永遠の紅蓮

最終話 繋がれた希望


 あれからあっという間に数日が経った。
 波原・涼子・蓮の三人は入院している。
 波原に怪我はないのだが、無気力状態で誰かの世話が必要だという理由からだった。
 涼子は意識を取り戻しはしたものの骨折で動けないと聞いている。
 蓮は既に元気らしく、暇を持て余しているとのことだ。
 そんな中、学生組は変わることなく日常生活を送っていた。
 波原の元へは、棗が足繁く通っている。何を話しかけても無反応らしいが、「大丈夫よ」と彼女は千影に話していた。
 あんなに死にそうな思いをしたのに、世間は変わることなく、いつも通りを繰り返している。当たり前のことだけれど、誰にも知られていないということは少しだけ、寂しかった。
 気怠いまま四時間目の授業を受けていると、終了のチャイムが鳴る。次はようやく昼休みだ。お腹が空いて気が気ではなく、すぐにでも食堂に行きたいくらいだ。いつものメンバーで食堂に行こうと立ち上がった、そのときだった。
 廊下から女子生徒の叫び声のような声が聞こえる。
 そのうるささに千影は眉をしかめた。
 あれから夜ごと考え事をしていて、常に寝不足気味なのだ。頭に響く。
「何だあ?」
 陸が立ち上がって、廊下の窓から顔を出したそのときだ。
「げっ、兄貴!」
 すぐに顔を引っ込めて、今まで見たことのない不快そうな表情を浮かべる。兄貴という時点で既に予想がついていたが、千影も気乗りしないながら窓の外を覗いた。
「ねえねえ悠先輩、麗奈と別れてあたしと付き合ってよ〜」
 女子生徒が、蓮見悠の腕に絡みついている。
 長身で金髪で緑目で、間違いなく蓮見悠だ。
「麗奈ちゃんとは別れたよ。しばらく俺、彼女作る気も、遊ぶ気もないからさ。ああ、千影、いたいた」
 その言葉が予想を越えも越えて、千影は後退る。しかも、一番聞き捨てならない部分があった。
 今しがた、麗奈と別れたとほざいた。
 千影が咄嗟に麗奈の表情をうかがうと、彼女はにやりと笑って「行け」と合図を飛ばしてきた。
 自分は偽彼女であるからして、自分と悠の関係性自体が麗奈に不誠実であることは間違いないのだが、それでもこの事件が終われば悠はまた麗奈と付き合い始めると思っていたのだ。
 悠の方へ歩いていき、腕をつかむ。
「いっ、いまお前っ、なんっ……麗奈と、お前、ぶっ飛ばされたいのか!」
「ご挨拶だな。せっかく俺がお前に会いに来たっていうのに」
 その発言に教室どころか廊下も湧く。
 必死に否定しようと、助けを求めて樹の方を見るが、その頼みの綱すらも呆れたような顔をしていた。
 助けは確実に得られそうになかった。
 がっくりしていると、突然腕を引かれた。
 悠の熱い吐息が耳にかかって、耳打ちされているのだとわかる。
 またもやそれで教室が湧くが、内容は真面目だ。
「涼子の目が覚めた。お前と話したいそうだ」
「私と? まだ授業あるんだけど」
「……サボってこい、だってよ」
 悠は簡単にそう言うが、世間は夏休み前、つまり一学期末テストの直前なのだ。
 顎に手を当てて悩んでいると、ぽんと肩を叩かれる。
「行ってきなよ。先生にはうまーく言っておくからさ」
 麗奈はニヤニヤしながら、悠と千影を交互に見る。
 それよりも気になることがあって、麗奈の肩を掴む。
「いやっ、麗奈、その前にこいつと別れたって」
「え? うんうん、やっぱりあたしくらいになると、もっと理想高く行かないとね。ねえ、悠?」
「俺より上なら相当いるぞ」
「えっ、ちょ、ちょっと……」
 完全に置いていかれている千影は、反応に困って動きを止める。しかしこのままでは人だかりが散らないどころか、教師が来る可能性もある。
