永遠の紅蓮

第18話 君が望む結末


 部屋から出てきた悠と千影を、陸が出迎える。
「……千影ちゃん、貴広を止めるんでしょ?」
 開口一番でそう言われて、千影は頷いた。
 言葉にしなくても伝わるその心に、素直に感謝する。
「うん。止める」
 施設内は様々な人間の叫び声が飛び交っている。
 時折爆発音も聞こえ、もし氷蒼を潰せなかったとしても、立て直しは多くの時間を必要とするだろう。
 徹底的に、破壊することができれば。
「じゃあこっち、案内するから!」
 走り出した陸を、悠と千影が追う。
 前世には揃うことがなかった、三人だ。
 それはどんなに心強いだろうか。
 階段を降りると二人組の男性に出くわす。
 悠と陸が先に出、その一閃で二人組を薙ぎ払った。悠が剣を振り下ろすと光が男を貫く。陸が槍の柄をもう一人に叩き込むと、男は壁に背を打ち気を失う。
 後ろの通路から三人目の男が走ってきた。
 明らかに千影を狙っている。
「遅い」
 地面からシルフの盾が現れ、男から放たれた氷の攻撃を全て弾き返す。
 そしてシルフの風と共にフェニックスを出し、投げつけた。炎が風に巻き上げられて、男の体を燃やしていく。
「私は今、急いでいる」
 苛立ちを隠さない声に、悠と陸は冷ややかなものを感じて背筋を震わせる。
 四階にいたところを、三階に降りてきたらしい。すぐに一階へ降りることができそうにはなかった。何故なら、更に下へ向かう階段が破壊されていたからだ。
 悠がすぐに踵を返し、奥の方へ向かい始めた。
「非常階段があるだろ。行くぞ」
 みんな無事でいてほしい。そう思いながら、陸に先導を任せつつも走り始める。
 悠の予想通り奥には非常階段があって、ドアを開けると同時に冷たい風が流れ込んできた。
 一瞬のためらいもなく、千影は階段の踊り場から飛び降りた。その衝撃を力により軽減することはできるが、高い場所であることは間違いない。
 驚いて悠と陸が非常階段を出て下を見やると、青い髪がまるで踊るように地面に着地したのが見える。
「マジかよ……」
 悠は頬を引きつらせて、陸の方を見た。双子の弟は苦笑いをして、悠の背中を軽く叩いた。
「千影ちゃんがお転婆なのは今に始まったことじゃないだろ、兄貴」
 そしてそのまま駈け出して、ひらりと柵を乗り越える。綺麗に着地した陸はそのまま地面に向けて力を展開した。
 地面に広がったそれはどうやら推測する限り、衝撃を更に吸収するためのものなのだろう。
「オーライ、兄貴、大丈夫だ」
「仕方ねえな……」
 悠もそのまま、陸が繰り広げた力の上に降りた。
 見る限り全く衝撃を吸収するようなものではないのに、驚くほど足首を痛めることなく着地できる。
 千影の姿を確認しようとすると、既にその場にはいない。
 きっと突っ走っている。悠は急いで走り出した。

 波原はポケットに手を入れ、涼子は煙草を吸って腕を組んだまま、もう何十分かが過ぎていた。
 お互いに戦う気があるのか、わからない。
 その傍らで、ただ棗は立っていた。
 何も口出しをしないという約束で、同席していた。目の前の二人は何かを言いたそうでもあり、言いたくなさそうだった。
 涼子の私室と思われる部屋は、簡素だ。
 赤いベッドと本棚、そしてテーブル、それしかない。
 あまりに生活感のないその部屋の中で、緊迫した雰囲気が漂っている。
「……とうとう来たぞ、涼子」
「ああ、そうだな、貴広。わたしを殺しに来たのだろう?」
 二人とも、視線を合わせようとはしなかった。
「ガキどもはどうした。高柳が相手してるのか?」
「悠と陸たちのことか? 千影を助けに行った」
 涼子は鼻でそれを笑い飛ばした。
 最初から何もかもこうなることを、知っていたようだ。その右手の平を見て、そのまま握りしめる。
「……何が愛だ」
「なにが約束だ、か?」
 波原がポケットから煙草を取り出し、ライターで火を点ける。
