永遠の紅蓮

第1話 君が欲しい


 吹き抜けていく風が心地良い。
 空は青々と広がり続けていた。
 これは夢だ、少女はそう確信する。
 辺りを見回せば、女性が浅瀬に足を踏み入れていた。
 真っ白なワンピースで、青く長い髪を空になびかせている。
「あの、あなたは、どうして私の夢に、ずっと……」
 もう何度も問うた言葉だ。このあとどうなるかもわかってはいた。だが、今度こそはと思えば、彼女は訊かずにはいられない。
 青い髪の女性は、俯いていた頭を上げた。
 そして、振り返ろうとして――携帯電話のアラームが、午前六時を告げて鳴り響いた。



 月ノ宮市の名が付けられる進学の名門、月ノ宮学園。
 小学校から大学までの一貫校であるこの学園内には、校舎の中に学生食堂があった。
 一般人も利用できるこの学食に、男が二人はいってきたことからこの物語は始まる。
 蒸し暑い夏の昼休み、風通しと人通りを良くする目的でドアは開放されていた。故に音こそなかったものの、彼らの雰囲気は存在だけでその場を飲み込む。
 右側にはダークグレーのスーツを着た、深い茶髪の男がメガネをかけて立っている。その姿は堂々としていた。
 左側の男は、右の男よりも多少若い。透き通るような金髪に、翡翠色のつり上がった瞳を左右に動かし、無言で人々を見渡している。
 不機嫌そうな表情は、整った顔立ちを今は歪ませている。
「……不審者か?」
 今日は日替わりで通常四百円のラーメンが三百八十円になっている。
 その一本を吸い込んで顔をしかめたのは、目を疑うほどの美しい少女だった。少しつり上がり気味の冷たい美貌を男たちに向けてから、またラーメンを箸で持ち上げ、口に含む。
「さあ。巻き込まれない内に食べて出ちゃおう。最近行方不明やら殺人事件多くて怖いしね」
 その少女の向かいで大盛りのカレーを、大きいスプーンで口に放り込んでいるのは焦げ茶色の髪を持つ少年だ。優しそうな雰囲気を漂わせているが、それだけではない。
 二人は男たちに注意を払うこともなく、食事を悠々と続ける。
「樹(いつき)、一口ちょうだい」
 返事を待たぬ内に、少女は樹と呼んだ少年のカレーをれんげで奪っていく。
 その行為と、男たちが誰かを見付けて歩いていくのは同時だった。
 中腰になった少女と、苦笑いを浮かべている森谷樹(もりやいつき)の横に、男たちが立つ。
「……コイツなのか」
 口を開いたのは、金髪の男の方だった。投げやりな口調、面倒くさそうな表情で、少女を指さす。
 声はバスほどに低く、甘く痺れるような色気を含んでいた。
 少女は二人の男を睨み付ける。
 だが、男たちにはささやかな抵抗にしか思えない。
 なんとも言えない沈黙が、四人の間に漂った。
 少女はカレーを咀嚼したまま、警戒の表情だ。
「うん。この子だ」
 次に口を開いたのは、スーツを着た方の男だった。
 穏やかで、しかし選択の有無を許さない。そんな少し低い声で、男は囁いた。
「高里(たかさと)千影(ちかげ)、君が欲しい。オレたちと一緒に来い」
 その一言を聞いて、場が騒然としたのは言うまでもない。

 放課後迎えに来る、と言ってスーツ姿の男は、名刺を千影に渡していった。
 そこには、波原(なみはら)貴広(たかひろ)という文字、そして携帯電話の番号のみがゴシック体で印字されている。
 校舎四階の、高等部一年A組。
 授業中にノートの下でそれを盗み見て、千影は未だ整理できないさっきの出来事を思い出していた。
 彼女の心の中を覆い尽くすのは、紛れもない不信感である。
 爆弾を落としたにも関わらず波原は、一切詳細を口にしなかったのだ。
 あれだけ目立つ行為をしておいて、用件を告げない。明らかに怪しい。
 ただ去る前に、波原が彼女に告げたその言葉だけが気になった。
「海辺と白いドレスを着た、青い髪の女性の後ろ姿」
 すぐに思い当たった。
 小さい頃から、自分の夢で姿を見せてきた人だ。
 何故それを、波原が知っているのだろうか。
