結果として翌日、千影の頬は腫れに腫れた。朝食を持ってきた樹が思わずトレイを落として皿を全て割るレベルだ。
そのうろたえようで、どのくらい自分が酷いかという状況を改めて思い知る。
「ちっ、ちっ、千影、誰にやられたの、氷蒼? 今すぐ殺しに」
「大丈夫大丈夫。なんとかなったから」
にっこりと答える。これで悠に殴られたと言おうものなら、樹は悠を殺しに行くだろう。
それよりも、と落とした食事を片付けようと、割れた食器に手を伸ばす。しかし素早く樹の手が千影の手首をつかんだ。
「オレが片付けるからいいよ。余ってるご飯の鍋とか持ってくるから、一緒に食べていい?」
声は柔らかいが、樹の瞳は一切笑っていない。
これは怒っている、と千影は判断を下した。
「心配、してる?」
おずおずと千影が問う。彼は一瞬キョトンとした表情をしてから、彼女の頭を撫でた。包み込むような優しさが込められているとしか思えない、ふわりとした力加減だ。
「してるよ。千影のことだもん」
「うん」
申し訳ない反面、嬉しかった。
花のような笑顔を浮かべた千影の顔を見て、樹は一瞬動きを止める。
彼の手が自分に伸び、抱きしめられたとわかったのは数秒後だ。中学生の頃から背が伸びた彼に抱きしめられたのは、久し振りだった。
しかし恥ずかしさの方が勝る。その腕から逃れようと、彼の感情を鑑みる暇もなく千影は体をよじった。しかし樹の腕の力はどんどんと強くなっていき、彼女が息苦しくなるほどまでになってしまう。
「い、樹」
「……うん」
なにか言葉にし難い感情が、樹の中を覆い尽くしていた。それがなにか、樹には知り得ない。しかし、幾度と無く千影に対して感じてきた、胸が締め付けられるような感覚だ。
いつか自分を救ってくれた千影は離れていってしまう。
わかっていても、今は一緒にいたい。
「なにかあったら、すぐオレに言って。千影のためなら、オレ、どこでも飛んでいくから」
開けてはいけない蓋だと、樹は思った。
体を離し、その暖かさを脳に刻みながら、彼女に背を向ける。
千影は樹に踏み込むことはできなかった。
「それじゃあ、片付けるから。中に入ってていいよ」
それだけを言って、樹は彼女に背を向けたまま落ちた食器を片付け始めた。
登校し教室につくと、樹はすぐ友人から声がかかる。一瞬千影の方を見るが、彼女が微笑んで手を振ると、彼は自分を気にかけながらも会話の中に入っていった。
朝のホームルームの十五分前だからか、生徒は比較的多い。
カバンを席に置いて、千影は教科書を取り出した。
昨日平手打ちをされた頬に湿布をしているからか、周りの視線が好奇心に満ちている。
あらぬ邪推をしているのは、その視線からしてわかっていた。
きっとそれが自分の耳に入ることはないし、わざわざ真正面から聞くのも馬鹿らしい話だ。
いつものように諦めて席につくと、程なくして目前に影が落ちる。
「おはよう、高里さん」
昨日聞いた声ではあるが、オクターブが一つ高い。
それに鼻にかかった、甘い感じ。どうにも危険な感覚がする。今すぐにでも逃げ出したい。
そう思いながら彼女が顔を上げた先にいるのは、勿論、黒木麗奈だ。
サラリと頬にかかる黒髪を、丁寧に耳にかけて、その猫目で千影を見る。
「……おはよう」
昨日「氷蒼を殺せない」という醜態を晒したあとだ。どういう表情をしていいのかわからず、千影は目をそらした。
「ね、まだ時間あるし、一緒に中庭行かない? 前から高里さんとお話ししたいなって思ってて」
答えに困った。周囲からの視線もあるが、なにより昨日の麗奈とは百八十度も態度が違うのが、怖い。
それでも断ろうと口を開くが、有無を言わせぬ力で、麗奈は千影の腕を引き上げた。
がたんと、椅子の音が鳴る。
「売店でなんか買って食べよ!」
返事をする前に、千影は彼女に連れられて教室を出ていく。
朝の中庭には、そうそう人が集まることはない。二人が着いたときも、そこに人はひとりとしていなかった。
