永遠の紅蓮

第2話 前途多難なふたり


「……なんでアンタがここにいる」
 樹が目の前にいる悠を睨めた。
 千影が一人で帰ってくるものと思っていたらしい彼は、その不愉快さを隠そうともしない。
「大丈夫。送ってくれただけ」
 ため息混じりにそう返答して、千影は樹の元へと歩いていく。
 月ノ宮市自体はは学生がかなり多い。
 それでも十八時になれば校則で帰るしかなく、今や制服姿の人間は、ほぼいなかった。
 千影の時計は、十七時五十七分を指している。
「ご挨拶だな。せっかく送ってやったっつーのに」
 帰り道、結局悠はなにも教えてくれなかった。いつの間にか戻った服を不思議に思い、あれこれ聞いてはみたのだが、頑なに答えようとはしなかったのだ。
 悠は悠で、波原の言ったことが事実になるのならば、もっと準備をしていた。図ったな、というのが本音だった。
 しかし能力に目覚めたから紅蓮に入れ、と悠は意地でも言えなかった。
 覚悟のない者が入ってしまえば、結局そこで命を落とすだけだ。
 それに、別の理由もある。
「ありがとう蓮見。助かった。ここから先は、もう大丈夫だ」
 声にハッキリとした拒絶が混じる。元より悠が樹に千影を渡した先は、与り知らぬところである。
「おう。気をつけて帰れよ」
 心にもない一言だった。死のうが生きようが、彼には関係ない。
 その意思を知ってか知らずか、鼻で笑うだけの小さな反抗をしてから、千影は樹と歩き出す。
 一度樹が振り返って、立ち止まる悠を見た。その表情は無表情で、水底のような暗さを思わせる。
 だが千影の方に向き直ると、彼の顔はすぐに笑顔に変わった。
 好きなんだろうなあ、と悠は思いながら、二人の制服姿を後ろから眺める。
 そして波原からの着信が来たとき、悠のバイトは本格的に始まるのだ。

 悠の額から、一筋の血が流れる。それは赤く彼の鼻筋を伝っていき、ぽたりと地面に落ちた。
 手首を捻って剣を構え直し、悠はニヤリと唇の端を上げた。
「毎回毎回、ご苦労なものだな。俺に勝てないってわかってるのに」
「波原の前に貴様を殺してやる!」
 黒いローブ姿の男が、手から炎を放った。
 勢い良く飛び出したそれは、悠の横を通って後ろで大きく爆発する。
 爆炎に晒されてなお、悠は平気だった。
 そういった感情が全て抜け落ちているからかもしれない。
 必要だと思えば快楽のまま女も抱くし、食べたいと思えば食べる。
 奪いたいと思えば、奪う。
 十数人に悠は囲まれていた。ただしそいつらは、『馬鹿共』の組織にいる後天性の男たちだ。実力は悠に及ぶわけもなく、だが悠が怪我をしないわけもない。
 無傷で勝てるのは、現代の体でも前世の技術を会得してからの話だ。
「ハッ……そこまでして血を見たいか」
 悠は走り出した。
 黒いローブの男が、今度は透き通った鋭い氷を出し、別の男からは矢が飛び出してくる。
 氷をかわすには、と考えた瞬間、地面を蹴りあげていた。
 風を感じながらそのままロングソードを逆手に持ち、氷をかわしてから後ろに迫ってきていた矢の先端に剣を当てて落とす。
 氷は悠に当たらず、闇夜の中に消えていった。
 足をしっかりと地面につけつつ中腰になった悠は、逆手のまま剣をローブの男に振るう。
 先天性であれば、その剣は防げただろう。
 ただ、破滅と血を望み、『彼女』の力を借りてそれを見ようとした彼らが、信念を持ち続けている悠に勝てるはずもなかった。
 その慈悲なき剣を受けて、男は崩れ去った。場の空気が変わる。
 血に濡れた剣を払い、悠は背後を睨み付ける。
 ただ波原を守るのが自分の役目で、それは今、彼が持てる唯一の目標と言えるものだ。
 ここで目的を果たさず死ねば、また後悔する。
「……来いよ」
 悠は確かに、その姿の通りに騎士だった。