 昼下がりの教室は、教師だけが意気込んで声を張り上げている。生徒たちは気だるげな顔をしながらノートにシャープペンシルの芯を走らせていた。
 あの人は、私のなにかを知っている。
 精神的、深層心理、それに近い、なにか。
 千影はその夢のことが、いつも頭の片隅にあった。調べても出てくるのは、オカルト的な考証でしかない。
 別の家で暮らす親や兄弟とは、次兄を除いて全員と折り合いが悪い。
 こんなことを相談しようにも、精神の異常を疑われるという一点に置いて誰にも言っていなかった。
 薄いベージュ色の砂浜と、すり抜ける爽やかな涼しい風、耳の奥まで入り込んでくる優しい波の音。
 女性は青い髪を風に任せるままなびかせて、海の方向を見つめているのだ。
 いつもその女性が振り向く前に、千影の目は覚める。
 一週間に一回、多ければ三回、同じ夢を見る。
 それがなんなのか、千影はずっと知りたかった。
 その手がかりが、放課後訪れる。
 隣から視線を感じて向くと、樹が心配そうな顔で千影を見ていた。
 彼とはかなり昔からの付き合いで、家族よりも共に過ごした時間は長いだろう。そのため、いま千影が考えていることなど見透かされているに違いなかった。
 曖昧に微笑み返して、彼女はノートの下に名刺を隠す。それは樹に対する後ろめたさなのか、自分があんな言葉に惑わされていることに対しての後ろめたさなのか、理解できるはずもない。

 宣言通り、二人の男は校門前に姿を現した。
 自分を見付けたときの波原の顔を見て、とうとう千影は引くに引けなくなった。
 なによりも、波原の持つ雰囲気に惹かれたからかもしれない。
 付き合うなら次兄のような人と、と千影は考えていた。
 その雰囲気よりも、やり手そうな人間ではあったが、千影が心惹かれるには充分だ。
 横に立っている金髪の男は名前が知れないまま、食堂で会ったときと変わらない表情で壁に寄りかかっている。
 そうかと思えば、話しかけてくる女子生徒には王子のように優雅な微笑みを振りまいていた。
 まずはこの男たちを校門前から引き離さないことには、高等部のみならず明日には学園全体に噂が広まっている結果に十分なりうる。
「千影」
 優しく、しかし逃げることを許さぬ強い力で、波原は千影の手を取った。
 ひやりとした、自分よりも大きい手に包まれる感覚に、彼女の頬は赤みを増す。
 樹は千影の腕を掴み、苦虫を噛み潰したような顔で波原を見た。
「千影を連れて行くなら、おれも行く」
「はー?」
 ひとしきり女子生徒をあしらって顔を歪めたのは、金髪の男だ。
 樹よりも背が高い彼は、樹の頭を軽く叩いてあざ笑う。
「大の男二人相手にして、お前なんかできんの? この女守りながら?」
 ふと樹の表情が怒りから無表情に変わっていくのがわかり、千影は背筋が凍る思いをした。
 彼は中学生のとき、千影をトイレに閉じ込めた女子生徒を容赦なしで殴りつけて停学を食らった過去を持つ。
 ましてや彼は、高校生になってから体が成長していた。
 千影は樹に笑顔を向けて、「大丈夫だから、終わったら迎えに来て?」となだめた。数秒考えたのちに彼はため息をついて、ゆるりと千影の腕を放す。
 最早校門前には、好奇心溢れる瞳で千影たちを見つめる生徒たちが数百人単位で通り過ぎていた。
 千影はそれを振り払うようにして、用意された赤い車に乗り込む。
 運転席に波原、後部座席に金髪の男と千影が乗っている。
 この男はどうにも自分をナメている、と彼女は思った。
 それがとてつもなく腹立たしく感じて、千影は一切彼の方は見ない。存在をないものとして扱ったほうが、安全だろう
 と、大仰なため息をついて男が千影を見る。
「……あのさあ」
 男は顔を近付けてきた。人形のように整っていて、肌が白いとわかるほどの距離に追い詰められて千影は思わずドアのある方ににじり寄る。
 しかし逃げられるはずもなく、彼女は男の腕に囲まれた。
 ふわりと香る煙草のにおいが、日頃彼がどんな生活をしているのかを物語る。