馴れ馴れしく掴んでいた手を離して、麗奈は冷たい視線で千影を仰いだ。
先ほどとは、全く違う。
「なんのつもりだ、って思ってるでしょ?」
「そりゃ、まあ」
千影と悠が一緒にいたことに対して、よく思われていないのだろう。
せめてもの救いなのが、千影が悠の連絡先を知らないことだ。
偽の恋人関係であろうが、連絡先を教えるつもりはなかった。
そんなことをしたら、毎日連絡が来て、振り回されること確実だ。学校もあるというのに、そんなわがままに付き合っていられない。
「昨日、あれから悠と話してたんだけど」
麗奈が空を仰いだ瞬間、周りが赤黒い異空間に包まれる。思わず千影も空を見て視線を麗奈に戻した瞬間、彼女は昨日見た黒いローブ姿になっていた。
フードの下から見える赤い瞳が、恐怖を呼び起こす。
本物の殺意を、向けられていると、千影はうろたえていた。
「一回手合わせしましょうか。あたしだって後衛なのに、悠のパートナーになったことはないの。何故なのか、知りたいわ」
「公私混同するからだろう」
今のように、とは言わなかった。家の中で耐え忍んだぶん、元々の千影の怒りボルテージは短い。真正面から売られた喧嘩は、絶対に逃さず買ってきた。
その言葉が気に障ったらしい。
麗奈の手の平で踊っていた炎が、より威力を増して瞬いた。
零れる台詞が、千影を見下していた。
「でもあんた、近接でしょ? あたしに勝てるのかしら」
「やってみなければわからない」
突風のあと、千影は巫女の姿に変化している。手にはサファイアの弓矢、ウンディーネが握られていた。
矢をつがえた千影に向かって、炎がうねりをあげて突撃していくが、彼女は動じることなく凌いだ。
右手の指の間に三本の矢をつがえて、それを放つ。
どうやら当たりの五割らしい。矢は水を伴って麗奈の炎を消し去り、相殺されて消えていった。
千影はすぐに赤く歪な剣、フェニックスを取り出し、構えて麗奈に斬りかかっていく。
麗奈は周囲に氷を展開し始めた。それは鋭い刃になり、透明度を増していく。
麗奈の懐に飛び込んで剣の柄を叩き込もうとしたとき、自分の懐の前で開いた手から雷が飛び出てくる。
意識が飛びそうなくらいの痺れに襲われた千影は、後ろ足で踏ん張りながらも剣を地面に突き刺す。
顔を上げた瞬間、千影の目の前に飛び込んできたのは、炎の海だった。
「シルフッ!」
咄嗟に千影は叫んだ。炎の剣を携えたまま、千影の眼前に翡翠の盾が展開する。麗奈の炎は盾を貫通することができず、遮られて消えていった。
危なかった。やはり麗奈は本気で千影を殺す気だ。
味方に殺されるなど、あってはならない。
まだ波原の願いを達成できていない、今なら余計に。
「あんた、甘いのよ」
顔をあげてみれば、麗奈の顔は冷酷に歪んでいた。
なにが、と口に出そうとするが、その声はかすれて出すことができない。
「殺すつもりで来ないから隙を突かれるんでしょ。昨日みたいに」
はぁ、と麗奈は大仰な溜息をつく。
それはそうかもしれないけれど、味方に対して殺す気でかかるだなんて。
「君は味方だろう!」
麗奈はその意見を否定するように、眉をひそめた。
「悠のパートナーに選ばれたあんたが気に食わない。味方だなんて思ってない。あたしの方が強いのに」
本当に悠のことが好きなのだろう。
嫉妬の言葉を受けて、千影は苦々しく思う。自分が決めたことじゃないのだから、文句があるなら波原に言ってほしいとしか思えない。
「そんなの八つ当たりだ」
「そうよ」
ポツリと呟いた言葉に秒速で返されて、千影は面食らった。
それも、堂々と自分の言葉を認める内容だ。
千影が悠とペアになったのは事実だ。
だからこそ、この件に関してなにかを言うことはできない。
なりたくてなったわけじゃない。そう思っていても、この場で口に出すべき言葉ではないことはわかる。
ただ無言でいると、突然麗奈が目を見開いた。