 入校許可証がないということは、ちゃんとした手順を踏んで校内に入ってきていないのだ。
「ね、千影。行ってきなよ」
「え、あ、うん……」
 麗奈に促されて、何が何だかよくわからないままひとまず学校から早く出ようと用意を済ませてスクールバッグを持ち上げる。
「じゃあ、早退します」
「うん、また明日ね」
「……はぁ、もう信じられねー、蓮見兄」
「あーあ、ほんっと邪魔ばっかりするよね、兄貴」
 それぞれがそれぞれの反応を示す。
 苦笑いしか出てこないが、悠らしい登場の仕方だった。周囲の羨望の眼差しに耐えかねてそそくさと退散しようとした千影は、麗奈に肩を叩かれる。
 振り返れば、そっと耳打ちされた。
「悠って王子様みたいじゃない? 千影にぴったり」
 あまりにも王子様とはかけ離れているという部分で、残念な声が漏れ出た。
「ええー……?」
 げんなりした顔で千影は悠を見上げる。
 少なくとも会話の内容はろくでもないと察した悠は、その額を中指で思い切り弾く。
 壮絶な痛みに涙目になって悠を睨みつけた千影であったが、悠の表情はかなり涼しい。猫かぶりめ、と口の中で呟いて怒りを相殺しておく。
「いいから行くぞ」
 ごく自然にその手を取り、悠は千影と歩き出した。
 後ろでやっかむ女子生徒の声が聞こえている。
 しばらく周りがうるさそうだ、と千影はため息をついた。こうなっては最早、開き直るしかないのだろうか。
 校内移動中も、他の生徒に勿論出くわす。何事かと目を見開く生徒もいれば、悠を知っているのか嫉妬に顔を歪ませている女子生徒もいた。
「手、手、繋がなくていいからっ……!」
 必死に訴えると、アッサリ手を離された。
 学校では恥ずかしいなんて伝えたら、どんな顔をするのだろうか。
 ニヤニヤされそうで、口にはとてもできない。
 外は曇りだった。外に出てみると肌寒さを感じる。ブレザーの効果は薄そうだ。
 千影が腕をさする。すると後ろから、煙草のにおいと共に悠の腕が回ってくる。抱きしめられているのだと気付いて、ハッとした。
 まだ校門を出てすぐだ。
「おまっ……え、離せ、学校中に見られるだろ!」
「じゃあ、物陰ならいいのか?」
「うっ……」
 怪訝そうに二人を見る生徒たちの間をすり抜けて、千影も知らないような隙間に連れ込まれた。普段なら蹴り飛ばして逃げ出すところなのに、色々な感情が混ざり合って、そんな気になれない。
「ほら」
 悠が両手を広げた。意図するところがわかった千影は怯むが、彼は微笑んでいるだけだ。
 きゅうと胸が疼いて、泣きそうになる。
 一歩だけ前に進めば、力強く抱き寄せられた。それは偽恋人だったときには考えられなかった優しさと、甘さだ。
「……ひとつ言っておく」
 心に秘めておくつもりだった言葉が、ぽろりと転げ出てきた。
 波原のことは、好きでいようと思ったのだ。しかしあんなものを見せられて、それでもまだ引かないほど千影は強くはなかった。
「……高柳くんと、その、体を重ねそうになった日だ」
 言っていいものかどうか、今さら迷う。
 だが悠は、言葉の先を待っていた。
 心臓の鼓動が自分のものか、悠のものなのか、よくわからない。
「お前のことは……ええと、よくわからない。最初は嫌いだった。でも、あのとき、そういう相手なら――お前の、悠の方がマシだとか、思ってしまった」
 それまでは悠の胸に寄せていた腕を、小さく彼の背中に回した。煙草の香りと体温で、体が溶けそうだ。
 顔を胸にうずめたまま、伝えるべき言葉を伝えた。
 今までなら、拒否していただろう。悠なんて特に嫌いなタイプの人間だ。だけど彼は、自分の前世の婚約者で、今では大事な相棒だから。