 ベッドの中で、鼓動を感じて千影は起きた。
 それは変身した自分になるような、そんな感覚だった。
 時計を見ると、二十二時近くだ。
 帰ってきて食事や風呂を済ませている内に、寝てしまったらしい。
 あのあと、樹には散々怒られた。
 連絡が遅いだの、やっぱりやめることはできないかだの、隣でなにかを言っていたような気もするが、それを認識できないほどに彼女は困惑していた。
 前世の自分は、戦っていたのだろうか。
 暗闇をじっと見ていると、うっすらと目が慣れてきてぼんやりと電球が見えた。学習机の上は綺麗に整頓されている。頭上にある棚には、ブックライトといま読んでいる文庫本、目覚まし時計、そして充電されているスマートフォンがある。
 普通の、普通の高校生だったはずだ。しかしそれが覆された。
 眠れずに足を動かすと、タオルケットと体がすれる音が聞こえる。
「……前世」
 呟いてみるが、考えすぎて、言葉に出しすぎて、既にゲシュタルト崩壊していた。
 私の目的は、あの姿になって、狙われるであろう波原さんを守ることや、悪事をはたらこうとしている後天性を殺すこと。
 選ぶとか選ばれるとか、そういう次元ではない。
 既に選ばれているのだ。
 千影はベッドから半身を起こした。
 マンションの隣の部屋には樹が一人暮らしをしているが、彼の作るスープが美味しいからといって起こすわけにはいかない。ただでさえ、振り回しているのに。
 なにか探そうと、暗い廊下を歩いてリビングの電気をつけた。
 この部屋は、高校に入学するときに次兄が借りてくれたものだった。ここに来て始めて、千影は誰にも嫌味を言われない日々を手に入れたのである。
 冷蔵庫を開けると、冷却ポットに入った麦茶がある。  
 コップに入れ、飲み干してからソファーに座った。
 テレビとソファー、テーブル、窓には白いカーテン、キッチン、風呂、トイレ。
 セキュリティに関しては次兄が全て家を決めており、パスワードの上に鍵が必要な仕様になっている。
「どうしたらいいのかなあ」
 ポツリと呟いた言葉は、闇の中に換気扇の音と共に消えて行く。
 確かに悠が言う通り、波原が気になっていたり、自分がなにかの興味を持ってそこに足を踏み入れようとしているところもある。
 彼の言葉は紛れもない正論で、彼女の心をひどく動揺させた。
 でも悠は、千影を迎えに来たのだ。
 死にたくなければ、という彼の言葉を聞いて、千影は怯まなかった。
 本来、怯むような恐怖心を彼女は持ち合わせていない。
 あの苦痛に比べれば。
 そう考えて、千影はボーっとカーテンを眺める。
 何かしら、誰かしらの助けを得て、千影は今ここにいられるのだ。
 家賃や仕送りは全て次兄の助けで賄われている。あの男は、悠はバイト、と言っていた。適性があり、金も手に入り、そして気になる人もいる。それならば働く他にないだろう。
 だが、千影がなにより心打たれたのは、波原の「君が欲しい」という言葉だった。それだけで、自分が望まれている安心感に身を任せることができる。
 彼女には、断る理由などなかった。
 ここまでに考えが至ってしまえば、これから自分がする行動は決まっている。
 適性どころか、戦力になりうる可能性も出てきた。誰かの役に立てるということは、それだけで千影にとっての幸福だ。
 部屋に戻りスマートフォンを開いて、波原から貰った名刺を千影は取り出した。
 電話はいつでもいいと言っていた。
 それも常識的な範囲内であることは前提だが、どうしてもそれを我慢できない程の感情がある。
 ギリギリ大丈夫だろうか。
 ベッドの上に腰掛けてベッドのランプをつけてから、名刺に載っている番号を押した。耳に携帯電話を当て、五コール目で波原は出た。
『もしもし?』
