永遠の紅蓮

第3話 コンビネーションゼロ


「高里ッ!」
 チャンスだった。砂塵が舞い、煙幕の中にいる人影は、明らかな敵だ。殺すべき相手だ。わかっていた。知っていた。剣を持った彼女は、やらなければならなかった。
 しかし彼女は、動けなかった。
 横を駆け抜ける風が、通り過ぎる瞬間苦々しく舌打ちをする。
 動かない手を、千影はジッと見つめた。
 また、こうしてなにもできない。
 大きな断末魔が聞こえ、視界が晴れていく。
 そこに立っていたのはもちろん悠で、不機嫌そうな様子で剣の露払いをする。
 やると言ったのはどこのどいつだ。
 これは一体どういう有様だ。
 そう言いたげな瞳で千影を睨みつけ、血のついた頬を拭う。
 紅蓮に所属して一ヶ月、彼女は未だ、誰一人として命を奪うことはできていない。手も、足も震えている。
 赤く歪んだ空間が色を取り戻し、昼の蒸し暑い風を作るころにはもう、パートナーの悠はポロシャツ姿にジーンズという、ラフな格好に戻っている。
「高里」
 次こそは、次こそは絶対に、と思っていた。
 それが自分の課せられた使命であり、目的を理解して入ったのは紛れもない自分だ。
「高里」
 悠が彼女の肩に手を置いても、千影は下をうつむいたまま一切反応をしない。それはいくら認めずに入ってきた新人とはいえ、悠の不安を煽るには十分な反応だ。
「おい」
 ハッと顔を上げて、千影はいつもの表情を取り繕った。震える手は、悠にバレてはいないだろうか。
「っ……すまない」
 あれだけ自信を込めて、人を殺すことができると断言したのに。それができない自分と、自分の持つべき責任を悠に持たせているという罪悪感が、余計に彼女の歯を食い縛らせる要因になる。
 それを見た悠は、不愉快な感情に襲われていた。それは確かに彼女に対するもので、だがしかし、この彼女を追い詰められる気がしない。
 彼がとどめを刺すまでの彼女のサポートは、ほぼ完成しているといっても良かった。少なくとも、好き勝手に動く悠の動きに合わせて後衛の弓を使用し、近くの敵にはダガーを使用して牽制をしている。
 殺せないとはいえ、確実に戦力になり始めているというメリットが出てきた。
「いつか、お前が殺されるぞ」
 それだけ言って、悠は先を歩き出した。紅蓮に戻れば、波原に報告し、シャワーを浴びたあとは女とのデートがある。
 悩んでいる千影くらい放っておいたって……と、そこまで考えて、悠は足を止めた。そして後ろを落ち込んだ表情で歩く千影の前に立って、大仰なため息をついた。
「……お前、これから時間は?」
 土曜日なので、色を取り戻した街からは子供が走り回る音やきゃんきゃん騒ぐ声が聞こえてくる。幸い駅から十五分ほど離れた場所だったので、このまま街に行けそうだ。
「これからか? 帰って勉強するだけだが」
 土曜日なのになんて詰まらない生活をしてるんだ、と悠はため息をついた。
 千影は千影で、彼がなにを言い出すのかわからないと思いつつも、その質問に答えてしまう。
「よし、じゃあ出かけるか」
「は?」
 思い切り千影は顔を歪めた。ほぼ一ヶ月前には自分の胸ぐらをつかんでまで自分を嫌った男が、いきなり態度を変えてなにを言っているのか。いや、態度は変わっていない。
 事実としては、悠が千影を出かけることに誘っている、というだけだ。
「……頭、大丈夫か?」
「おい」
 一瞬悠のこめかみがぴくりと不愉快そうに動いた。やはりこの男はなにか企んでいる、と考えた彼女は一歩後ずさった。
 彼はそのまま千影の手首をつかむ。大きく力強い手が、一気に悠の元へ彼女を引き寄せた。
「ありがたく思え。先輩からのおごりだ」