「わからん。貴広さんが好きなはずなのに、そんなこと道理から外れている。私が一番わかっている。だけど、そう思ったんだ。だから、お前のこと、もう嫌いじゃない」
 千影に言えることは、これが全てだった。
 そんな千影の言葉を聞いて、悠はスッと腕を離す。背を向け、ポケットから何かを取り出し始めた。
 怒らせたか引かせたかと思い後悔の嵐に襲われた瞬間、首筋に冷たい線のような感触がした。
 胸元に冷たいものを当てられた気がしてそこを見ると、あのとき欲しいと思っていたネックレスがそこにつけられている。
 驚いて悠を見上げると、その顔は悠の両手で挟まれ、無理やり横に向かせられる。
「……見んな。俺絶対、顔赤いから見られたくねえ」
「そ、そんなこと言ったって、これ前に私が欲しいって言ってた――」
「やる。袋ずっと持ってたからくしゃくしゃになっちまって、現物しかねえけど。つけてろ」
 言葉にならない嬉しさで、泣きそうになる。だけどこんなところで泣けば、悠が困るだけだった。たった一つ、雑草でもいいからディートハルトからプレゼントが欲しかったアリシアの気持ちと重なって、胸が締め付けられる。
「……行くか」
「あ、う、うん……あり、がとう」
 千影はなにも言えないまま、悠はなにも言わないまま十数秒が経ってから、ようやく悠が切り出して歩き出す。
 こちらも顔が火照っていて、とてもじゃないが悠の顔を見ることができない。
 ずっと大事にしようと、そう思った。

 以前陸が運ばれた病院だとあらかじめ聞いていた悠は、何事もなく千影をその病院へと連れて行った。
 途中何度か会話をした気がするが、涼子と話す緊張を考えてほぼ記憶がなかった。
 波原と涼子の病室前に立ち尽くして、千影は下を俯いていた。
 怖かった。あの日から病院には行かず、波原と涼子の存在から目をそらすように生活をしてきた。
 あの二人が幸せであってほしいと、確かにそう思っているにも関わらず、だ。
 この部屋に入って話を聞いてしまったら、何を受け入れなければいけないのだろう。
「千影」
 悠が見かねたのか声をかけてくれて、だけど笑顔で対応する気にはなれずぶっきらぼうに答えてしまう。
「……何」
「涼子さんがお前に不利なことをするとは思えん。俺に話を持ちかけてきたときも、穏やかな表情だった。憑き物が落ちたみたいにな」
 頭を撫でられ、背中を軽く押される。千影が後ろを振り向くと、悠は煙草をくわえて、あ、という表情を浮かべた。
「どうする。俺はここで待ってるか」
 反射的に千影は、悠の手首を掴んだ。
 一人では心細かった。そして、乗り越えられるかも、わからなかった。
「き、来て。一緒に」
「……ああ、わかった」
 そう頼むと悠は微笑んだ。表情から「仕方ないな」感が溢れ出ていて少し癪だが、怖いものは怖い。
 三階の、一番奥の部屋だった。悠がドアをノックすると、「入れ」という穏やかな声が聞こえる。
 悠のあとに続いて恐る恐る入ると、病院着をまとった涼子がベッドの上で本を開いていた。
 ゆっくりとこちらを見て、微笑む。
 隣のベッドで、波原は微動だにせず、窓の外を眺めている。
「よく来てくれた。君にとってわたしは君を傷付けるだけなのにな……蓮見兄、助かった。あれから状況は」
「氷蒼で生きている奴はいないと思うが、最初から外に出ていた奴らのことは知らねえな」
「そうか」
 点滴のポールを持ちながら、ゆっくりと涼子は立ち上がる。
 だが微かによろめいて、調子は全く良くないようだ。
 千影は咄嗟にその体を支える。
「あ、あのっ、立たなくても……話、ここでも、大丈夫ですし」
「そうか……すまないな」
 涼子はそっとベッドに腰掛けた。
