、思い出さない方がいい」
「敵だったのか? いや、でも……」
「千影ちゃん」
 笑っている表情は本物だ。だが、さっきから表情筋が一ミリも動いていない。笑顔の仮面で、陸は千影に言い聞かせるように答えた。
「世の中には、知らなくていいことがたくさんあるんだよ?」
 その凄みに、千影はただコクコクと頷いた。

 顔の傷を乱暴に手の甲で拭い、悠はタバコの煙を吐き出した。
 頭の中には、千影の言葉が延々と渦巻いていた。
 いつ狙われるかわからない。気を抜いてはいけないと思っていても、その二人が発した言葉は強烈に心臓に刻みつけられた。
『い、いや、ないんだが……忘れているなら』
 生まれて物心ついたときから、自分には前世があり別の人生があったという記憶もあった。だからこそ、その言葉は重く突き刺さる。
 忘れているならば、それでいい。それは悠の本心だった。
 覚えてもいない過去の、更にマイナスな感情を、千影が持っている必要はないのだ。
 甘いタバコの香りが、また空へと吸い込まれていく。
 悠は一人で、歩き始めた。

 午後六時。陸は千影にくっついて離れず、とうとう紅蓮にまで来てしまった。
 入れていいものか躊躇していると「オレ氷蒼辞めてるから、いいよ」とアッサリ彼に答えられ、千影は恐る恐る紅蓮へと切り替える。
 階段を上がり、所長室にノックをする。「どうぞ」と淡々とした返事が来て、ドアを開けた。机の上で書き物をしていたらしい波原は、顔を上げて、首を傾げた。
「……悠じゃないな?」
「双子の弟の陸です。氷蒼にいまし」
 最後を言う前に、波原が千影の視界から消え去った。その瞬間、大きな音を立てて隣の陸も消える。
 ドアを突き破って消えていったらしい二人の方を振り返ってみれば、陸の喉元に剣を突きつけた波原と、波原の喉元に槍を突きつける陸の姿があった。
 その波原の瞳は、今まで見たこともない敵意を含んでいる。
「……千影、懐柔されたか」
 恐ろしいほどの声音で波原は千影に言いやった。
「ちっ、違いま……!」
「オレは氷蒼を辞めてきた。お前なら視えるだろう、波原。オレが何故ここにいるか」
 どうしたらいいかわからない。実際には数十秒だが、永遠と思える程の時間が過ぎたように千影には思えた。
 ようやく陸の喉元から剣を離した波原を見て、陸も槍をしまう。
 血を見ることはなさそうだ。
「裏切ったのか、わざわざ」
「オレは千影ちゃんに身も心も捧げる。千影ちゃんが氷蒼を倒すために力を貸してほしいと言えば、オレは躊躇いなく情報を吐く」
 千影が陸の服の袖を引っ張る。それは自分の好きな人と喧嘩をしないで欲しいという願いの現れだったが、陸は千影に視線を合わせなんでもないように微笑んでから、波原の方へ向き直った。
 見事に折れたドアは、破片を剥き出しにしている。
「それにしても全力で突っ込んできたな、波原。オレのことを信頼はしないけど、情報は欲しいだろ? どうする?」
 波原は不愉快そうに舌打ちをした。氷蒼の人間と彼が対面することすら想像していなかった千影は、波原に進言しようと口を開こうとした。
「あ、あの、波原さ……」
「千影」
 驚くほど冷たい無感情な瞳で、彼は千影を見た。その目は見下すようで、自分の知らない波原貴広を目の前に出している。
 これはきっと、波原の本性だ。
 千影はそう思いながらも、次の言葉を待った。
「手綱を握っていろ。裏切ってきたとはいえ、オレにとっては駒だ。いいな」
 気圧されて、千影はうろたえた。一歩後ずさると、その背中を陸の大きな手が支える。そうだ、部屋の外だ。柵があるが、このまま落ちるとエントランスだ。
「心配しなくても、オレは千影ちゃんの指示以外には従いませんけど」
 ずいと陸が前に出て、波原と向き合う。
 波原の方が背は高いが、長身の二人が並ぶと壮観だ。
 しばらく考えるようにして顎に手をやった波原は、やがて顔を上げて「隣の部屋で待っていろ」と、いつもの穏やかな声で伝えた。