 悠はするりとその指を千影の指の間に絡ませる。慌てて振り払おうとするも、男性の力で掴まれている。
 とてもじゃないが、自力では離すことができない。
「なっ、なんで手っ……」
「俺ってかっこいいから、手つないでたりとかしないと他の女が声かけてくるわけ。だから反論は受け付けない」
 恨みがましい瞳で、千影は悠を睨みつける。
 しかしどこ吹く風、彼は視線を横にそらし、機嫌が良さそうに歩いていった。
 なにを考えているのかわからないが、従わないとどのみち後で苦労しそうだ。
 彼女は完全に諦めて、とぼとぼと手を引かれて歩き出した。

 十数分歩いて、千影は大衆の視線に疲れ果てた。
 女性の全てが悠の容姿を見てから千影を見て、そして忌々しげに顔を歪める。
 それは学校で受けている視線と大して変わることはなく、休日だろうが千影の精神力を容易に奪っていった。
 だから彼が近くの喫茶店のドアをくぐったとき、彼女はほっと安心する。
「いらっしゃいま――おお、悠じゃねえか。また違う女連れてきたな」
 二人を出迎えたのは、漆黒の髪を持つ男性だった。髪をワックスで立て、その手には水の入ったコップを持っている。やんちゃそうな猫目が、千影を捉えた。
 悠がここを選んだのには、次の女性との待ち合わせ場所だったからだ。
 友人がいるときは席に融通がきく。理由はそれだけだ。
「蓮、奥の席頼む」
 悠は友人の言葉に全く介せず、彼に呼びかける。
 ふと蓮と呼ばれた男性が、千影の目を真っ直ぐに見つめてきた。たじろいでいると、蓮はその表情をすぐに隠して微笑む。
「こちらの席にどうぞ」
 さっきは蓮に気を取られてわからなかったが、コーヒーの匂いとクラシックの音、茶色を基調とした落ち着ける雰囲気の喫茶店だった。奥の二人がけの席に案内されて、コトンと水の入ったコップを目の前に置かれる。
「お姉さん、コイツ飽きたらオレにしてね。コイツの友達の西宮 蓮です。よろしくね」
「紅蓮の仲間だ馬鹿野郎」
 悠がやや呆れた表情を浮かべて頬杖をつく。西宮は目を見開いたのちに、やったと言わんばかりの笑みで千影の手をとった。
「お名前は?」
「た、高里千影です、あの、手」
 軽く手の甲に口付けて、蓮は計算しているとも思える表情で微笑む。悠の周りにはこんな男ばかりなのか、と千影の唇が引きつった。
「千影ちゃんね。紅蓮でまた会おう」
「蓮、アイスコーヒー一つ頼む」
 全くお互いに気を遣わない性格なのだろうか、と千影は二人を、特に悠の方を見た。元々、男にはこんな感じなのだろう。西宮は西宮で、アッサリと伝票に注文を書き込んでいる。
「千影ちゃんは?」
「あ、え、えっとアイスティーをストレートでお願いします」
「かしこまりました」
 仕事モードに入ったのか、さっきとは違う柔らかな物腰で答えて、西宮はカウンターの奥に消えてしまう。
 これまた微妙な沈黙が発生して、千影は出された水をちびちびと飲んだ。
 やや時間が空いてから、不意に悠の方が口を開く。
「……お前、後衛はしっかりできてんだよ」
 褒められている、と気付いたのは言われて五秒後のことだった。顔を上げると、さっき西宮に注文をしたときと同じ呆れた表情で千影を見ている。
 落ち込んでいるのが、バレているのか。
 紅蓮に入ってから一ヶ月。樹はいま自分がなにをしているのか一切教えてくれないが、千影は毎日通いつめ、武器を早く出す練習を積み重ねていた。
 それだけではなく、武器を出したあとの攻撃は千影の筋力に依存している。多少体が覚えているらしいところはあるが、それでも千影が彼女自身の力で動くことに変わりはない。
 それをもどかしく、きつく感じていた。