 夕方聞いた、あの穏やかな声だった。
「あの、夕方にお会いした高里です」
『おお、千影か! どうだ、考えてくれたか? あのあと悠から連絡を受けたら、どうやら目覚めたようだけど』
 言葉に出す前に、一回千影の唇が噛み締められた。
 十分、考えたと思う。悠の言っていることは正論で、深く胸に突き刺さっていた。
 それでも、気になった人を助けられるという最高の状況を目の前にして、動かずにいられない。
「……手伝わせてください。私にも、できることがあるなら、是非」
 数秒、波原が黙った。そんなにも神妙な声音だったのかと、千影は慌てて続きを口にする。
「あっ、でも、学校の間は動けなくて、う、運動神経はいいと思います!」
 焦って、彼女はどんどんと言葉を口にしていく。周りには悠も、樹もいない。
 だったら、切り抜けるのは自分にしかできないことだ。
 しかし波原から返ってくるはずの返事は、ない。
「……あの」
『良かった』
 心の底から安心したかのような声が聞こえてくる。
『ありがとう、千影。明日の放課後、悠を向かわせる。君の友人も心配しているだろう、連れてくるといい』
 それはきっと、樹のことだ。
 悠が迎えに来ることは気に入らないが、入ってしまえば先輩になるのだ。堪らえて、彼女は頷いた。
「はい。夜分遅くにすみませんでした。おやすみなさい」
『おやすみ、千影。電話ありがとうな』
 電源ボタンを押してから、千影はベッドの上に倒れこんだ。それは短い時間ながらも確信を得た恋の鼓動であったし、そこには使命も目的も、あるはずだ。
 それが、きっと自分を支える。
 そう考えて、千影はベッドに潜り込んだ。

 朝を迎え登校し授業を受け、昼休み。
 樹は変わらず千影の体調を気にしていたが、彼女が感じられる上で不調はどこにもない。
 カレーが食べたい、という樹のリクエストで、千影は共に食堂に向かった。
 食券を買い、隅の席に座る。樹は兄妹同然の人物であり、放課後すぐに連れて行かれるであろう状況を考えてみれば今ここで説明することが確実だ。
 今度はみそラーメンを買い、樹はリクエストどおりカレーを買ったようだ。
「おれ行くから、券ちょうだい」
「あ、ありがと」
 言われるがまま券を渡して、机に頬杖をついて並ぶ樹を眺める。すると横で、ヒソヒソとした声が聞こえた。
「また樹くん振り回してるよ、高里さん」
「迷惑そうな顔してるのわからないんだよ、ほんっとサイテー」
 聞こえてきた声に、千影は諦めの感情を覚える。もともと自分が目立つような人間じゃないと思っていても、標的にされるときはされる。
 ましてや森谷樹という人間は、千影を誰にも寄せ付けない以外は至って善良な男性だ。
 友達も多く、学年の中では人気が高い、という噂も聞いたことがあった。
 千影も樹以外と一緒にいるつもりはなかった。
 なかったために、今度はこうして騒がれるようになってしまった、というわけだ。
「大体樹くんのこと大事だったら、高里さんが券持って並ぶよね」
 往々にしてこういうとき、難癖をつけられるのは女の方だ。だが反論する気力もなく、空腹に耐えながら女子生徒の陰口をぼんやりと聞き流す。
 あんな女性は、逆に自分が券を持って並ぶというと怒るのだ。
 こういったことに対して、怒るという感情が思い付かないのが千影だった。最終的には、どうにもならないと諦めてしまう。それを悪いことだと思わなかったのは、それで苦労したことがなかったからだ。
 十五分も経っただろうか。樹がこっちに来るのが見えて、千影はようやく陰口から頭を切り替えた、瞬間だった。
「きゃああっ!」
 女子生徒の悲鳴が聞こえる。何事かとそちらの方に視線を向けてみれば、その手にしたカレーを、女子生徒に投げつけている樹がいた。千影は思わず立ち上がるが、それと彼の声が響くのは同時だった。