 指示通りに部屋の中に入ると、彼はためらいなく豪華な赤いソファーに崩れ落ちるように座り込んで、大きな溜息をつく。
「はー、やっぱこえーなー波原。千影ちゃんよくあんなのといるね」
 力が抜ける思いだ。同じソファーの陸の隣に腰掛けた千影は、ふうっと同じく溜息をついた。
「あそこまで怖かったのは、初めてかも……」
 ふと部屋の中を見回してみると、その部屋は赤をモチーフにしているらしい。ドレッサーの白い机だけが存在を主張しているが、その他のランプや窓の枠に至るまで、赤で作られていた。
 と、陸から香るいい匂いが、ふいに強まる。
 抱きしめられている。離れようにも、陸の力は強すぎた。
「り、陸、くん」
「やっとあなたを守れる……あなたのそばで、あなたを、もう一度」
 泣きそうな声で、陸はそう呟く。自分を大切に想ってくれているのが、じんわりと伝わってきた。
 だが、その言葉に喜ぶことは決してできない。
 自分は彼を前世から縛っている。それに、記憶が定かではないのだ。
 縛られなくていい。
そう口にしようとしたそのとき、ドアが開く音が聞こえた。
「……まだ高校生がいちゃつくには時間が早いだろ」
 悠の渋い声だった。突っ込みたいところが何点かあるが、千影は慌てて陸から体を離す。と同時に、誰かが胸に飛び込んできた。
「千影―っ! 悠から連絡もらってびっくりしたよ、怪我は? いま治してあげるからね! って……あれ?」
 本気で泣きそうになっている麗奈だった。すぐに暖かい光が千影を包み怪我を癒していくが、その鋭い視線は陸に注がれていた。そして陸と悠を、交互に見つめる。
「……初めまして。悠の双子の弟の、蓮見陸といいます」
 困ったように笑って陸がそう答えるが、瞬間、麗奈の眉がつりあがった。
「あんた氷蒼にいた奴じゃないの、千影になにするつもりっ」
 陸に掴みかかりそうになった麗奈をおさえ、千影は声を張った。
「ち、違う違う! 陸くんは私の味方なの! 氷蒼辞めてきたの! だから麗奈が心配することはなにもないの!」
「へえ……」
 麗奈が反応するよりも早く聞こえてきたのは、凄まじいほどの殺気を込めた低い声だった。部屋の外から、樹が入ってくる。紅蓮にいると思って、先に来てたのだろうか。
「いっ、いつ、樹……?」
「千影、一人でいなくならないでって言ったよね? 帰り何処か寄るときはオレを連れていくこと、遅くなるならオレが迎えに行くって、約束したよね?」
 千影の顔が引きつった。状況自体はとてつもなくシリアスなのに、この状況のせいでコミカルにも思えてくる。
 悠は、自分と千影が偽の恋人であることをバラす気はないのか、なに食わぬ顔で助け舟も出さず、マグカップを持って部屋のポットからコーヒーを出していた。
 麗奈はなにがなんだか把握できていない顔をしながら、そのままの状況を見守っている。
「いや、まあ、それはそうなんだけど……」
「へー、お前が千影ちゃん今まで守ってくれてたんだ。ありがとうな。今からおれが千影ちゃん守るから、お前はもういいよ」
「は? お前なに言ってんだ?」
 激しく樹と陸が睨み合う。これはなにか、色々な意味でまずいことが起こるんじゃないか。緊迫した空気が部屋の中を支配していた。
 しかしまたドアの開く音がして、大人の女性、棗が立っている。
「……あら? 貴広くんに呼ばれて、コーヒー持ってきたんだけど、喧嘩?」
「手伝いますよ」
 悠が何気ない口調でそう言って、棗の持っていたトレイを持ち上げた。空気はいまだ重いままだ。コソリと麗奈が千影に耳打ちしてくる。
「ね、陸って人、大丈夫なの?」
「う、ん」
 首を縦に振った千影をまじまじと見つめて、麗奈は真実を確認するようにした。陸が誰かに対して意味もなく危害を加えるわけがないと千影は確信していた。
 一瞬だけ、まぶたの裏に映像が浮かび上がる。

『アリシア様、オレの体は血の一滴まで貴女のものです。貴女が白を黒と言えば、オレにとってそれは黒です。そのことをお忘れなきよう』
 自分を抱きしめて、愛しい者にかける甘い囁きで、陸はそう言った。