「あー……まあ、なんつーか、覚醒したときなんてそんなもんだ。俺だって、最初から強かったわけじゃねえ」
 ポケットからタバコを出して、悠はライターで火を点けた。
「最初からアイツらを消せるような人間だったら……それはそれで、異常だ。お前がそれに対して気にする必要ってのは、ねえんだよ」
 自分のことをあれだけ嫌いだと言ってきたのにも関わらず、今こうして励まされている感覚がいまいちつかめずに千影は首をかしげた。
 紫煙を千影にぶつけないように、横を向いて吐いてから、悠はなんといっていいのかわからないみたいにタバコを持った手で頭をかいた。
「お待たせしました、アイスティーとアイスコーヒーです」
 返答に困っていると、先ほどと変わらぬ態度で西宮がやってきて、それらをテーブルの上に置いていった。
 瞬間、悠の顔は何事もなかったかのようにすまし顔になり、軽く礼を言ってストローをコップの中に入れた。
 それすらも気付いているのか、ニヤニヤと悠を一瞥してから西宮は呼ばれた客の元へと歩いていった。
「……だから、お前の能力が俺にとって有利に働いてるのは間違いねえんだ。お前が消せなくても俺が消すわけだし……そんな顔すんな」
 最後の一言で、千影は思い切り吹き出した。そのまま笑いが止まらなくなり、涙が目の端に滲むほど笑う。
 その千影の大笑いを、悠は不服に感じながら見ていた。片手ではタバコの灰を灰皿に落としている。ひとしきり笑ったあと、千影は人差し指で涙を拭って、アイスティーを口に含む。
「だから女子高生って嫌なんだよ、すぐ笑う」
「あは、ち、違う、違う」
 頬杖をついて窓の外に視線をそらした悠に何回か謝ってから、悠の前では初めての柔らかな笑みを向ける。まさか心配されてるとは思わなかった、というのが正直な感想だった。
「うん、いや……悪かった。思ったよりお前、最低な男じゃないんだな」
 アイスコーヒーを半ば飲み干した形で、悠は更に顔を不機嫌そうに歪める。
「うるせー。やっぱお前嫌いだ。このちんちくりん」
「私もお前なんか嫌いだ。図体でかいだけのガキかお前は」
 仲が良くなったかと思えば、さっきの悠の一言で千影は憮然とした表情になった。
 また少し時間が空いてから、悠の方が口を開く。
「お前、知ってるか。最近また行方不明が増えてきたの」
 悠が、煙草を口に咥えて二本目に火をつけた。彼はやはり先輩(あるいは上司)だ。しっかりと現実を見せてくる。
「……ああ」
 行方不明から死体で発見されるケースが、月五件で起こっていたものが月十件に増えていた。
 毎月毎月こんなことが起こるようでは、他の人が「次は自分か」と思い、市そのものから出ていく。
 そんな状況だからこそ、急かしたいという気持ちが確かに悠の中にあった。
 今は良くても、自分が死んだとしたら千影は一人で歩いていかなければいけない。
「戦力が足りない。だから今、俺たちは決定的な動きをすることができない。人を救うだなんて大層な気持ちは持ちあわせてはいないが、早く終わることに越したことはねえんだ。だから」
 煙草を一吸い。吐き出して彼は一言告げた。
「早く強くなれ」
 無言で千影は頷く。
 組むようになって一ヶ月間、一切聞いたことがなかった真剣な声だった。
 彼にも、この出来事に対して懸ける覚悟がある。
 そう思って、「わかった」と千影が答えようとしたそのときだった。

「お前、やっぱ貴広のこと好きなんだろ」

 気管に思い切りアイスティーが入って、千影は思い切りむせた。
 一ヶ月、子犬のように波原の周りを甲斐甲斐しくうろつく千影を見ていれば、誰もがその思いの矢印には気付く。無論樹も気付いているようで、鬼のような嫉妬を抑えながらなんとか千影をつなぎとめようとしているのがありありとわかった。