「俺は別にお前なんか必要としてない。けど波原が聞かねーから仕方なく着いてきたわけ。俺はこれっぽっちもお前のことなんてどうでもいいんだからな。わかる?」
 かなり早い口調でそう告げられる。
 そんな中、言葉の中に昔家族に言われた台詞を思い出して、千影は口をつぐんだ。
 答えられないのを怯んだと受け取ったのであろう男は更に口を開こうと声を出したそのときだった。
「悠」
 穏やかな、波原の声だ。
 ぴたりと金髪の男の動作は止まり、ゆっくりと首は波原の方を向く。
「千影に自己紹介はしたのか?」
 ぐっと、彼が喉を詰まらせるのが千影にはわかった。
 ようやく彼の体が離れ、息をつく。
 そして、バツが悪そうに悠と呼ばれた男は彼女から目をそらして名前を名乗った。
「蓮見悠だ」
「……高里千影、だ!」
 遅れて怒りが来た千影のせめてもの反撃は、悠の足を踏み抜くことだった。
「ってえ! このクソガキ!」
 車内に悠の叫び声が響く。

 波原のエスコートを恥ずかしく感じながらも車から降りて、目の前に建つ建物を見上げた。
 それは月ノ宮市でも有名な、心霊スポットとして知られる真っ赤な洋館だった。
 十六時と共に、控えめな鐘の音が鳴り始める。
「ここ、は……」
「オレたちの場所だな。君の場所にもなる」
 波原と千影を気にすることなく、悠は先に歩いて洋館の中に消えてしまった。
 本当に、消えたのだ。
 見えなくなった悠の後を追って千影が中に入るが、そこには寂れた洋館しかない。
 朽ちた柱と、床の赤い絨毯の上に落ちている木くず、寂れた金の階段の手すり――一体ここの何処に、悠がいるというのか。
「実はこの空間に、オレたちの場所はない」
 言われて波原に触れられると、どろりと周りの風景が姿を変えた。
 そこにあるのは、しっかりと洋館を支える柱、真紅の絨毯、磨かれた金の階段の手すりに、館内に漂うコーヒーの匂い。
 千影の後ろで、彼女の肩を抱く波原が耳元で囁いた。
「ようこそ、紅蓮へ」
 紅蓮、という言葉だけが熱を持って千影の胸を焦がす。

 悠が淹れたらしいコーヒーが彼の手で目の前に置かれて、千影は不本意ながらも礼を告げると鼻で笑われるような声だけが返ってきた。
 部屋の中は空調が効いていて、少し寒いと感じるくらいだ。
 暖かいコーヒーを飲んで、波原がカップを皿の上に置いた。夏にホットとは、と思ったが、一口含んでみれば美味しかった。
 ポケットの中から煙草を取り出した悠が、それをくわえて火をつける。
 灰色の煙が、空調に散らされていった。
 入った部屋の中は整っている。アンティークな木の机の上には、書類やペン、そして本が乱雑に置かれていた。    
 白いカーテンは前の住人のものだろうか。
 机の後ろにある本棚には洋書が余すところ無く詰まっていて、外国の空気を感じさせる。
「さて、君は前世というものを信じるか?」
 千影は立ち上がった。
「すみません宗教の勧誘には興味がありませんので帰らせていただきます」
 度肝を抜かれるようなことを聞かれて、咄嗟に千影はドアに手をかけた、ところだった。
 顔の横に大きな音を立てて、銀色の刃物が突き刺さる。
 剣だった。
「おいおい、人の話は最後まで聞かなきゃ駄目だろう?」
 後ろから冷たい指が彼女の顎を撫ぜる。そのまま手で瞳を隠されて耳元に暖かい、悠の吐息がかかった。
 そこで彼女は、初めて蓮見悠が発する本物の悪意というものを感じた。
 もちろん、波原がそういう意識を持っているわけではない。
「なあ、高里」
 驚くべきことに、怖くはなかった。
 手を離されて後ろを向くと、そこには先の格好をしていた悠は何処にもいない。ただ、白の服を基調とする不思議な服を着た悠が唇を歪めている。
「まずは波原の話を聞け」
「……わかった」
 正直言えば、目の前の人物がなんの前触れもなく姿を変え、武器を出してくることに対し、興味が出たというのも確かだ。