 約束した。あのとき、絶対に助けに来る、と。波原はそう言って施設から出たのだ。涼子を置いて。
 抱えきれないほどの人間の前世を視、そして先天性の人物を選別した。
 その多くは、死んでいった。
 波原がしていることは、氷蒼とそう変わりはない。
「嘘つきな男だ、全く」
 淡々と喋る涼子の口調に、濁った感情が垣間見えた。
 怒りなのか悲しみなのか、彼女の本当の気持ちは波原でさえも知ることはできない。
「紅蓮と氷蒼、両方の組織が戦って共倒れ、両方の頭が生死不明……建物は倒壊、氷蒼に残されている研究資料も全て焼失。それで……その終わりで、いいとは思わないか」
「生きていたってこのまま利用され続ける。ならわたしはここで死ぬと、決めていた」
 外からは焦げたにおいが、漂ってくる。
 人間の、焼ける臭いだ。
「随分な人数をこの結末に持ってくるために付き合わせた。皮肉なものだな、貴広。人間を殺すのも人間で、人間を救うのも人間だ」
 長い黒髪が、風にあおられてふわりとなびく。波原は無言のまま、煙草の煙を吐き出した。   
 部屋の中に溶け込んで、消えていく。
 これ以外の結末が、二人は思いつかなかった。
 二人で逃げ出せば、きっと捜索の規模が広がって、両方とも見付かるかもしれない。
 だったら、ここでどちらかが残って先導する役割として後天性を生み出し続けるということが、当時二十歳だった二人が思いついた結論だった。
「わたしたちが脚本家なら三流だ。誰も傷付かない方法を思い付くことができなかった」
「映画は好きだが、作るとなると上手くいかないな」
 どこかフィクションだと、思いたかったのかもしれない。
 今こうして行われている出来事が、全て映画の中であってほしいと。
 波原と涼子はその中の役者に過ぎず、撮影が終わればまた手をつないで歩けると。
 少しだけ吸った煙草を波原は投げ捨て、足で火を消す。ジリジリと小さな音を立てて、煙草の火は消えた。
 その手から、波原は千影の使っている剣、フェニックスを取り出した。
 涼子は目を閉じてそのまま、高柳が使っていた剣を取り出す。
「全く便利なものだ」
「前世を視た人間の能力をコピーできるなんてな。裏を返せば万能だが、オレたちには自我や特色、個性が全くない。涼子、終わりにしよう、今日で」
 波原の体から溢れ出るような炎が、涼子を襲おうと熱風を放ったそのときだった。
「貴広さんっ!」
 勢い良くドアが開く。
 腰に衝撃を受けて、波原は思わず出しかけていた炎を止めた。
 涼子も攻撃することはなく、その剣を一度、静かに降ろす。
 棗が目を見開いて、波原の腰へと目を向けた。
 千影が波原の腰に抱きついて、顔を背中に押し付けている。
 その声を波原は、聞いたことがある。
 自分を恋愛感情で慕ってくれた女の子の声だ。
「千影……離せ」
 怒りに身を任せ振り返ると、そこには怒ったような表情の陸と、息を切らせ下を俯く悠がいる。
 ここまで走ってきたというのか。
「嫌です、離しません。貴広さんこそ……貴広さんこそ、その剣、しまってください!」
 涼子はただ静観し、陸と悠、棗、そして千影を一巡眺めた。唇から細く息を吐き出し、剣を投げ出して煙草を一本取り出す。
「なぜ、しまう必要がある……おれは涼子を、ここまで殺しに!」
 貴広は無理やり千影を引きはがそうとする。
 しかし千影は離れる気配を一切見せず、悠と陸もただ黙って見ているだけだ。
「悠、陸、千影を離せ!」
「離すつもりがあったら、ここまで千影を連れてきてねえよ。貴広、腹くくれ」
 何のためにここまでやってきたと思っているんだと、そう怒鳴りそうになって、波原は抑えた。ここで叫んだところで、状況は変わらない。
「やっぱりこんなの間違ってる……貴広さん、涼子さんと一緒に、どこか遠くに逃げてください! それだけで、もうそれだけでいいんです、だからっ……!」