 先ほどの話題とは一変している。それはこれ以上真面目な雰囲気を続けたくないという悠のワガママな感情ではあったが、結果的にそれは千影の重苦しい気持ちを怒りで取り払う。
 彼は思いついたのだ。
 スタイルがよく、自分を浮気相手だと思って軽く扱ってくる女に、悠は飽きていた。
 だったら、自分が誰かの本命になればいいのだ。
 その考えは明らかに偏り、そして歪んだものではあったが、ふさわしい状況が用意されていたことが決定打だった。
「なっ、なっ、なんだいきなり!」
 飛び散ったアイスティーを紙ナプキンで拭いて、彼女は顔を真っ赤にした。
 この男がなにを言い出すのか、非常に嫌な予感がする。
 トイレに逃げようと席を立った千影の胸ぐらを、今度は悠がつかんだ。およそ女扱いされてるとは思えない。
「俺さー、それ、貴広にバラしちゃおうと思って」
 千影が顔面蒼白になった。対して悠の表情は、しめたという快感を噛み締めている。
「や、やめてくれ! そもそも波原さんにそんなヒマがあるわけない……!」
「俺から言ったらさ、やっぱり貴広、直接お前のことフりに行くと思うんだよ。そしたらお前、失恋だよなー」
「なにが望みだ……!」
 言われて悠は、そのままうろたえている千影の唇に自分の唇を押し当てた。学園でも他人の接触を拒絶して、恋愛など有り得ない彼女にとっては勿論ファーストキスだ。
 その彼女の唇をあろうことか舌で舐めて、悠はにっこりと笑う。
「俺と付き合おうぜ」
 初めてのキスを奪われたことと、貴広にバラされるかもしれないということが、頭の中をいっぱいにする。それを最初でバラされたら、紅蓮自体にも居づらくなる。
 俺と付き合おうぜ、という言葉の意味が、遅れて衝撃となった。
「つ、つき、あう?」
「そうそう。俺と付き合ってる限りはバラさないし、貴広の情報もやるよ。悪い話じゃないだろ?」
 それ以前の問題だ、と言いたい気持ちを、彼女はぐっと抑えた。こんな弱味を握られている以上、なにを言っても押し切られるに違いない。
「……やっぱりお前なんて大嫌いだ……」
 ボソリと呟いた彼女の言葉を、悠は聞き逃さない。蓮が何事かとこっちを見ているのに気付いた悠は千影を椅子に座らせ、自分もゆったりと腰掛ける。
「で、どうする? 付き合う? 付き合わない?」
 選択肢は、元々一つしかなかった。
「付き合う、しかないんだろ……」
 ポツリとそう呟いた彼女に、悠はテーブルの下でガッツポーズをした。これでしばらくの暇つぶしはできる。そんな考えだった。
 一方千影は鼻の奥が痛くなってきたところだった。
 なんでこんな最低な男と付き合わなければいけないのだろう。彼が自分だけと付き合うわけがなく、結局暇つぶしとして遊ばれるだけだとはわかっていた。
 わかっていても、波原に自分の思いをバラされる方が彼女にとっては大きかった。その汚いところを寸分違わず突いてきた悠に際限ない怒りを感じながら、千影は立ち上がって財布から千円を出してテーブルの上に置いた。
「帰る。蓮見、わざわざ時間を取らせてすまなかった」
 自分がそんなことを言う道理は何処にもない。取らせたのは悠だが、これは彼女にとってせめてもの抵抗だった。悠は唇の片方だけを上げる笑みをしてから、手をヒラヒラと振る。
「悠って呼ばないと言うからな。じゃあまた明日、千影」
 全くきいていない。歯を食いしばって、千影は喫茶店のドアをくぐった。
 店を出てすぐ、千影が思い至ったのは「樹には絶対に言えない」ということだった。
 もし樹に彼女ができたらきっと寂しいと思うだけだが、この間のような処分を喰らった樹であれば……。