それは自らが作った領域に何者かが侵入してきたときにのみ覚える違和感であり、空間の製作者にしかわからないものだ。
背後を振り返った麗奈は動くことができない。
千影も彼女の変化に気付き、人の気配を感じて後ろを向いた。こんなところに入ることができる人間は、基本的にいないはずだ。
蛇のように狡猾な視線を二人に注いでいるのは、同じ制服を着た男子生徒だ。
色素の薄い瞳を細めて、麗奈と千影を無遠慮な瞳で舐め回すように見つめている。それは酷く、不快な視線だった。
氷蒼、紅蓮。この二つの組織以外にこの空間を創れる者がいるのか。あるいは、氷蒼なのか。
「誰だ」
千影は一歩一歩慎重に歩みを進めながら、彼女を守るように、前に立った。
「君と同じクラスの高柳仁(たかやなぎ ジン)だよ。覚えてないなんてひどいなあ。まあ紅蓮の中でも僕に会ったことがあるのは、えーと、ユウ? ってやつだけだしね」
同じ前世の時代に生きたものならば、お互いに能力を持つ者だということはわかる。
高柳に持つそれは圧倒的な既視感だ。
背筋が粟立ち、動けなくなる。
絶対に関係者なのに、思い出すことができない。ただ残るのは、その恐怖と震えだけだ。
フェニックスをそのまま構え、千影は高柳を睨みつけると、彼は薄く笑っていた。
自分たちを殺すつもりなのか。
いや、それはできないはずだ。
「ここは学校だ。私が死ねば、死体は学校に残る。いま私達を殺すのは、お前の本意ではないな?」
それを聞いた高柳は、高笑いをした。
空間の中に声が響いて、ぐわんぐわんと反響する。
次の瞬間、千影は懐に衝撃を感じて吹っ飛ばされた。
息が止まりそうだ。結界の壁がぶつかることを防いでくれたが、それでも腹部は強く痛む。
麗奈が危ない。そう思って起き上がろうとした千影の後頭部を、高柳がわしづかんだ。
目の前には、西洋人形のように整った顔がある。
病的に肌が白く、そこに人間味は残っていない。幽霊のような不気味さを感じさせるものだ。
「殺すのは、に限っては正解だね。別に僕は、君たちをどうするつもりはないよ。痛めつける気はあるけど、血の出ない方法でね」
歪んだ笑みで言われれば、余計に恐怖が増してくる。悠はいない。自分が麗奈を護らなければいけないんだ。
壁に後頭部を打ち付けられて、千影は痛さに顔を歪めた。高柳が喉で笑う。
それは嬉しそうだ。新しいおもちゃを買ってもらった子供のようで、上を向いて笑い始める。
「ああ、いいねえその顔! 綺麗な子が痛がるの、大好きなんだ」
麗奈と目が合う。彼の雰囲気に飲み込まれているようだが、手は震えながらも炎を出している。
普段の雑魚ならまだしも、コイツは違う。
千影は唇だけを「逃げろ」の形にした。
しかし、麗奈は首を横に振る。
二人のその動作に気付いたのか、千影を地面に投げ捨てて、高柳は麗奈の方向を見た。
シルフは千影の前にしか展開しない。
咄嗟に千影は、シトリンの短剣を高柳の靴に突き刺した。
無言で彼が千影を見る。怖くても、自分の目の前で誰かが傷付くのは嫌だった。それを、きっとこの男はわからないだろう。
心の底にあるのは、この男に対する凄まじい怒りと憎しみだった。
一瞬、彼の姿がなにかと被った。
フィルムが自分の中を駆け巡っていく。暗くて全景は見えない。だが……
私 は こ の 男 を 、 知 っ て い る 。
高柳の靴に刺した短剣をねじ込み、決して逃さまいと歯を食い縛る。
「私を先に殺してみろっ!」
叫んだ。彼女にとっては恫喝だ、しかし高柳にとってはどうかわからない。
それでも良かった。麗奈から気をそらせれば。
彼女のことは好きかわからないけど、それでも、知ってる誰かをむざむざ殺させるだなんてできない。
またもや大きな笑い声が空間内に響いた。
「君は僕がじっくりと殺してあげよう。元々今日は殺すつもりじゃなかったしね。楽しみにしているよ、アリシア」
制服のポケットに手を突っ込んで、高柳は空間の中から消え去っていった。