 ふかふかの赤いソファーに座り直した千影と、また瞬く間に私服に変化した悠、そして穏やかに微笑む波原。
「オレは、自分の欲望のために君を利用しようとしている。だが、可能性が一筋でもあるのならそれに賭けたい。まずは最後まで話を聞いてくれ」
 そう言って波原は、また一口コーヒーを飲んだ。
 その表情は、真剣である。落ち着いた声音で、波原は話し続けた。
「人には前世があって、オレにはちょっとした事情でそれが視える。世界には神がいる。奴はオレたちを前世の姿と能力に引きずり込んで、決して前の自分を忘れさせたりはしない。最近、行方不明やら殺人が増えてることは知ってるか」
 行方不明と殺人遺棄が、確かに増えていた。
 学生は早く帰るように、口を酸っぱくして教師に言われている。
「……はい」
「そんな気まぐれな神の玩具を人為的に使おうとしたのがとある組織のバカどもだ。人さらいをして、後天的に能力を開発させようとしている。適合しなかったら死一直線だ」
 それは前世の自分と今世の自分が反発するからだ、と波原は続けた。
 適合したとしても、そこでまた更に前世と今世が体の所有権を取ろう、取られまいと争う。
その結果混ざり合い破裂した魂の抜け殻には、別のなにかが入り人を襲うという話だ。
「そういうフラついて暴れる人たちや、嬉々として先天性をぶっ殺そうとしてくる奴らを……」
 一瞬波原は言い淀んだが、
「……殺すのが、オレたちのしていることだ」と言葉をしめる。
「そ、れは」
 いいことなんですか、と問おうとした声が掠れて、言葉にならずに空気に溶けて消えていった。
 そんなもの、自分が判断できることではない。
 少なくとも、集団に所属していない今は。
 その言葉を心で受け取ったかのように、波原は天井を向いて目を閉じた。
 悠は二本目の煙草に火をつける。カチッというライターの音が、沈黙の中やけに大きく響いた。
「先天性と、後天性って」
「生まれたときから前世の記憶を持っている者が先天性、あとから誰かに目覚めさせられたのが後天性。君は先天性だ」
 昔から前世の自分の姿を見ているみたいだからね、と波原は閉じた目をゆっくりと開けた。
「君が戦う気があるのなら、戦ってくれるのなら、共に手を取ってほしい。勿論、無理にとは言わない」
「もしその話が本当だったとして、私は、戦えるとお思いですか」
「思う」
 即答だった。
その能力を見てもいない相手に対する信頼を、多少なりとも心惹かれている人に告げられるとなんとも奇妙な感覚になる。
「無理にとは言わない、というのは、貴方の本意ではなさそうですが」
 千影が発したその言葉に、そこで初めて、波原は声を出して笑った。
 それは二十代後半に見える波原の、歳相応の笑顔だった。
 そうかと思えばふと真顔になり、視線を伏せてこう言った。
「……どうしても、君が欲しいんだ」
 言葉が別の意味を含んでいるとはいえ、千影はあまりの照れに立ち上がった。
 これ以上ここにいては、流れで入ると言ってしまいそうだ。
 どちらにせよ、考える時間はほしかった。
「考えさせてください。近日中には、必ず連絡しますから」
 立ち上がって、波原に背を向ける。その心臓が、痛いほどに鼓動を刻んでいた。
「悠、彼女を家まで送ってあげて」
「しょうがねーな」
 悠の送り届けを拒否しようとしたそのとき、波原が妙にハッキリした声で言葉を発した。
「君はかならず明日、来ることになる。電話はいつでも受けよう」
 彼のその言葉は聞こえたが、表情は一切見えることはなかった。

「だから、いいと言っている。一人で帰る!」
「片足突っ込んだお前に、一個いいこと教えてやろうか? ここに来たことで既に、お前はここのメンバーなんだよ。拒否しても、貴広が言う『馬鹿共』に狙われる」
 外に出て、暑さにうんざりしながら悠より先に歩みを進める千影であったが、その言葉を聞いて一瞬、足が止まった。
 恐る恐る後ろを振り向くと、ニヤニヤとした笑みを浮かべる蓮見悠がポケットに手を突っこんで立っている。
 ……はめられた?