 わからないようにせねば――そう思ったときだった。
「あれ、高里さん?」
 高い声の、嫌味を含んだ声で話しかけてきた女性がいた。
 黒髪のセミロングヘアに、ベージュのチュニックと柔らかいピンクのスカートをはいた女性だった。
「……黒木さん」
 やや警戒しながら、千影は答えた。
 黒木(くろき)麗奈(れいな)はクラスの中でも、特に彼女とは仲が悪い。
 というよりは、一方的に樹のいない場で皮肉や嫌味を飛ばしてくるのが麗奈の常套手段であったが、それを苦痛に思うくらい、麗奈の口調は強かった。
「デート?」
 それを簡単に答えられるほど私たちの仲は良いのかどうかその頭で考えてみろ、と喉まで出かかった言葉を、千影はゆっくりと飲み込んで曖昧に唇の端を上げるだけだった。
 答えない千影に、麗奈は眉をピクリとさせた。しかし時計に視線を移してから、おもむろに麗奈は千影の腕をつかんだ。
「あたしの彼氏、凄いかっこいいから紹介してあげる!」
 すごくどうでもいいと思ったものの、この状態では否が応でも連れて行かれるだろう。心の片隅でそっと諦めて、千影はその腕の力になすがまま連れて行かれた。
 ベルの音が鳴り、もう一度あの落ち着いた雰囲気の店内が千影を迎え入れる。先程より色彩が暗く見えるのは、無論この状況だからである。
「ユウ!」
 えっと顔を上げたとき、「まずい」という顔をしている悠と、怒りのボルテージが急上昇している千影の目がバッチリ合う。麗奈は、その空気を感じ取れないまま悠の元へと歩いていった。
「紹介するね、同じクラスの高里千影さん! こっちあたしの彼氏の蓮見悠!」
 重すぎる沈黙が、千影と悠の間に流れた。七秒経ってから、悠は余裕を取り戻したのか麗奈を指差す。
「おう千影。麗奈ちゃん、紅蓮の仲間だぞ」
 笑顔が凍り付くというのはこういうことかもしれない。クラスメイトの前で必死に保っていた平静の仮面が崩れそうなほど、千影は頬を引きつらせた。
 麗奈も麗奈で、ひどい顔をしていた。般若の形相とでも言わんばかりの表情で、千影を睨み付けている。
「え、高里さん、ほんとなの?」
「あ、ああ。一ヶ月前くらいから」
 しかしそこは外面を気にする女子だからなのか、必死に笑顔を取り繕っている。
 千影は細く息を吐いた。
「そうなんだ、新しい人が入ったって言ってたけど、高里さんのことだったんだねー。同じクラスだし、仲良くしようね!」
 流石にこんなところでは嫌だと言えない。注文を聞きに来たらしい西宮が、話し掛けられない雰囲気を感じ取って、困ったように突っ立っている。
 いけない。このままでは西宮に迷惑をかけてしまう。
 そう思った千影は、まず麗奈の手から逃れた。このあとは単独で訓練に臨もうとしていたところだ、一秒でも時間が惜しい。
 ひとまず、悠が最低な男だというのは判明した。それだけでも、このまま引きずられない決意はできていた。
「ねえねえ、どんなの使うの?」
「いや、えっと、機会があったら紅蓮で見せる。じゃあ私は帰る。失礼する」
 西宮に会釈をすると、ヒラヒラとゆるく手をふっていた。後ろで麗奈がなにかを言っているのにも関わらず、千影は走って店を出ていく。
 ドアの外に出てから、千影は手のひらを見つめた。
 人を殺せなかった両手だ。勿論、それがいけないことはない。彼女が課せられている使命は、すぐやれと言われて、正常な人間ができるものではないからだ。
 と、そこまで考えて千影は手を握りしめた。
 じゃあ、自分は異常に自ら足を踏み入れようとしているのか。
 その考えは、腕時計を見た瞬間に吹き飛んだ。波原に稽古をつけてもらうと待ち合わせしたのが、十三時。今は、十二時半だった。