「……二度と千影の陰口を言うな」
 平坦な声だった。椅子が飛んでいてもおかしくはない状況に、千影は冷や汗が流れる。
 静まり返る食堂。どうしたらいいんだと千影は頭を抱える。抱えるが、どうしようもなく、嬉しかった。
「千影、別の場所でご飯食べようか」
 みんなが静まり返り、泣き叫ぶのは女子生徒だけのまま、悠々と千影の手を引いて歩き出す。
 だから千影は、樹といるのだ。
 購買のパンを持って、屋上前の階段に座る前だ。
 先に座った樹が千影の手首を引いて、彼女を抱き締める。誰にも見られない場所じゃない。人だって通るのに、と言いたかった口を千影は閉じた。
「千影、大丈夫だよ。大丈夫」
 誰よりも暖かい、樹の手、腕、体。彼が千影の感情を見通していることに、彼女はやっと気付く。
 震えた唇から声を漏らして、千影は樹の肩に頭を預ける。涙は樹以外には見せない、と、彼女は樹に約束したからだ。
 大きな彼の手が、千影の背中をあやすように叩く。
「……樹」
 涙声が混じりながら、千影は呟いた。
 言わなければならない。
 優しい声で樹は彼女の返事を待ったが、その主旨を聞いたとき、ふと眉間にシワが寄った。
「おれに相談もなく?」
「樹に今までずっと助けてもらってたから、今度は私が誰かを助けたいの。今日の帰り、一緒に来て」
 学校を休まない理由は、千影が行かなくなると樹も学校に行かなくなるから、ただそれだけだった。行く意味がないと、頑として行かないのだ。
 それがなければ、千影だって学校に行ったりしない。
 樹はやきそばパンを袋から取り出して、一口食べる。
「……いいけど、どうにもおれにはピンと来ない。宗教かなんかの勧誘じゃないのか?」
 問われて千影は首を横に振った。
 自分の目で見て、耳で聞いたことはごまかさずハッキリ伝えると、彼女は決めていた。
「……信じてくれないかもしれないけど、私の姿も、変わって」
 目を瞬く樹に、千影は手が震える思いだった。
 信じてくれなかったらどうしよう。離れていってしまったらどうしよう――その樹を思い浮かべただけで、息が止まりそうに苦しいのだ。
 彼が自分を嫌ったらどうなるのか、それは想像に難くない。
 だけど彼は、微笑んだ。
「お前がそう言うなら本当だな。オレもあのスーツの人に聞いてみるとしよう」
 あまりにもアッサリと信じられたことで、千影は唖然とする。
「……笑わないの?」
「全身信じてくれって雰囲気出してなに言ってるんだか。さっさと食べようか」
 言うと彼は、黙々とパンを食べ始めた。その横顔を見て、千影は顔をほころばせる。
 隣に座り、薄暗い屋上へ向かう階段に座って、メロンパンを頬張る。
 ホコリ臭くて、誰も寄らないような薄暗い場所は、二人だけの場所だった。
 昼休みを終えて教室に戻ると教師からの樹へ呼び出しがかかる。自分のせいで、と思った千影が席につかず教師の後をついていこうとすると、樹は軽く笑って首を横に振る。
「いいよ、あれはおれが勝手にやったことだから。ほら、授業始まるよ。勉強しなきゃ、ね」
 肩を軽く押されて、樹は背を向けて廊下の奥へと消えていった。その瞬間、教室からの視線が悪意あるものに感じられる。視線を伏せたまま、千影は席についてカバンから教科書を出した。
 樹がいなければ虚勢を張っていられないのが、事実だった。
 午後の授業は六時間目まである。その五時間目も六時間目も、樹は帰って来なかった。帰りのホームルームが始まるというところで、ようやく帰ってきた。
 しかもなんでもない顔をして、千影の隣に座る。
「樹」
「ただいま」
 そしてなんでもないような顔をして、カバンに教科書を入れ始める。
「事情が事情だから、お咎め無し」