「まあ、大衆の前であんなこと言われたら、多少なりともなにがあるのか興味はわくだろ。人間知りたがりだからな」
 その言葉は一ミリ足りとも隙間のない悪意で満たされている。
 唇を真一文字に結んで、千影はまた歩き出した。
 だが、男の歩幅に程遠い。悠は軽々と追い付いて、彼女の肩を抱き寄せる。
 触れられた瞬間、いつもじゃれあう樹とは違ったなにかを感じて、千影はその手を振り払った。
 込められているのは、優しさ、ではない。
 もっと体の内部に潜り込んでくるような、そんな触り方だった。
「気安く触るな」
「貴広なら別にいいのに、って?」
 あくまで笑みの表情は変えず、悠は千影の手首をつかむ。その言葉の真意を受け取った千影は顔を赤らめてその手すらも振り払おうとするが、そうはいかなかった。
 悠の瞳の奥に潜む仄暗さ、孕んだ怒りが彼女の背筋に氷を流しこんだからだ。
「あまりナメてくれるなよ、高里。結果ここに来たとは言え、興味本位なのはわかりきってんだ。バイトのうちだから家に帰るまでは守ってやるが、俺はお前が気に食わない」
 彼にとっては、ちょっとした脅しのつもりだった。本気も入っていたのかもしれない。どちらにせよ、彼女が怖がって紅蓮という組織そのものから引けば、無駄に死を見る必要もない。
 千影に対する感情が不愉快とはいえ、釘を刺しておくことが最善だった。
 そんな悠の睨みに対して、千影は彼のつけていたネクタイを引っ張って自分の顔に寄せる。悠以上に、千影は不快だった。
 勝手に食堂に来て、生徒の注目を集めて、そしてこんなところに連れてきて、非現実的な話を聞かされて、入れと言われ、最後の最後には不愉快だと面と向かって言われる。
 全体を通して後から振り返れば、興味本位でついていった自分が悪いと言える。しかし、背中を押したのは波原と悠だった。
「貴様のような人間に守られることは不服だが、守らせてやる。ありがたく思え」
 二人は長い間、睨み合っていた。それはお互いの上下関係を決めるために行為にも思えるような長さで、決して互いに目をそらさない。
 沈黙を破ったのは、無機質な着信音だった。視線を外して、持ち主の悠がスマートフォンを操作する。
「もしもし、レイナちゃん? どうしたの? あ、デートか。全然いいよ」
 ため息をついて、千影は悠から視線を外した。舌打ちをし、自分のスマートフォンを開く。樹からのメールが十分おきに来ていた。
 ここまで連続で送ってくるのは初めてだ。余程心配させたのだろう。
 無事である旨とは別に、時間と場所を指定して迎えを頼むメールを送った。
 この男に送られるよりも、樹のほうが数百倍は安全だ。
 用件を終えて千影がスマートフォンを閉じると、仏頂面の悠が横に立っている。
 まだ不機嫌らしい。
「……悪かったな、デートがあるだろうに」
「全くだ」
 吐き捨てるようにそう告げ、悠は歩き出した。車で来たにも関わらず、帰りは徒歩らしい。
 その行動が意図するところをようやく掴んだのは、周りが赤黒い半透明の膜に囲まれてからだった。
 なんの変わりもない、家が立ち並ぶ静かな住宅街だ。空は既に夕暮れに彩られ、橙色と紺色のグラデーションを作り始めていたにも関わらず、いま千影がいるこの空間は微塵もそれが見えない。
「……やっぱり来たか」
 ボソリと悠が呟いたのを、千影は聞き逃さなかった。
「どういうことだ」