 ここから走っても、ギリギリだ。今は考えることをやめ、千影はひたすらに走り続けた。

「波原さん! す、すみませ……」
 紅蓮に着いたのは、五分も待ち合わせ時間が過ぎた頃だった。全速力で走り、息を切らし床にへたり込む千影を、穏やかな瞳で波原が見つめていた。主の部屋――組織長室、とでも言えばいいのだろうか――冷蔵庫から水を出して、彼は千影に手渡す。
「ま、稽古は自由だ。それに五分って、おれの中じゃ遅刻の内に入らないからな。ほら、座れ」
 彼女の床についている手を、波原が力強く引き上げた。その手は冷ややかではあったが、彼女の鼓動を早めるには十分な体温だ。走ったためにガクガクの千影の体を支えるために、波原は彼女の腰に手を回してソファーの上に座らせた。
 どこまでも紳士的なその態度に、千影は更に顔を赤らめる。ソファーの上でキュッと手を握り締める。
 顔が有り得ないほどに熱い。貰った水に口をつけると、幾分か鼓動と熱さが和らいだ。
 ほっと息をついて波原の方を見やると、彼は窓のふちに寄りかかり、外を眺めていた。今日の仕事のことは当然、悠から連絡を受けているはずだ。どうして聞かないのだろう。
 どうしてできないのか、と怒らないのだろうか。
 父親からは、常にそうされて過ごしてきていた。しかし待てども待てども、波原がなにかを言うような様子はない。
「……悠とはどうだ? うまくやれてるか?」
 別のところで気にしていたベクトルを突っつかれて、千影は水を気管に詰まらせる。ひとしきりむせてから、掠れた声を喉から絞り出して答えた。
「さ、最低です! あんな、女性にだらしない……」
 その先を言うことはできなかった。それは波原が、明らかに面白がっていたからだ。
 わざわざソファーに移動してきて、波原は千影の向かいに座る。
「随分と仲が悪いみたいだったけど、アイツがあんな態度とるような女の子初めて見たから興味あるんだよね」
 最後の一言に色めき立とうとして、千影はその後すぐにソファの背もたれに沈み込んだ。自分に興味があるという意味ではなく、悠と千影の関係性に興味があるという意味だ。
「で、アイツ、特定の彼女とか作らないだろ? なーんかあると踏んでるんだよね、おれ」
「えーっと……イ、樹は、どうですか」
 あからさまな話題の変え方だとわかっていたが、そうせざるを得ない。少なくともいま悠の名前を聞きたくない程に、彼女は疲弊していた。更に言えば、好きな人からそう思われているという事実すら、辛い。
 その考えを汲み取ってくれたのか、ニヤニヤとした笑みから穏やかな笑みに変えて答える。
「樹な。アイツ、筋はいいよ。ただ攻撃・防御っていうよりは、後方支援って感じかな。まだ戦えるレベルじゃないから、訓練してるけど。なに、聞いてないの?」
「教えてくれなくて……」
「ま、男ってのは見栄っ張りだからな。千影はどうだ?」
 いつの間にか、波原の顔が本当に真剣な表情になっていた。これからなにをしたらいいのか、次の一手を考えあぐねているという様子だった。それはまだ、千影のレベルが実践に至れていないからだろう。
 殺す、ということが実行できれば、彼女は間違いなく前線として出られるはずだ。
「私、は……」
 答えようとして、息が詰まる。思うように相手の期待に応えられない自分を、彼女は許せていなかった。
 黙りこんでしまった千影を見て、波原はそっと微笑んで彼女の隣に座る。そして、彼女の肩を抱き寄せた。
 明らかに恋愛感情に寄るものではないとわかって、千影は泣きそうになりながら下をうつむく。
 波原の匂いと体温が、暖かく千影の体を包み込んだ。