「……先に言おう。ありがとう」
 真正面から頭を下げられて、千影はどう反応していいかわからなくなる。
 だって、氷蒼は前世の能力が使える人たちを無理やり目覚めさせたり、望んだ人間にはその力を与えて悪事をさせていた組織なのだ。
 そして高柳さえも利用し、その彼に、千影も利用された。
 だからどんな顔をしていいかわからなくて、まくしたてるように喋る。
「いや、わ、私は、その、だって、貴広さんを、助けたくて」
「ああ、それは蓮見兄から話を聞いたよ。高里、君は甘い。でもその甘さが……わたしを、貴広を、救った」
 思わず、千影は波原の方を見た。きっと今は何も聞こえていないし、何も見えていない。
 波原の最大の目的を、千影が奪ったからだ。
 本当にそれで良かったのかと、ずっと思っていた。そんなことを考えたら、眠れなかった。
 涼子は穏やかな声音で、話を続ける。
 カーテンが風に揺られて、ふわりと舞っていた。
「ずっとわたしは貴広だけに殺されようと、そう思っていた。氷蒼という組織から抜け出そうなんて、考えられなかった。君が助けたのは貴広だけじゃない。わたしもだ」
 あんなに冷酷で容赦のなかったのに、確かに悠の言うとおり、憑き物が落ちたかのような表情だ。
 きっと波原といたときは、今のような顔で笑っていたのだろう。
「わたしはもう、後には戻れない。貴広もだ。今はこうだが……いずれ貴広は、生きていることに目的を見出すだろう」
 涼子の穏やかな瞳が、波原をとらえた。ずっと空を見続け、何を考えているのかはわからない。
 だけどその心が、以前のように怒りや憎しみなどの悪意に塗れていないことだけはぼんやりとわかった。
「……昔だ、貴広と話したことがある。『いつかここから出られたら、喫茶店を二人で開こう』と。わたしと貴広の希望の礎は、もう、それしか残されていない。君がつないだんだ、高里」
 いま何かを口にしたら、全てが決壊しそうだった。波原を確かに好きだった期間があって、そのとき愛しいと、好きだと思った気持ちは本物だったのだ。
 鼻の奥にこみ上げてくる痛さを必死に我慢して、涼子をまっすぐに見つめる。
「……貴広を本気で愛している。だから、君には渡すことができない。でも、本当にありがとう」
「わ、私は諦めてあげますけどっ、涼子さんにはライバルいるの、忘れないでくださいね」
「ああ、花咲のことか?……わたしにも着替えを持ってきてくれている。彼女もまた、お人好しだな」
 あと数秒もつかどうかだ。千影はとうとう耐えかねて、「帰ります」と宣言する。
「来たばかりだろう。ゆっくりしていけ」
 涼子はパイプ椅子を指差して座るように促したが、それを見ようとする視界も滲んでいる。
「学生は忙しいんです」
 一切口を出さずに見ていた悠は、千影が出て行くのと同時にそれについていくように背を向ける。
 ドアを開ける前に一度涼子の方を振り返ると、彼女もまた静かに涙を流していた。
 世間にも、誰にも裁かれはしないだろう。きっとこれから考えることも、やるべきこともあるはずだ。
 それを支えるのは自分の役目ではなく、ここにいる波原貴広という男だ。
 惚れた女一人くらい、早く守れ。
 そう思いながら、前を向く。
「……貴広の着替えまた持ってくるんで。今日は失礼します」
 静かにドアは閉じられた。

 ひたすら泣く場所を探していた。
 周りの人が何事かと自分を見ているのがわかるが、気にしていられる状態じゃない。
 胸が苦しくて潰れそうだ。
「千影」
 階段の暗がりを見付けて、ここなら泣けると思ったときだった。
 ぐいと腕を引っ張られ、視界が真っ暗になる。なのに体は温かくて、自分以外の体温がそこにあるのだと気付いた。