少ししてから、やっと震えが止まる。
いつか倒さねばならないのは確実にアイツだ。
空間が消え去ると同時に、千影と麗奈は変身を解除した。平常な精神を保っていられなかった、とも言うかもしれない。
生傷が増えている。あとで保健室に行くべきか黙っておくか、深く考えそうになった。
また樹に怒られるかな、と思いながら千影は立ち上がって麗奈の方向をを見ると、下をうつむいたまま立ち止まっていた。
「怪我は」
キッと麗奈が顔を上げた。その眼力に思わずたじろぐと、彼女は自分の手を引っ張ってベンチに座らせる。
「あんたがあたしを守ろうなんてねえ、百年早いの! 怪我したところ出してよ!」
そういえば痛かった気がする、と思っていると、ふと青色の空間の中に包まれた。暖かみのある光が千影を包み、後頭部の痛みや頬の殴られた怪我まで消していく。
治癒されているのだと気付いたのは、手の傷がなくなってからだった。
さっきまで自分に敵意を向けていたはずなのに、その変わり身の早さはなんなのか。すっかり狼狽してしまう。
「……でも、ありがと」
別に認めたわけじゃないんだけど、と後に加えて麗奈は顔を赤くしていた。
「とりあえず」
怪我が治ったのを確認してから、麗奈は千影の隣に座った。
空間の中では時間も止まるらしい。体感ではとっくに十五分は経っているのだが、チャイムの音が一向に聞こえない。
「あんたが向こう見ずのバカだってことはわかったわ。お人好しだってこともね」
褒められているのか、けなされているのかわからない。しかし、決して悪い意味で言っているわけではなさそうだ。
どう反応を返していいか判断できずに黙っていると、ふと麗奈が千影の前に立って頭を下げた。
「怪我させてごめんなさい」
先のツンとした表情ではなく、純粋な謝罪だった。
今の一体なにで彼女が変わったというのか。
千影にはそれを理解することができず、ただ手を横に振って、とんでもないという意志を表明するだけだ。
「いや、その、それだったら、黒木さんだって、っていうか、怪我くらいはするし」
「うるさいわね、早く教室に戻るわよ。あと、あんたとあたし、今から友達だから。いい?」
さっきからどう反応していいかわからないくらいに、凄い言葉を浴びせかけられている気がする。
友達とは、そのような段階を踏んでなっていくものだったろうか?
当の麗奈は一切千影の顔を確認せずに、後ろを向いて空間を消し、スタスタと教室の方向に歩いていった。
その瞬間、予鈴のチャイムが鳴り響く。
ショートホームルームは既に始まっている。今からでは、どうせ遅刻扱いだ。諦めよう。
「くっ、黒木さ」
千影が名前を呼んだ瞬間、麗奈はピタリと止まって、ずんずんと歩いてくる。鼻先まで麗奈が来て、思わず一歩後ずさってしまった。
「れ・い・な! そう呼ばないと無視するから! 無視!」
「え、えええ……」
麗奈はすぐに早足で歩いていく。
どう反応したものやら、という顔をして千影は、麗奈のあとへとついていった。
戻ってきた千影と麗奈を出迎えたのは、もちろん樹だった。腕組みをして、教室内からは決して見えないようにドアの端に立っている。
「い、樹、ショートホームルームは」
「オレはいま、腹痛でトイレに行ってる。おい黒木」
ギロリと樹が麗奈を睨みつけた。本来ならば、彼がこんな視線を送ることはないはずだ。
麗奈は怯えたが、すぐに下から樹を睨み返す。
「な、なによ。あたしは千影と友だちになろうと思って……いいじゃない、別に。あんたになんの関係があるってのよ」
「なにが友だちだ。千影に近付くな」
どうあっても樹は、自分以外の人間を千影に近付かせたくはないらしい。それがわかってから、千影は慌てて睨み合っている二人の間に割って入る。
「あっ、ほ、本当なの! 私が友だちになりたくて、れ、れ、れ、麗奈を誘って、ね! だから樹、そんなに怒らないで……大丈夫だから」
もう取り繕う体裁もない。