 映像が一瞬にして戻って、千影は目を瞬いた。魂が、少しずつ陸を受け入れる。そんな気がしていた。

 そのあとすぐに、波原が部屋に入ってくると空気が変わり、より一層ピリピリとし始める。
 波原は奥にあった机の上に腰掛け、棗の入れたコーヒーをすする。空調がきいているせいか、少し肌寒い。
「さて」
 陸を一瞥する波原の視線は、明らかに氷蒼を裏切って寝返った陸に対する不信感だ。
そんな彼の視線を軽く受け流して、陸はそのままソファーに座り続ける。
「氷蒼から寝返った奴が紅蓮に来た。悠、お前の弟で間違いないな?」
 腕を組んで窓際に寄りかかっていた悠は顔を上げ、手を上げる。
「正確には双子の弟だが、間違いない。まあ、千影の犬みたいなもんだ。信用してやれ。俺が保証する」
 人のことを犬とはなんという言い草かと、千影は悠に反発しようとする。しかしその服の裾を、陸がつかんで軽く首を振った。「いいから」と言っているように思えて、千影は仕方なく腰を下ろす。
 代わりに立ち上がった陸は、頭を下げた。
「蓮見陸です。オレは前世の彼女に仕えていました。現世でもそれは変わりません。千影ちゃんに誓って、オレは裏切らない。もう一度この子を守ることが、オレの目的だから」
 そんな虫のいいことを、と聞こえよがしに呟いたのは樹だった。麗奈は信用に値するのか微妙な視線をしているし、棗は複雑そうに頬に手を当てた。無理もない。陸だって、涼子の指示に従って人を殺してきたのだから。
 波原は思い切り机を蹴った。全員がそれに注目してから、彼は口を開く。
「弟、氷蒼に寝返ったらぶっ殺す。あくまでお前はオレが利用しているだけだ、立場をわきまえておけ」
「オレはあんたに信頼してもらおうなんて思っていない」
 ツンと言い放った陸に、千影の背筋が凍る。そんなことを言ったら。波原はここの誰よりも、強いだろうに。
 陸の言葉を無視して、波原は全員に言い渡す。
「そういうことだ。いいな。……で、千影、報告をしろ」
 千影は顔を上げた。そうだ。話すことがある。
「あ……。今日、氷蒼のトップの人に会いました。波原は私の獲物だ、と言って、そのあとは悠が対処してくれたから聞いてないけど……」
「高柳っつう胸糞悪いガキがいる。そいつはハナから千影狙いだ」
「あっ!」
 悠が補足をしてから、麗奈は声を上げた。その様子を、訝しげに樹が見ている。
「朝学校で襲ってきた奴!? ってかクラスメイトじゃん!」
 麗奈に掴みかかりそうになった樹の前に、千影が立ちふさがった。
 良かった。彼の行動が読めていて。
 背後にいる麗奈は、何事かと千影の背中を見上げている。
「……千影、おれの言いたいことわかるよね」
「わからん」
「本気でそう言ってるわけ……?」
 ゆらゆらと怒りの炎を出しかけている樹を、千影は冷たく睨みつけるようにする。
「危なくなったのは、私が危機管理をしていなかったからだ。麗奈は関係ない」
 一瞬樹が怯んだ。
今までのことはありがたい。自分を守ってここまで来てくれたことも、一緒にいてくれたこともありがたい。だが、これは違う。
「千影を守れないような奴が千影の隣にいてどうする!」
 頭を殴られたかのような衝撃と共に、勝手に腕が振り上がっていた。
 容赦無い千影の平手打ちが、樹の頬を打つ。彼の頬を殴った手が痛い。
 足りない。掴みかかろうとしたが、悠が動いて千影の体を流石に羽交い絞めにする。目からは、涙がボロボロと落ちていた。
 どす黒い、裏切られたかのような気持ちがずっと渦巻いていた。
「……そんなこと考えて私と一緒にいたの?」
 悠が羽交い絞めにしていた姿勢から細く白い手首をつかんで、波原に目を合わせる。
 このままではヒートアップする一方だと考えたのだろう。完全に呆れた表情で、彼は強引に千影を引っ張っていった。
「頭冷やさせてくる」
「ああ」
 事の流れを知っているからか、千影と樹の関係性を知っているからか、波原は特に咎めることもなく片手を上げて悠に応じた。そうして誰よりも早く、千影と悠はその部屋を後にする。