 答えはない。紅蓮とやらに入らない以上、情報は出し惜しむ、ということだろうか。
 緩やかな風と共にジャケット姿だった悠が、白く裾が広がった服に変わっていく。白いマントが風に呷られた。
 背中に背負っていた、身長ほどもある剣を肩に乗せ、気乗りしない様子で辺りを見回している。
 千影はこの日二度目の非日常を目にして、固まった。いや、そんな場合ではない。
 空から降ってきた男が手にしていたのは、槍だったからだ。
 大事そうに首元に巻いたマフラーと、黒いジャケットに黒いズボン。悠とは、明らかに対称的だ。
 年は悠とそう変わらないように見える。いや、同じだ。何故ならば、その姿形、全て悠と一緒だったからだ。
 千影は悠の方を見るが、彼は彼で黙してなにも語らずにいる。
 どうやら詳細を自分に教える気は全くないらしい。
 ただひとつハッキリしているのは、視線が真っ直ぐに千影に注がれていることだ。
「こんにちは。もうこんばんはかな?」
 心臓が、大きく鳴り響く。
 まるでなにかを呼び覚ましているような、その鼓動。
 心臓の底で、体の奥で、脳の隅々で、なにかが疼いていた。
「殺しに来たよ、千影ちゃん」
 千影は気付けば一歩前に踏み出していた。
「おい、迂闊に前に出るな阿呆」
 悠の言葉も最早意味をなさない。それほどまでに、心臓は痛みを増していた。
 フィルムのように流れていく記憶は、自分のものではない。だが、なにか切ない痛みを伴って彼女の胸を刺す。
「てめえ、まだあんなブラック企業でバイトしてんのかよ」
 ロングソードを男に向けて、悠は敵意をあらわにした。
 その言葉を聞いた彼は、悠とは違った無邪気な笑みを浮かべる。ただしそれは、悪魔、に限りなく近い。
「ねえ兄貴、別にオレは兄貴に用があるわけじゃないんだよ」
 そう二人が話している間にも、脳内はどんどんと自分ではない誰かの記憶を掘り起こしていく。一人の人間が抱えられる記憶の量を越したようにも思えるほどの量だ。
 千影は悠とよく似た彼を頭の中で見た。その彼と、記憶の中のある一人がブレて――合致する。
 決して、同じ顔の悠を見ても思い出さなかった、その顔だ。
「……やっぱりアリシア様、ですよね?」
 男の口からそう漏れ出た。
 まだ断片的にしかわからないが、それでも目の前の男と、映像の中の男が一致する。
 目を見開いた彼は、迂闊に彼女に近付こうとした。 
 つんと尖った剣の先が、男の喉元をとらえる。それは殺意のない刃ではあったが、恐らく悠は、容赦しない。
「……あなたの、名前は」
 さっきまでもやもやしていた頭の中が、すっかりクリアになっている。
「陸」
 彼は、そう答えた。
「蓮見陸、です」
 陸に近付こうとした千影に、悠が剣の切っ先を突きつけた。その瞳は動揺の色を含んでいるが、それよりも職務に忠実であろうという意思の方が強く取れる。
「高里、コイツが波原の言う『馬鹿共』の組織の奴らだ。お前が俺に殺されたくなければ大人しく後ろに隠れてろ」

 前世で陸と千影の関係性があろうが、現在は悠が千影を守ることになっている。
 それは、前世と現世の決定的な違いだった。
 悠の傍らにいる千影が、心臓を押さえる。
 それは確実に、兆候だ。
 燐光を発した千影の体が、変わっていく。紫の制服が、真っ白な服に変わっていった。ノースリーブの白い服だ。その腕には手の甲まで伸びるアームカバーをつけ、ボトムは白いミニスカートで、その斜めにしめられたベルトには色とりどりの宝石が輝いている。