彼の自分を思う気持ちに感謝こそすれど、麗奈に被害を出させるわけにはいかない。
彼女が仲間だと知ってしまったなら、なおさら。
千影がそう思ったのは、少なからず、「女の子の友だち」が欲しい、という理由があるからだった。
もし麗奈と本当の友人になれて、ショッピングやケーキの美味しい喫茶店に行くことができたら。
可愛い服を選びに行って、海に行ったり、誕生日にプレゼントを渡したり――そういうことが、できるはずなんだ。
千影はそんな一場面を思い浮かべていた。
冷や汗を流しながら、ぎこちない笑みで十数秒樹を見つめる。
その少し後に、樹は長い長い、肺の空気を全て吐き出した溜息をついた。
「……わかった」
千影は思わずホッと息をついた。麗奈の手は心配げに千影の制服の袖を掴んでいる。
「千影たちは先に入って。オレは後から行くから」
あ、拗ねた。
そうわかるのは、長い間彼と行動を共にしている千影だからこそだ。
樹は背を向けて、何処かへと歩いていく。
「ちょっと森谷! 何処行くのよ!」
「トイレ」
ぶっきらぼうにそれだけ言い放って、彼はトイレとは全く別の方向に消えていった。
麗奈と顔を見合わせて、微妙な居心地で千影は目をそらした。ここから仲のいい友人として振る舞っていくには、色々と考えなければいけないところがある。
「……麗奈、私クラスとか学年で評判悪いけど」
「そう、それよ。あんた馴染まなさすぎ。連れ回すから覚悟してよ」
麗奈は千影を思い切り指差す。
その表情には必死さも混ざっていた。
自分の誰かに対する行動が麗奈に悪影響を及ぼすことはないだろうに、と思いながら首を傾げていると、鋭い言葉が飛んできた。
「あんた高嶺の花って近寄りがたいって思われてんの。いい、あたしの言うこと聞きなさいよ」
完全に上から目線だ。千影はそのまま流されて頷いてしまう。
相手の押しに弱い千影は振り払うことができない。
これからカラオケとかに行ったりすることもあるのだろうか――そう考えて、ふいに聞いてみたい気持ちになってくる。
教室に入ろうとする麗奈の腕を、千影が掴む。
「な、なによ」
若干気圧された感じで麗奈が振り向く。
千影の口から放たれた言葉は、麗奈にとってあまりにも予想外なものだった。
「……放課後にアイスとか、一緒に食べてくれる?」
言われて麗奈は、動きを止める。
ドアの向こうから担任が怪訝そうな瞳でチラチラと二人の方を見ていることにも気付かず、二人は黙り込んだ。
しかし照れたように頬を染めた麗奈が、ドアを開けるのと答えを言うのは同時だった。
「行くに決まってんでしょ! 今日行くからね、むしろこっちから連れてくっつーの!」
結果として放課後、樹は置いていかれることになる。
掃除当番がない千影と麗奈は、授業と帰りのショートホームルームが終わるなり走って出ていく。
無論千影が樹から逃げたかったという理由ではない。そんなことをすれば、一生彼は口を聞いてくれなくなるだろう。
樹がついてくるのを嫌がった麗奈による強行手段だったが、千影の場合帰宅すると、きっと合鍵を持った樹がぶすっとした表情でリビングに頬杖をついて座っているに違いない。
それを考えると、この行動はよろしくないのだが、麗奈曰く今日は街のショッピングモールを連れ回すらしい。
校門の外に出てから、指折り食べ物や店の名前を挙げ始める。
「んー、まずはクレープでしょ、それからアイス、あとパスタ!」
「そ、そんなに食べるのか?」
「大丈夫、悠のおごりだから!」
そういう問題じゃないとツッコミそうになってから、え、と千影の顔が強張る。どうあっても悠に貸しを作りたくない。
いま断って帰ろうかとさえ思ってしまうが、出掛けるのを楽しみにしていたことを思い出す。
なので、どう伝えたものかヤキモキしている間に電車に乗せられ、街につき、駅についた先には当然のように悠がそこに立っている。
いつ連絡を受けたんだ。っていうか帰れ!