 安心して教師の話をほぼ聞き流しながら、千影はため息をついた。よかった。もしなにかあったら、樹の進学に問題が出てしまうかもしれない。
 それがないのは、今回不幸中の幸いだった。
 帰りの礼が行われ、生徒たちは教室から出て行く。クラスメイトからの「まーたやったのかよ樹」「お前ほんっと高里さん好きな」という言葉を苦笑で受け流して樹は見送り、千影の方に向き直る。
「さて、あの金髪の男が迎えに来るんだって? 今度はオレも一緒だから、守ってやれる」
 頭の片隅に浮かんだ疑問を、千影はしまいこんで歩き出した。

 校門には女子生徒の人だかりができていた。この暑いのに、熱気が増して最早倒れる人が出てきそうだ。
 その中心にいるのが、昨日会った蓮見悠だった。
 一瞬、悠と樹が睨み合った。一方的な樹の敵意ではあったが、応えるに値すると判断したのか悠は二秒ほど彼を睨みつけ、そして千影に目を移す。
 笑顔で女子生徒になにか伝えて散らしたあと、千影と樹の前に来た。
「場所変えるぞ。歩きながらでもいい」
 実際紅蓮のある場所は、月ノ宮駅から十五分ほど歩いた森の奥だ。
 その道すがら、悠は樹に名乗って説明を始めた。
 樹は黙ってそれを聞き、時折千影に本当にやるのかを確認した。
「……大体はこのくらいだ。怪我をしたり死ぬ可能性があるっつーのを覚悟して紅蓮に来るなら、俺は割りきってやる。仕方なくな」
「だからそれはしていると何度も……!」
 悠に食いかかろうとした千影を、彼は犬を追い払うように手を振って言葉を止めた。
「あーあー、わかってるわかってる。今日波原から穴空くほど聞いた」
「蓮見、質問だ。その紅蓮に、オレが入ることは可能なのか」
 悠が立ち止まる。そして樹の胸ぐらを掴みあげた。
「……なにを言っている?」
 憤怒の瞳が樹をとらえる。
 だが、彼は怯むことをしなかった。
「オレが千影を守りたい。友人として、当然の思いじゃないか?」
 悠は既に、樹が千影に対する友情を超えた感情を見抜いていた。
 そこで思うのは、甘っちょろい友人関係の中で、馴れ合いで入ろうとするな、という戦士としての意思だ。
 樹には死ぬ覚悟がなくても、彼女を守る覚悟はあった。千影が守れれば、それでいい。
 生活の、人生の、命の中心が、彼女だ。
「オレも連れて行ってくれるんだろ? だったらそれを判断するのはあんたじゃなくて、上の人だな」
 悠はその手を乱暴に離した。二人に背中を向けたまま煙草を出して、火をつける。
「嫌なガキだな、お前」
「どうも」
 その二人のやり取りをハラハラしながら見ていた千影は、どうやら喧嘩になりそうな状況が終わったらしいことに息をついた。もしここで悠が昨日のような姿になって樹を殺そうとするならば、千影も対峙するしかない。
「行くぞ」
 灰色の煙を吐き出しながら、悠は再度歩き出す。
 無言のまま歩き、たどり着いたのは赤い洋館だ。昨日はよくわからなかったが、青々とした木々の色と、一見朽ち果てた外観の組み合わせは不安を感じさせる。
 紅蓮の前に、スーツ姿の波原が立っていた。
 彼は三人を見たあと、千影の前に歩いてきて手を差し出した。千影と握手をしてから、樹に手を差し出す。
「こんにちは。君が千影の大事な友だちだね?」
「初めまして、森谷樹です。千影から話は聞いてます。千影が怪我するくらいならオレが怪我するので、おれも入れてください」
 その言葉を聞いてから、波原は数秒目を見開いて……そして、笑った。
「オッケーオッケー。わかったよ」
「いいのかよ」
 不機嫌そうに呟いたのは、悠だった。煙草を携帯灰皿に突っ込んで、波原の横に立つ。
 波原はそれでも笑みを絶やさない。その二人の表情は真逆だ。
「コイツ、後天性じゃねーの」
「そこは問題ない。なんてったってオレは完成された神だからな」