 千影は悠の腕の中で、泣くまいと身をよじらせる。
「泣け」
 しかしその一言で、驚くほどの涙が溢れてきた。
 悠の胸板に顔を埋め、声を押し殺して泣く。
 ぎゅうっと、優しい強さで悠は千影を抱きしめた。
「っ……好きだったの……!」
「ああ」
「でも、あんなにお互い想い合ってて、私……ダメだ、この二人は一緒にいなきゃダメだって……!」
「ああ」
 とめどなく、隠していようと思った言葉が溢れ出てくる。悠にそれを吐き出してどうなるのかという思いがあるのに、痛みに耐え切れなかった。
 都合のいい、自分の痛みに。
「大丈夫だ。泣いていい、全部吐き出せ。お前が貴広のために頑張ってたことは、俺が一番知ってる。そばで見てる。そうだろ、千影」
「悠……」
「ああ」
「悠っ……!」
「いるよ」
 前世の記憶が戻ってきたとしても、自分は高里千影だと、そう思っていた。悠は蓮見悠で、ディートハルトではない。当たり前のことだった。
 なのに、前世は向けてくれることのなかったその優しさが嬉しくて、縋るように、甘えるように泣いてしまう。
 流れる涙は止まることなく、悠の肩を濡らし続けた。

「ごっ……ごめん……」
 悠の持っていたポケットティッシュを使いきり、泣き止んだあとは一時間が経っていた。そんなに抱きしめられていたという事実に、少し気まずい。
 なのに悠は気にすることもなく、ポケットに手を入れて先を歩いていく。
「いーよ。さて、もう学校に戻る気ねえだろ。メシでも食いに行くか」
「まっ、待って!」
 千影は悠を呼び止めた。悠は振り向く。
 その背は高い。切れ長の瞳は綺麗な緑色をしているし、髪はさらさらとしている。
 ――悠ってこんなに、かっこよかったっけ。
 そう思ってから千影は首を振る。
 言いたいことは、そんなことではない。
「どうした?」
「私、まだ、悠に、なにもお礼、してないっ……」
 考えてみれば、数えきれないほどに助けられた。
 最初から、今に至るまで、だ。
 悠は思い当たることがないという表情で、千影を見ていた。
 一拍か二拍置いて、質問が返ってくる。
「……何のお礼?」
「いっ、色々」
 漠然とそう答えられた悠は余計に混乱するが、ひとつだけ思い浮かんだ悠は顎に手を当てる。
 何をしてほしいかと言われれば邪な気持ちが働く。
 キスしていいか聞こうとして、悠はその問いを飲み込んだ。彼女はきっと、いいと言うからだ。そしてそれが自分のためになるとも思えない。
 一方千影は、その問いを予想して構えていた。どうあっても、彼がそういう要求をしてくるに違いないと思っていたからだ。
 妙な沈黙が、二人の間に流れる。
「とりあえず、ここロビーのど真ん中だし。外に出るか」
 そのまま病院のロビーを通って外に出て、千影は胸に手を当てる。心臓がばくばくと音を立てていた。
 果たしてその動悸は、恥ずかしさからなのか。
「……で、それで、だ」
「ははっ……律儀だな、お前」
 悠はくぐもったような忍び笑いをくつくつと漏らし、そのまま千影の手を取る。あまりにも現実離れしたシチュエーションに、千影は二歩、三歩と下がった。
 しかし悠は何も気にすることなく、千影の白い手の甲に口付けた。
 そして、千影の目を真っ直ぐに見る。
「……千影。許されるなら、俺にお前を守らせてほしい。アリシアじゃない。お前のことだ」
「わっ、私がお礼するんだぞ?」
「ああ」
 また沈黙が流れ始めた。
 千影はどう答えたらいいか一切見当がつかないのだ。それがどうしても必要なことなのか。
 悠が、本当に私にしてほしいお礼なのだろうか。
「とっ、とりあえず手、離して。は、恥ずかしい」