と言いたい気持ちを全てこらえて憮然とした表情で、千影は悠を睨み付ける。
「よう。女子高生二人、いいねぇ」
悠は一回千影を見てから、フフンと鼻を鳴らす。それに対して噛みつかんとせんばかりの視線を向けていた千影は、歯を食い縛ってそれに耐えた。
「ね、おごってくれるんだよねっ」
「俺の財布の中身を考えてくれればな」
苦笑いをしながら、悠は麗奈の頭を撫でる。彼女の瞳が輝き、千影の手首を取った。
そのあまりの嬉しそうな姿に、引くに引けなくなった千影はこれまた引きつらせた笑顔でそれに応える。
「まずクレープね! 悠、あっちあっち!」
急ぐ麗奈の背中を眺めて、後ろを歩くのは悠と千影だ。二人は笑顔を崩さないまま、ひそひそと会話を始める。
「なんで来た」
「ご挨拶だな。せっかくおごってやるって言ってんだろ、大人しく好意に甘えてろよ」
麗奈がこちらを振り向く気配はまだない。千影は一瞬だけ人を刺し殺すような視線を悠に向けた。
「お前の好意に甘えるほど落ちぶれてはいないな」
「なんだって?」
怒りを孕んだ瞳を、悠は彼女に向けた。二人の笑顔が崩れ去って、一触即発の雰囲気になる。周りを歩く人々は一体なにがあったのかと、チラチラ二人を見るがその雰囲気を押しつぶすほどの殺気だ。
ゆっくりと、悠は千影を見下した。下から彼を睨めつける彼女の視線と、かち合う。
途端麗奈が振り返って、満面の笑みで二人の方を向いた。
「早くおいでよ! こっち!」
一瞬にして二人の不穏な空気は消え去り、次の瞬間には柔らかい笑みの千影と、王子のように優雅な笑顔を浮かべる悠がそこに立っていた。
また一切表情を変えることがないまま、こそこそと会話する。
「今日は麗奈ちゃんのために奢られておけよ」
「不服だが言われなくてもそうする。あと奢りじゃなくて貸しだ。キッチリ返すから逃げるなよ」
そう言うと千影は悠を置いて、先に麗奈の元へと走っていく。
弱味を握ってはいても、彼女自身の気持ちが悠に向かなければ意味がない。どう落としていこうか、と悠は考えながら二人の後をついていった。
最初は麗奈との距離感が持てずに戸惑いがちだった千影も、その内に距離がつかめてきたのか、チラホラと笑顔が見え始める。
男一人、女二人であれば、男一人の役割は荷物持ちと相場が決まっている。
手ぶらで財布だけを入れて来ているために、悠にとって特に負担になるようなことはない。
両手にたくさんの紙袋を持ってふと視線を上げると、一人の男と目が合った。
ずるりと背を這うような冷たさを持つ視線だ。それに千影と麗奈は気付いていない。
悠の視線の少し先にいたのは、高柳仁だった。品定めをするように、二人――いや、千影を見ている。
高柳仁は悠の天敵だった。以前も自分の邪魔をし、今回も自分の邪魔をするのか。
千影が高柳の気配に気付いたように、顔を上げた。そして顔を見て、固まる。
咄嗟に悠は、千影の手首をつかんでいた。蒸し暑い中だというのに、彼女の手は氷のように冷たい。
体温が下がっているのか、それとも、奴のことを思い出したのか。
悠はひとつだけ、千影に伝えていないことがある。
条件反射にも近い速度で、高柳が千影に向ける視線から守るようにして彼女を背中にかばった。
雑踏の中で、悠と高柳の視線がぶつかり合う。制服姿の高柳は、目を細めてそのまますっと人ごみの中に紛れていった。
「……悠」
キョトンとした表情で、千影は悠を見上げる。手首は強く、痛いくらいの力で握られていた。彼女はその手の強さに、魂の記憶があった。誰かが、昔の自分の手首をこうして握っていた。
それもきっと、陸だろう。いや、そうなのか?