 二人で逃げるだなんて、考えたことはない。
 不可能だと、ずっとそう思っていた。いや、今もそう思っている。
 涼子はずっと自分が殺すと決めていた。
 他の誰にも、殺させやしない。
「……千影、お前、おれのことが好きなんだろう」
 彼女からの返事はなかったが、わかっていた。
「今おれから離れて、涼子を殺させてくれ。そうしたら、おれはお前と付き合う。おれはお前を好きになる。約束しよう」
 何も言葉にしてこなかった棗の表情が変わった。
 そして悠も怒りのあまり踏み出した足を、陸が制した。陸はずっと、波原の方をまっすぐ見つめている。
「離しません」
 泣くのをこらえきれないような、そんな声の調子だ。どうして、と波原は苛立ちを隠せなくなる。なぜそのような、聞き分けのないことを言うのだ。
 千影はどうしても止めたかった。こんな結末になっても、得をする人間は、晴れやかな気持ちになる人間は、事情を知った紅蓮の中には誰もいない。
 そして更に、波原がいなくなったら。
 どこかディナーに連れて行ってくれると約束した千影は、連れて行ってもらえることは二度となくなるのだ。
 波原をここで終わらせたりなどしない。
「なぜだ千影!」
「貴方が!」
 泣き叫ぶように、千影は声を張り上げた。涼子はただの一ミリも表情を動かすことなく、その様子を眺めている。
「貴方が……涼子さんを、愛しているからじゃないですか!」
「やめろっ!」
 今度こそ耐え切れなくなって、怒鳴りつけた。今までこらえてきていた感情という感情が溢れ出し、吐き捨てるように口にしていた。
「そんなこと認めてしまったらおれは、抱えてるもの全て投げ出さなければいけない! おれには……氷蒼を、壊す、義務が」
「高里千影」
 波原が揺れ始めたそのとき、涼子のムチが唸りを上げて千影だけを叩き飛ばした。
「千影!」
 叫んだ悠が駆け寄ろうとするが、それも陸が止める。
「陸っ……!」
「千影ちゃんの指示があってからでいい。今は千影ちゃんが貴広に真正面からぶつかってるんだ、オレたちが入り込まなくていい」
「だが……!」
「オレたちは千影ちゃんより大人だろ。悠、我慢しろ」
 双子の弟にそう言われては引き下がるしかあるまい。はやる気持ちを抑えて、悠は千影を、波原を、涼子を見守ることにした。
 千影が吹き飛ばされたのを見て、波原の目が大きく見開かれる。
 すぐに赤い炎が涼子を襲うが、千影のシルフの盾がそれを遮った。壁に打ち付けられた千影は起き上がろうとして、涼子を睨み付ける。
「貴方も、それで、いいんですかっ……」
「いい悪いの問題じゃない、小娘。そうあるべきなんだ、わたしも、貴広も」
 千影の方向に歩いていった涼子は、そのまま彼女の腹を蹴り上げる。だが千影も引かず、右手を振り上げるが、容易く涼子に受け止められた。
「こんな赤子のような力で、わたしに勝てると思っているのか。よく止めようなど考えられたな、わたしたちの気持ちも知らずに」
「知る、もんですか……」
 ぽたり、と地面に涙が一滴落ちた。そのまま流れてくる涙を止めることはせずに、千影は涼子を睨み付ける。
 大きな爆発音が聞こえたそののち、外ではがらがらと何かが崩れ落ちる音もする。
 反応したのは悠と陸だけで、他は動きもしない。
「知るわけないでしょう、貴方の想いの深さも、貴広さんの想いの深さも!」
 波原の瞳が、険しく細められる。
 その手は電撃を散らしていた。千影もろとも涼子を攻撃するつもりだ。
 迷わず陸が先に出て、その槍で盾を形成する。
 貴広の手から放たれた稲妻は、盾に吸収されて消えていった。
「陸……貴様氷蒼に寝返るか!」
「違うよ。涼子サンを殺すだけなら好きにしてくれ。でも千影ちゃんに怪我はさせない」
 千影はショックを受けたように目を見開き、そのままうなだれたように立ち上がる。
 自分が波原にとってどの程度の存在なのか、わかっていたつもりだった。