 泣いて視界が見えない。どこを歩いているのかもわからない。
ドアが開く音がして、そっとソファーの上に降ろされる。
 泣き続けていると、隣に座った悠がポツリと口を開いた。
その声は呆れているようにも思える。
「まあ、お前も残酷っつーか……仕方ないか」
「な、に、どういう、こと」
「なんでもねえ」
 そこまで言うなら、いっそ最後まで言えばいいのに。そう毒づくと、悠は「そんな口が聞けるなら大丈夫そうだな」と苦笑しただけだった。
 弱っているときに背中を撫でられると、余計に涙が出てきてしまう。見せたくないがために、千影は悠の両腕の生地を掴んで下をうつむいた。ここで悠に貸しを作るようなヘマはしたくない。とはいっても、この状況が既にそうなっている。
「不覚だ……」
 しゃくりあげながらそう言うと、軽く頭を叩かれる。この間のような叱責ではなく、からかいの力加減だ。
「俺に貸しを作りたくなきゃ、とっとと強くなることだな」
 立ち上がって悠は、伸びをする。さっきの空気が窮屈でな、と言ってから、窓際に腰をあずける。千影はようやく涙が引いてきた頃だ。鼻をすすって、涙を制服の袖で拭く。
「落ち着いたか?」
「……問題ない。迷惑をかけた。ありがとう」
 なにはともあれ、会議を台無しにした上に樹をひっぱたいたのだ。謝らなければならない。自分を護衛対象としてしか見ていなかった樹に腹は立っていて、謝りたくもなかったが、それと話は別だ。
 悠は特に気にした様子もなく、大丈夫なら、とドアを開けた。
「あっ、兄貴! 千影ちゃんに変なことしてないだろうな!」
 ドアの外からは、陸の騒ぎ立てる声と面倒くさそうに嫌悪感丸出しの悠の声が聞こえてきた。
 樹にどう対応していいのかと思いながら廊下に出ると、陸はすぐさまハンカチを千影の目元に当てる。端正な顔が目の前にあって、千影は思わず陸から目を逸らした。
「千影ちゃん、とりあえず話は終わったよ。あの樹って奴は帰った。みんなの雰囲気は正直オレがいるから微妙だったし、さっさと退散してきた」
「波原は最終的になんだって」
 そういえば、と悠が部屋に戻ってくる。
「うん、まあとりあえずオレは一人で仕事行ったり、氷蒼の情報をチクることが先だって。あとは裏切る様子が少しでもあればぶっ殺すって言われたくらいかな」
 別に気にしないんだけど。そう答えて、陸は兄を見た。
彼は涼し気な顔でタバコを取り出して、ライターで火を点けようとしている。しかしオイルがなかったのか、火はなかなかつかなかった。
 舌打ちとともに悠はタバコをしまって、その鋭い瞳で陸と視線を合わせる。
「……千影、陸から高柳のことは聞いてんのか」
「あ、ああ……。前世で、どうやら買われていたらしいな」
「そういうことだ。時間が空いていれば俺も迎えに行く。今度こそアイツをぶっ殺せるかもしれないからな。気を付けて帰れよ」
 そう言って足早に部屋を出ようとした悠を、今度は陸が止めた。
「兄貴」
 立ち止まった悠は、訝しげに振り返る。
「オレ、これから用事あるんだ。千影ちゃん家に送って行ってくれないかな。ここにいるわけわかんない奴らに送らせるより、兄貴の方がまだ安全だ」
 十分に戦えるから大丈夫だと断ろうとしたが、千影は先程の恐怖を思い出した。圧倒的な強さと、それを看破できなかった自分の弱さ、そして、それに対抗できてしまう悠と陸の強さ。
 悠を見上げると、彼は数秒黙した後に口を開いた。
「わかった」
 ソファーから立ち上がり、千影は冷たいドアノブに手をかけた。
「陸くん、また明日」
「うん。またね。ばいばい」
 陸は笑顔で千影と悠を見送る。
 他のメンバーは帰ったのだろう。移動してきたであろう部屋からは、もう誰の声も聞こえない。


第7話へ続く


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