「焦らなくてもいい。遅くとも今年中に決着はつける気ではいるが、君の能力の伸びは著しい」
 はい、と力弱く答えて、千影は立ち上がる。褒められたのだろう。しかしそれは、自分が納得できてこそ自信がつくものだ。
「波原さん、稽古お願いします」
 光が彼女を包み、次の瞬間、千影は白い服を身にまとっていた。

 紅蓮の地下には、訓練場が用意されている。
 真っ白な広い部屋で、三方は壁、残る一方はモニタリング用の巨大なガラスが張られている。あらゆる状況に対応できるよう、温度調節や、場合に寄っては雨を降らせることもできる仕組みだ。
 なにやら巨大な機械を操作すると、部屋の中が大きな都市に変わっていく。
 ホログラムに近いが、実体をともなう幻の現実らしい。
 ルビーの剣とサファイアの弓に関しては、一瞬にして出すことができるようになっていた。
「始めるぞ」
 スーツの上着を取り払って、波原は消えた。
 前世で使い方を知っているとはいえ、その使用する技術と筋力は千影に依存する。一ヶ月間、千影は筋肉痛との戦いだった。
 ルビーのいびつな剣を取り出して、神経を研ぎ澄ます。
 目を閉じ、視覚に惑わされることがないように、波原の気配を捕らえようとする。
 上からだった。
 鉄の靴のかかと落としを、波原が落としてくる。
 千影はそれを防ぐが、重さは波原の体重よりも遥かに重圧がかかっていた。一回剣に全体重をかけてその反動で飛び退った波原は、かかとのせいで転びそうになったらしくクルリと回った瞬間――長剣を出していた。
 この能力について、波原は一度も千影に対して教えようとはしない。
 だが、千影とは違う能力だ、とだけ答えた。
 彼の長剣と体が、一気に千影の間合いに入ってくる。
 剣を受け、千影のスニーカーがジリジリと後ろに下がっていった。
「くっ……」
 片手で長剣を操っている波原は、左手で短剣を取り出した。
 瞬間で気付けた千影は一瞬全力を込め勢いで押し返したのちに後ろへ飛び、シトリンの宝石から短剣を取り出して地面に降り立ってすぐに波原の懐に飛び込もうとする。
 得も知れぬ高揚感が、千影の感情を支配していた。
 隙だらけだ、と波原は飛び込もうとしてくる千影を直前まで見てから、下にしゃがんでスライディングをする。
 真っ直ぐに突っ込もうとするが故に彼の裏をかくことができずに見事にけつまずいた千影は、そのまま波原の胸の中に倒れ込む形になった。もうこの時点で、勝負ありだ。
「うーん、君は真っ直ぐ過ぎるな。今度悠の戦い方でも見てみろ。セコいから」
 耳元で低く穏やかな声が聞こえて、千影はバッと彼から体を離した。波原は不思議そうな顔をしたが、それだけで立ち上がる。
 心臓がドキドキしている。波原に背を向けて、千影は大きく深呼吸をした。
 彼が強いのは当たり前だ。あれだけの個性的なメンバーを率いているのだ、手腕は相当なものだろう。
「け、稽古の続き、お願いしますっ」
 千影は波原の方を向いて、もう一回頭を下げた。

 十五時から十九時までの訓練を、休憩を挟みながら続ける。
 終わるころに日は暮れ、既に紺色の空になりかけていた。汗を大量に流した千影は、既に立てない。
「ありがとうございました。……少し休んでから、帰りますね」
 制汗剤を持ってきていたはずだ。あとで体にかけておこう。そう思って千影は、部屋の壁に寄りかかる。疲労で、既に強い睡魔に襲われていた。
 波原は汗一つかかず、涼しい顔をして立っている。かなうわけがないと思いながらも、その強さに悔しさと憧れを彼女は抱いた。
「近距離戦はだいぶサマになってきたな。あとは弓の命中率が五割切ってるから、しばらくはそっち練習しとけ。悠に当てないようにな」
「あ、あのっ」