 だけど、好きだった。
 もう、好きなだけに、しておこう。
「今さら説得でどうにかなると思っているのか」
 波原の泣きそうな声を、悠は初めて聞いた。震え、今にも壊れそうだ。
 だが千影は躊躇うことなく、彼の背中を押し続ける。
「なってください、今すぐ、二人で、逃げてください!」
 その瞬間だった。涼子の背後から強烈な閃光と爆発音が聞こえて、皆の視界をくらませる。
 目が視界を取り戻したとき、あまりにもあっけなく、涼子が倒れている。
「涼子ッ!」
 なりふり構わず、貴広はその元に駆け寄る。
 千影は呆然としたまま陸に抱えられて、双子のいる場所へと戻ってきた。
 涼子が倒れた床の下からは、じわじわと血が流れている。
 部屋の中は炎に包まれ、このままでは五分ともたないだろう。
 早く逃げなければ、建物自体が倒壊するに違いない。
 なのに誰もその場から動くことができなかった。
「涼子、ウソだろ……死ぬな、オレがお前を殺すんだ!」
「……ははっ、どうせ、もう、おしまい、だ……。行け、貴広……もういい、生きろ」
「お前を置いてなんて、生きられるか!」
 涼子を抱き上げようとする波原の頭上で、光が輝いた。上から大きな爆風がやってくる。
 悠は千影と陸に覆いかぶさるようにして爆撃を防ごうとする。
 衝撃も痛みもなく目を開けると、そこには緑色の盾が展開されていた。千影が、その攻撃をシルフで防いだのだ。
 貴広が千影を睨み付ける。
「……どうしてもっと早く、涼子がこうなる前に展開させなかった!」
 それを聞いた千影は、微笑みを浮かべる。
 やっと本当の気持ちを言いましたね、とでも言わんばかりの表情だ。棗も小さくため息をついて、次の行動へと目を向ける。
「咄嗟にその言葉が出るなら、あなた達は二人で生きるべきです。悠、陸くん、棗さん!」
「ああ」
「千影ちゃんの仰せのままに」
「地図は全て頭のなかに入ってるわ」
 逃げるなら今の内だろう。四の五の言ってられる状況じゃない。
「はい。涼子さんを連れて、ここから逃げます。麗奈に会うことができれば、彼女を助けられる。悠、私と一緒に先頭に」
 頼られている。そう気付いた悠は、状況が状況でありながらも、嬉しくなる。
「わかった。……おい貴広、呆けてんな。まだ死ぬわけじゃない。後悔は死んでからしてくれ」
 地面に座り込んだまま微動だにしない波原を、悠は立ち上がらせた。
 涼子の意識はないが、脈がしっかりとある。
「りょ、うこ」
 そんな波原の様子をチラと見てから、千影は両手で自分の頬を思い切り叩いた。
「……よし。私が悠の盾になる」
 千影の頭の中は、どこかスッキリしていた。
 今はただ、波原と涼子を救い出し、一刻も早く二人を病院に連れて行かなければならない。そのためには、みんなの力が必要だった。
 誰にも頼らずここに来たわけではない。
 誰にも頼らず強くなったわけではない。
 だからこそ、みんなの力でここを壊し、出るのだ。
 無言で悠はマントを翻す。
 かの朽ちた国レネディアの紋章が、そこにはあった。
「アホ。俺がお前の盾になるんだよ。俺を使え、千影。ここから先はお前に託す。貴広を助けろ」
 青い髪の少女は力強く頷いた。そして悠と共に駆け出す。

「……キリがねぇな」
 屋上からライフルのスコープを覗き、ため息が出る。
 今回の目的、千影を救出したその先は氷蒼の壊滅だ。
 彼の横には麗奈がいて、ドアを開いて攻撃しようとする氷蒼の人間を焼き払っている。
 熱風で汗がじわりと垂れ落ちた。
 その瞬間、数階下の窓から飛び降りる影を樹の目は捉えた。見間違えるわけがない。千影た。
 すぐさま体を起こした樹は、麗奈の方を振り向いた。
「麗奈、悠と陸が千影を助けた! ギリギリだ、崩れる前に地上に降りるぞ!」
 黒いフードの下で麗奈は泣きそうな瞳を森谷に向け、頷く。