横の麗奈は不思議そうに首を傾げている。
千影は慌てて悠の手を振り払うと、腕組みをして今度こそ隠せなくなった敵意で悠を睨みつけた。
「なんなんだ」
「……いや」
悠のただならぬ様子を見て反応に困りながらも、千影は彼から視線をそらす。
何処か懐かしいその手の感覚は、彼女の心臓の奥をきゅうっと締め付けた。
クレープを食べ歩き、視線に入る店に真っ先に走る麗奈と千影、それを追う悠ではあったが、その後ろを歩く悠の様子が真剣な表情になっていることに、千影は気付いていた。
心配する道理もないが、普段ああまで自分をナメてかかる悠がその様子を微塵も見せないことが、過剰なまでに気にかかる。
心配しているのではない。
そう千影は自らを納得させながら、麗奈の案内で近くのパスタ店に入る。あまり入りそうではなかったが、飲み物だけでもいいらしい喫茶店扱いと聞いて安心した。
ジャズが流れる、心地のいい店だ。
明るい店内を案内され、奥の方の席に三人はつく。千影が一番奥、その隣に麗奈、彼女の向かいに悠が座る形だ。
「あー、いっぱい買い物した! ね、化粧直してくるから待ってて!」
返事をする間もなく、麗奈は悠に「あたしコーヒーね!」と言い残して化粧室の方へ向かっていった。
残された千影と悠の間には、長い沈黙が流れる。
少し、ほんの少しだけ、その神妙な表情を崩さない悠が気になって、千影は口を開いた。
「……蓮見」
返事をしない。さっきは返事をしたのに。真面目な顔でなにか考え込んでいるのか、全く耳に入っていないようだ。
「悠」
下の名前で呼ぶと、ぼんやりした瞳で彼は顔を上げた。なにを言われているのかわからない、そんな顔をしている。
「……あ?」
「様子がおかしい。体調が悪いなら帰ったほうがいいんじゃないか」
今日は暑いし、と続けられてようやく悠は、自分が千影に心配されているという事実に気付く。
この女に心配されるような表情をしていたのかと悠は、戸惑いの表情をふっと崩した。
「ああ、なんでもねえよ。今日の夜はどの女と会おうかなって、それだけ」
これ以上触れられたくないのだろうか、と千影は感じ、それ以上会話を発展させはしない。その会話と真剣な空気をどうしようか考えて、悠は口を開いた。
「あーっと、そういやお前、胸どのくらいあんの?」
「小学生か……」
バッサリと斬り捨てられて、悠はイラッとする。せっかくこの会話を続けようとしたのにも関わらず、その反応はなんだ。と思った瞬間、千影の胸元に悠の手が伸びる。
彼の手の中に、柔らかい感触が広がった。制服越しとはいえ、千影も夏服だ。
服もベストとワイシャツ、そして下着を通しただけで、その胸をひとつかみするたび、千影の頬が赤くなっていく。
「あ、もしかしてFとかそのくらい? 触り心地いいなー」
腕を思い切り振り払われる。そこには涙を潤ませる千影がそこにいて、悠は思わずやりすぎたと手を引っ込める。このまま麗奈が来てしまえば、間違いなく色々な意味で怒られる。
「わ、悪かったって。怒るなよ」
唇をかんで下を俯く千影。ますます雰囲気は悪くなっていくばかりだ。
まずい。普段別の女性には一切しないようなことをしてしまった。
悠が慌てているが、その雰囲気を打ち破ったのは千影のスマートフォンを鳴らす着信音だった。
初期設定である。
ホッとしている悠を一瞥してから、千影は電話を取った。そのとき、一気に千影の顔が青ざめる。そして悠に悟られまいと顔をそらすが、もう遅い。
一言二言話してから、千影はスマートフォンを鞄の中にしまった。そして鞄を持って立ち上がる。
「おい」
「途中ですまないが、私は帰る。麗奈にそう伝えてくれ。急な用事ができた」
パートナーだから、という理由で立ち入ることは許されないかもしれない。しかし、彼女の表情の豹変がそれだけ凄まじかったのだ。
悠は早々に店から出ようとする千影の手をつかむ。千影のアイスティーと悠、麗奈のアイスコーヒーを持ってきた店員が、怪訝そうに顔をしかめていた。
「千影、どうした」
「なんでもない。それより用事、急ぐんだ。離してくれないか」
有無を言わせぬ剣幕に押され、悠はその手を離した。足早に彼女は店の外へ走っていく。
つかんだ手の柔らかさを握りしめて、悠はそっと微笑んでいた。
第6話へ続く