 軽く舌打ちをして、悠は紅蓮の中に入っていく。樹が満足そうにしているところを見ると、どうやら波原は彼のお眼鏡にかなったらしい。
 中に入ると、やはり寂れた洋館の姿はどこにもない、綺麗な洋館だ。しかし以前と違うのは、千影が中に入ると空間が歪んだ感じがする。
「……これ、一人で入っても綺麗になるんですか」
 波原は振り返って、「そうだな」と言ってそのまま先へと進んでいく。
 階段を上って、つきあたりの部屋に案内された。そこは昨日訪れたばかりの、波原がいる部屋だ。
 促されて入ると、緑と言っても差し支えないような黒髪の女性が立っている。
「あら」
「棗、新しく入ってくれるそうだ。コーヒー頼む」
 優しい笑みに、千影は安心した。そもそも女性がいるという印象がなかったのだ。
「花咲棗です。よろしくね」
 そう千影に握手を求めてきた棗の体からは、フワリといい匂いがする。百合の匂いだ。応じると、そのしっとりとした肌から暖かさが伝わってきた。
「た、高里千影です。よろしくお願いします……」
「よろしく。で、こちらの君は?」
「森谷樹です。よろしくお願いします」
 樹は決して警戒心を崩さないまま、棗の握手に応じた。何分、千影は人を信じやすい。突っぱねる物言いをするために友人はそんなに多くないが、それでも一度身内に入れてしまえば彼女が寄せる信頼は多大なものだ。
 そんな彼女が安心して信じるためには、自分が判断しなければならないと思っている。
 なんの苦しみもなく生活してほしい。
 それだけが、樹の願いだ。
「さ、かけて」
 波原が赤いソファーを指差した。彼の隣に悠、その向かいに樹が座る。樹の隣には、波原と向かい合うようにして千影が座った。
 それと同時にカップに注がれたコーヒーが四つ、棗の手によって置かれる。その香ばしさに、千影は顔がほころんだ。
「千影、昨日は電話ありがとう。そして初めまして、樹くん。君も入ってくれるならば、人員不足が解消される。ありがとう」
「いえ」
 相手に本心を一切悟らせない様にするための笑顔だ。千影は樹の表情をそう見抜きながら、コーヒーに口をつける。悠は相変わらず不機嫌顔で、煙草を吸っていた。
「千影から既に聞いたと思うが、怪我や死の可能性もある。それについては大丈夫か?」
「問題ないです。千影を怪我させたり死なせるよりは、よっぽどいい」
 細い指で樹はコーヒーカップを手に取った。
 そして、値踏みするように波原を見る。
 その視線を波原自身も感じていたが、高里千影を調べた時点で彼の性格や千影に対する執着すらも把握している。
「どうやら昨日、能力が出てきたようだね。どんなものだった?」
 千影は姿勢を正した。
 体の奥からなにかが溢れでてくるような感覚。それに、高揚感もあった。
 得も知れぬ力であれば、きっと不安も覚えただろう。しかし、魂が覚えていた。
 どう扱えばいいか、あとは単純に武器を扱うスキルだけだ。
 宝石の中から武器を出して使った、と答えた千影に、波原はニヤリと笑う。
「……うん、オレの予想通りだ。その他の映像は見えたかい?」
「その、なんていうか……とてもたくさんのフィルムみたいなものが流れていて、あれが前世だとしたら、記憶の量が多すぎてちょっと」
 はすむかいで悠が煙草の灰を落とす。その沈黙と視線が、痛い。
「なるほど。そういった記憶は、いずれ君の中に戻ってくることになる。悠、彼女と樹くんをバイトで雇おうと思う。異論は?」
「あっても使うんだろ。もー勝手にしろよ」
 紫煙と共に大きなため息をついて、悠は煙草を灰皿の中でねじり消した。まるっきり諦めた表情の悠は、立ち上がってドアノブに手をかけ、一度も千影たちに目を向けずにドアを閉めていった。
「ああ、悠はなかなか複雑でね……気にしないでくれると、嬉しい。で、千影。他に武器は出せそうか?」