「っ……うん、うん……!」

 千影たちが降り立った先は乱戦の真っ最中だった。蓮は腹部から血を流しながら、歯を食いしばって男の顎を砕く。
 その蓮と背中合わせで、男性の姿をした美亜が短剣を女の喉元に容赦なく刺し、引き抜く。
 彼女と悠の、視線が合った。
「蓮、美亜! 千影を助けた! 一旦退け!」
「っ……了解」
「わかった」
 返事をするために後ろを向いた蓮の背後に、男が斧を持って立つ。
 彼が目を見開いて死を覚悟した瞬間だった。
「伏せっ!」
 まるで犬に対する命令かのように鋭い声が聞こえ、蓮は反射的に頭を下げた。
 その真上を細く長い足が飛んでいく。
「ぎゃああっ!」
 男の叫び声と、上から血が降り注いでくる。
 蓮を助けたのは棗だった。
 口元を隠したマスクを外し、蓮を見てホッとした表情を浮かべる。
「棗さん……」
「無事ね、よかった」
「ありがとうございます」
 千影は周囲に視線を巡らせる。樹と麗奈の姿が見えず、どこかで倒れているのか不安になったときだった。
 変身を解いた美亜に抱きしめられ、硬直する。
「あ……」
「高里千影ちゃん? 悠をよろしくね」
「み、美亜、さん……」
 何と返していいかわからずに困っていると、横から棗の声が聞こえる。
「あとは樹くんと麗奈ちゃんの二人ね。千影ちゃん、これからここを破壊するわ。高柳仁はどうするの」
 聞かれて顔を伏せる。でも、答えは決まっていた。
「……悠」
「なんだ」
「高柳くんの前世の記憶、消したんでしょ」
「ああ、本当に消えたかわからねえが」
 強く瞳を閉じてもう一度開き、改めて棗の方を見る。
「棗さん。助けてください」
 その視線を受けた棗はにっこりと微笑み、ピースサインをする。
「お姉さんに任せなさい」
 そのまま棗は軽やかに壁を伝って、そ飛んでいく。
「蓮、動けるか」
 陸が蓮に肩を貸して起こさせる。
 よほど腹の傷がひどいらしく、また目的をほぼ達成したとあれば、痛みも尋常じゃないことだろう。
「あまり、無理はできないが……だいぶ数は減らしたぜ……」
「助かった。ここから離れていろ。そろそろ終わらせる」
 悠は陸に目配せする。陸は静かに頷き、蓮の体を支えて歩き出す。
 一方、千影と樹の視線が合った。千影は樹と麗奈、二人の存在が屋上にあると見るや否や、ウンディーネを取り出し樹に照準を合わせる。
 慌てて悠はその肩を掴んだ。
「おい、千影!」
「大丈夫」
 矢は放たれる。それを追うようにして水流が横に広がり凍り始め、滑り台となる。
 気付いた樹はためらいもなく、麗奈を俵のようにかついだ。
 千影の目には麗奈の恐ろしい表情が見えたが、樹はあそこで女性に怪我をさせるような人間ではない。
 氷の滑り台を立ったまま、波に乗るように樹が滑る。
 そのあとを、氷蒼の面々が追ってこようとした。
 悠が剣を構え、樹たちが地面にたどり着くのと同時にその氷を駆け上がる。
 もはや千影と悠に、言葉は要らない。
「風よ」
 千影の詠唱一つで悠の靴底に風がたまり、彼の体を持ち上げ滑らないようにする。
 ただ前に進む風に乗って悠は男を二人切り裂いた。
 返り血が頬にべっとりとつくが、悠は気にしない。
 その剣を血振りし、鞘に収める。
 あとはもう、帰るだけだった。
「ちかっ……千影ぇっ! 無事で良かったよぉ……」
 麗奈はボロボロと涙を流しながら、千影に抱きつく。焦りながらもそれを抱きとめて、千影はごめんねと麗奈に謝った。
 その後ろで滑り台はただの水に戻り、悠の周囲にある風は勢いを失ってゆっくりと地面に足がつく。
 それと同時に、棗が高柳を抱えて戻ってくる。
 彼は寝息を立てていた。
 少なくともこれで、助けるべき人間は助けられたはずだ。
「樹、仕上げだ」
「命令すんなって。千影、何だっけ。盾みたいなの、オレがコレ投げたら展開してくれよ。爆風凄いから」
 彼が取り出したのは、大量の手榴弾だった。