 千影はどうしても聞きたいことがあった。
 部屋の中は無機質な白い壁に囲まれている。訓練室であるから、他の誰にも聞かれる必要はないだろう。ないなら、きっと、褒めてもらっても。
「私、成長してますか」
 まず最初に波原から返ってきたのは、キョトンとした表情だった。
 なにかまずいことを言ったかもしれない、そう思って慌てて取り消そうとした千影の耳に入ってきたのは、くぐもったような彼の笑いだった。
 波原はずかずかと歩いて千影の前にしゃがみ、その頭をグシャグシャと撫でる。
「一ヶ月前に比べたらすごい進歩だ。おれのお墨付きだ、安心してこれからも励め」
 ぐちゃぐちゃになった髪を直しながら、千影は満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、おれはやることあるから戻るな。気をつけて帰れよ、あ、なんなら悠でも呼んで――」
 送らせようと言おうとしたのだろうが、途中で千影の「大丈夫ですっ!」という怒鳴り声に圧倒されて、数秒黙った。
「えーっと、またな」
「はい、さようなら」
 このまま悠を呼びだそうものなら、絶対に麗奈もついてくる。そして麗奈にいらない恨みを買うくらいなら、自分で帰った方が余程安全だった。

 駅の前について、千影はため息をつく。汗でベタベタだが、紅蓮の中でシャワーを貸して欲しいなんて言えるわけもない。着替えもない。
 帰ったらまず暖かいお風呂を沸かそう、と考えながら気を抜いて歩いていたとき、ふいに後ろから手首を掴まれた。
 反射的に振り払おうとするが、手をつかむ感触は骨ばった男の手だ。よく樹と歩いていないときは男性に声をかけられることが多かったが、淡々とした男言葉で追い返すことが多かった。
 今回もそうしようと振り向いてから、千影は固まった。
「……千影ちゃん」
 真っ直ぐに千影の目を見ていたのは、悠だった。
 いや、悠は自分にちゃん付けをしたりなんかしない。
 となれば、目の前にいるのは陸だ。
「り、く、くん」
「氷蒼の一員ではなく、蓮見陸としてお待ちしておりました。一緒に、来てくれますか」
 騙されているのかもしれない。
 前世と現世の自分は違って、そして現世の自分がその関係を利用してどうこうできる場合もある。
 だが、千影は気になっていた。前の自分がどういう人生を歩いてきたのか、この男性とどう関わってきたのか。
 記憶が完全でないが故に、千影にとっては興味が出てくる誘いだ。
「行く」
 答えた瞬間、彼の神経質そうな表情は、へにゃっと綻ぶ。そのギャップが、犬のような人懐っこさを思わせた。
「よかったー、もし敵だから応じないなんて言われたら、ただ帰るしかなかったよー」
 そしてさも当たり前のように、千影の手をとってつなぎ始める。
「あ、あ、あの、陸くん、手っ!」
「オレ、千影ちゃんに逃げられたら死んじゃう。そこのファミレスまでだから、いいでしょ? 五分くらいだし」
「で、でも……」
 今度は置き去りにされた子犬のような悲しい瞳が、千影を襲う。
 悠と双子ということは同い年のはずなのに、こうも悲しいような愛らしい顔を見せられてしまっては、どうもこうもできない。
 千影は無言で彼から視線をそらした。
「わ、かった」
「わーいやったー!」
 乗せられているとは思ったが、それでも拒否できない不思議な眼力だ。
 傍から見れば、見目麗しいカップルだ。少し女性の方が戸惑い気味だが。
 手をつないだ前世の主と従者は、有名チェーン店のファミレスに入っていく。


第4話へ続く


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