 彼が複雑である、ということに対して、千影は突っ込めないものを感じた。そのまま別の話題にしようと、武器が出せるかどうかに考えを動かす。
「やってみないと、ちょっとわからないです」
 意識を集中させると、また体の奥から力が湧き出てくる。身を任せれば突風と共に、千影は白い服に変わっていた。
 横で樹が口を開けて千影を見ている。やはり心のどこかでは半信半疑だったのだろう。
「……本当に、なんていうか、非日常だな」
「そうだよね」
 赤い宝石からは、歪なルビーの大剣が出てきた。他には緑、青、黄色、黒と、見える範囲では五色だけだった。しかしそれでは足りないと、本能がわかっている。
 千影は今度、青の宝石に手を当てた。それはサファイアの色をしている。体の中から宝石を通じて武器を出せるように意識を集中してみると、今度は宝石の中から水が溢れ出てきた。
 驚いている内にそれは弓矢の形に姿を変え、そして千影の手によく馴染む。
「ふむ……青は、弓か。戻していいよ」
 武器の出し入れには時間がかかる。意識的にやり、しかも慣れていないからこそ、今はラグが生じるのだろう。
 しまう、と意識すると、弓矢はまた姿を水に変えて宝石の中に入っていった。
 戻る、と意識をすると数秒差で風が起こり、紫色のブレザーに戻る。
 波原は満足したかのように頷いた。
「……うん。攻撃系だけとは限らないけど、後衛ができるなら悠のパートナーになってもらうか」
「え!?」
 思わず千影は素っ頓狂な声を上げた。コンビネーションの欠片もないペアが出来上がるだけのことは、目に見えている。隣の樹も、信じられないといったような目付きで波原を見ていた。
「で、でも、私は」
「悠は、紅蓮の中で一番の攻撃力を持つ。持つからこそ、一人でなんとかしてきたんだけどね。君の能力は、もしかしたら、防御の能力もあるかもしれない。悠を助けてやってくれないか」
 波原は頭を下げる。それに対して千影は慌てて立ち上がり、両手を振る。
「あっ、いえ、あの、頭下げないでください! や、やりま」
 す、と口にしようとした瞬間、手首を物凄い力でつかまれた。後ろを振り返ると、剣呑な目つきの樹が千影を睨んでいる。
「千影」
 思わず彼女は黙り込んだ。棗はそんな樹と千影の様子を、じっと見つめている。なにか思うところがあるのかもしれないが、決してそんな感情は見せない。
「波原さん。オレと千影がペアじゃ、駄目なんですか」
 予想していた、と言わんばかりに波原は微笑んだ。
「君はこれから能力を目覚めさせるんだ。悠より合うと思えば、オレはしっかり君を千影のパートナーにするよ」
 正論だった。食い下がろうとした樹だったが、有無を言わさぬ雰囲気に彼は喉を詰まらせて両手の拳を握り締める。
「でも!」
「君が怖いのは、自分の関係ないところで千影が怪我をしたりすることだね? だったら大人しく話を聞いた方がいい」
 波原は、樹の言葉を一瞬にして封じた。樹は泣きそうな顔をしているが、それも彼にとっては関係のないことだった。
 なにを考えているのかはわからないけど、その視線には信念や貫き通してきた意志全てが現れていた。
 それは、彼女がなにかを言っても変わることはないだろう。
 確かに悠が言うとおりに興味本位かもしれない。だが、この波原の言うことを、誰が拒否できるだろうか。
 千影は首を縦に振り、その覚悟を現すかのように波原の目を真っ直ぐ見た。
 眼鏡の奥の茶色の瞳と、焦げ茶色の瞳の視線が交わる。
「……わかりました。蓮見と一緒に組みます」
 吉と出るか凶と出るかは、二人の歩む先次第だ。


第三話へ続く


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