 千影の盾ありきの作戦ではあったのは、悠と陸が必ず助けると思ったからだった。しかし、陸はともかく悠にそう気付かれるのは癪なので、樹は口にしない。
 千影はまじまじと手榴弾を見つめ、呟いた。
「これで全部壊れるの?」
「心配要らない」
 そうして樹は、麗奈を見た。
 手榴弾を投げたあと、千影の盾で紅蓮の全員を守ってもらい、麗奈が炎の魔法で爆発を拡大させる。それも全て固有結界の中であるため、一般市民には何の被害もない。
「麗奈」
「うん」
 呼ばれた麗奈はこくんと頷く。
「悠、痛いと思う? 痛覚はないんだけど」
 横で声が聞こえて、千影はそちらへと目を向ける。遠く氷蒼を見つめながら話す悠と、美亜だった。
「どうだろうか。このまま生きててもいいと思うけど、俺は」
「バカ言わないでよ。死んだ人間は死んだまま、それでいいの。大体やーっと安心してぐっすり寝てたんだから、もう一回寝かせてよ」
「ははっ……じゃあ、またいつか」
「うん。またいつか」
 麗奈は躊躇うように美亜を見たが、彼女はニッコリと笑って氷蒼へと駆け出していく。
 まさか、もう一度死ぬというのか。
 追おうとした千影の腕を、悠がつかむ。
「悠!」
「アイツはもう死んだんだよ、千影。だから、話すことは何もない。あのとき、美亜は終わったんだ」
 樹が同時に手榴弾を投げた。麗奈の手から大きな炎の渦が放たれ、熱気を更に広げていく。
 手榴弾に炎が触れた瞬間だった。
「千影!」
 樹に呼ばれて千影は反応する。
 緑色の盾が主とその仲間たちを守り、その向こうでは轟音が聞こえた。
 実際に衝撃を受けないが、千影はその爆発に耐えるようにして力を展開させていた。
 その肩を、そっと悠の手が支える。
 誰よりも、心強かった。

 数分も経っただろうか。
 感覚的ではあるが、もうもうとした煙が晴れていくのを感じた千影はその盾を風に戻す。
 一瞬だけ煙がこちらへ押し寄せてくるが、主を守ろうとする風が全てを上空へ散らして溶け込んでいく。
「……うっわあ、樹も麗奈も、容赦ねー」
 そう呟いたのは、陸だった。
 全てが倒壊している。
 この中にもし生きている人間がいるとすれば、それはもう奇跡の重なりだろう。
 そしてそこに、美亜はいない。
 誰も喋らず、建物が崩壊するがれきの音だけがぱらぱらと聞こえる。
「……終わった?」
「千影ちゃん、終わったんだよ」
 千影の横では、行き場をなくした子供のように涼子を抱いた波原が立ち尽くしていた。
 本当にこれで良かったのかはわからない。
 波原の最大の目的を潰してまで涼子を救うことが正しいことだなんて、誰にも判断できなかった。
 でも、そこは理屈ではなかった。
 波原が好きな人を、波原を笑顔にできる人を助けて、そうしたら、きっと波原はまた笑ってくれるはずだ。
「帰るぞ」
 悠の声でやっとみんなが歩き出し、氷蒼に背を向け始めた。
 悠はいつも通りに、ポケットから出した煙草に火を点けて、煙を空に吐いている。
 最後尾をゆっくり歩く悠の前に立つ。
「……何だよ」
 言葉が出てこないのは、どうしてだろう。
 言いたいことはたくさんあった。
 どうして美亜を見送ったのかとか、どうしてあんなに優しいキスをしたのかとか、その全てが口にしようとしても、無駄な気がして。
「ごめんなさい……余計なことした」
 やっと出てきた言葉を聞いて、悠は煙草を咥えたまま目を見開くだけだった。
 そしてしばらくキョトンとしてから、ふっと笑って千影の頭をくしゃりと撫でる。
「……帰るぞ」
 その背中は、やっぱり大きい。
 越えられることはないのかもしれないと思いながら、後をついていく。
 この人はやっぱり強いんだ。自分よりも、遥かに。


最終話へ続く


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