 言われた悠は、すぐに手を離す。最初に会ったときのような、憎悪を込めたような視線ではない、まるで大事な人を見つめるかのようにとろけるような瞳だ。
「――守らせろ。それが、礼だ」
「わ、私を守るっていうか、そういうことより、他にさ……」
 悠の指が、肌触りのいい千影の髪を一房柔らかくつかんだ。
 髪はしなやかに悠の口元に持っていかれ、そのまま口付けられる。その姿が美しいと、気付けば見とれている。
「っ悠……」
「他の礼など必要ない。俺はそれがいい」
「でも、私……アリシアじゃないんだよ?」
 ディートハルトがアリシアを守りたいのならまだわかる。だけど、今ディートハルトは悠で、アリシアは千影なのだ。
「もし前世のことを悔やんでるんだったら、気にしなくても……」
 悠はフッと微笑む。
「……違う、守りたいから守るんだ」
「でも……」
 千影の中に、言葉にならない想いがそこにあった。 時にはアリシアであったときの想いが重なることもあるが、目の前にしているのはディートハルトではなく、蓮見悠という別人なのだ。
 どう答えたらいいかうろたえていると、悠が千影の頭を軽く抱き寄せた。
 ふわりと煙草の香りがして、それはとても心地よい。
「俺は結構、お前のこと好きだぞ、これでも」
 顔が熱くなり、咄嗟に胸板を押し返す。きょとんとした顔をして悠は千影を見つめるが、今の言動で千影は理解した。悠が人にモテるのは素で、天然だ。
 勘違いされるだろうことがわかっているだろうに、こんなことを言う人を見たことがなかった。
「冗談言うな……いや……もう、お前がそう言うのなら、心ゆくまで私を守りでも何でもしてくれ」
「冗談でこんなこと言う奴だと思われてるわけ? 俺」
「今までたくさんの女性にそんなこと言ってきたんだろう、私は騙されないからな、全く……」
 千影のスマートフォンがメール受信を告げる。
 後ろで悠が何やら文句を言っているが、内容を確認した。麗奈が上手く先生に説明して早退扱いになったらしい。
 ふと画面から視線を上げると、悠と目が合った。
 心を許されていない――と、最初は思っていた。
 それは事実だ。
 最初紅蓮に入ってきた千影を歓迎しなかったのはなぜか。考えてみればその理由にすぐ思い当たり、千影は反省する。
 前世で深い関わりがあったにも関わらず、その相手が自分に対する記憶の一切をなくしていたとしたら。それは確かに、あんな態度にもなるだろう。
「それじゃ、お言葉に甘えて遠慮なく守らせてもらう。心配するな。俺結構強いから」
「そんな戦闘実力の心配は微塵もしていない。じゃあ、まあ、よろしく……ディートハルトどの」
 握手しようと手を差し出すと、ふわりと握られた。
「こちらこそよろしく頼む、アリシアどの」
 たどり着くまで何百年かかったのかはわからない。だけれど、再会し、互いが互いの記憶を持っているということは奇跡に近いのだろう。
 それならきっと、この時間は大切なものになる。
「さて、メシ行くか。腹減ったろ? 昼休みになってすぐ出てきたしな」
「ああ……そうだなぁ。食べたら図書館で勉強がしたいので付き合ってくれ」
「お前……もう少し色気のあること言えねえのか」
「色気って何。学生なんだから勉強しないといけないのは当たり前だろ」
 二人で文句を言い合いながら、病院を出る。
 外は未だ曇ったままだったけれど、心の中はいやにすっきりしていた。

 この関係に、今は名前をつけないでいたい。
 きっといつか、わかるときが来るから。
〈了〉



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