 その姿になってから、千影はまず、自分の足を見た。制服のスカートとは違う、スーツのように自分を締め付けるタイプのタイトスカートだ。靴は白いニーハイブーツである。
「こ、れは」
「兄貴」
 陸が槍を回転させ、刃を悠に向けた。それは明確な殺意だった。
「千影ちゃんを渡す意思、ない?」
「ない。俺の時給が減るんだよ」
 ため息をついて、陸は悠に一歩、近づいた。
 千影はわけがわからない状況ながらも、自分が持っている能力を理解し始める。
 手を赤い宝石に近付けると、静かながらもさっきとは別の鼓動を感じた。
 大きな剣。それは千影の身長を大きく超える、巨大な剣だ。
 赤い刃が禍々しく光るその剣は、ルビーでできている。
 イメージはすんなり引き出せた。
「陸、殺すぞ」
「兄貴を殺して、千影ちゃんを連れ帰ったらオレの時給が上がるんだよね」
 彼女の目の前の気配が、ゆっくりと遠ざかっていく。陸を殺そうとする悠が、近付いているのだろう。それだけは、いけなかった。
 宝石の中から、剣の柄が出てきた。ずずず、と音を立てているような仰々しさがあったが、その剣が出てくる様子を見て陸が目に涙を潤ませる。
「ああ、やはりアリシア様だ」
 その持ち上げるまでは重くて仕方なかった剣は、風のように軽く、重さを決して感じさせなかった。
「……今日は退いてくれ、陸くん」
 悠よりも先に走り出て、千影は陸に斬りかかった。彼はその剣を躊躇いなく槍で受け流して、目を細める。
 千影の前世の記憶が断片的であるせいで、陸が自分とどのような関係を持っていたのか全くわからないのだ。
「退けば、オレと一緒に来ることを少しでも考えてくれますか?」
 自分より年上であるはずの、陸が敬語を使う。この意味を考えながらも、千影はゆっくりと剣に力を込めた。炎のように枝分かれしたその剣は歪で、今にも陸の喉元をかききりそうだ。
 しかし彼は怯むことなく、ゆっくりと千影の剣を押し返した。
 空気が水に滲むように湿り、陸が乾いた唇を舐める。
 悠はその様子を、様々な感情が含んだ瞳で眺めていた。波原がなにかを含んでいたときは、必ずなにかが起こるのだ。それは彼の計画の元で自分が踊らされているという証拠でもあるが、悠はさしてそれを気に留めなかった。
 踊らされることを是とするだけの、貸しがあるからだ。
「……確実に、とは言えない」
「一ミリでも考えていただける可能性があるならば、この退きはオレにとって無駄ではありません」
 強い力を伴った槍が、その力だけで千影の剣を押し返した。
 地面の摩擦に負けぬように、千影はぐっと足を踏みしめる。
 彼女が顔を上げた瞬間、陸は天に向けて親指と中指の腹を合わせていた。
「またお迎えに上がります。それまでオレのこと、忘れないでくださいね」
 赤黒い空に響いた指を鳴らす音と共に陸が消え、辺りは自然の色を取り戻す。
 そこに残されたのは、不機嫌そうな顔を隠さずに表現している悠と、産まれる前の記憶を手繰り寄せようと必死に頭を悩ませている千影の、二名だった。
 空はダークグレーになり、電灯が光り出す。
 時間にして、僅か十分の出来事だった。





第2話へ続く


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