永遠の紅蓮

第17話 悠久の想い


 目覚めた悠は起き上がり、その顔を手のひらで覆う。
 ディートハルトのときの夢だった。
 あれは自分の前世であり、今は蓮見悠なのだから関係ないと、何度もそう思ってきた。だからこそ千影に会ったとき、やり直しなんてするつもりはなかった。
 新しく始めようと思っていただけなのだ。なのに千影の魂はアリシアと同じで、事あるごとに、アリシアであり千影なのだと気付かされる。
 どうしようもなくなり、大きな息が漏れた。
「起きた?」
「あ……ああ、悪い。心配かけた」
 麗奈の声に返事をしてから時計を見ると、倒れてから二時間は経っていた。
 ベッド横の椅子に、麗奈が心配そうに座っている。
「悠、あたしたち付き合うのやめようか」
 真剣な面持ちで、麗奈は悠を見る。元々高校生だからと、何もしていない。
 いつか切り出そうとは思っていたが、麗奈がそう考えているとは思わずにまじまじと見つめてしまう。
「悠は千影を大切にして。助けて、くれるんでしょ? 千影のこと、好きなんでしょ?」
 麗奈は流れる涙を強引に拭い、無理矢理に明るい表情を見せた。
「麗奈ちゃん……」
「……見てたらわかるよ。悠の目、千影を見るときが一番優しいんだもん」
 ああ、そうか。そういうところから、わかってしまうのか。
 悠は苦笑いをしながら、麗奈の背中を軽く叩く。
「ありがとう。アイツ、俺じゃないやつ好きなんだ。難しそうだけど、頑張ってみる。いい奴、見つけろよ」
「……うん」
 立ち上がってみる。フラフラするようなことはない。
 体はどうやら完全に回復しているらしいが、さっき見た夢の後味が尾を引いている。
 若干、夢の出来事に胸が疼く。
 疼くが、遥か遠くのことだ。
 自分が蓮見悠であるという自覚が欲しくて、ドレッサーに向かう。
 ディートハルトの自分と、全く同じ顔。
そのままで、生まれ変わってきた。
 故に、アリシアの生まれ変わりには会いたくなかった。
 会えばどうしてもやり直しをしようとしてしまう。もし相手が覚えていなかったら? そればかり考えて、今まで探そうともしなかった。
 しかし彼女を、波原が見つけ出した。
 ぐ、と手を握りしめる。
 純潔を失ったと言うアリシアの顔を、思い出した。あんな表情を、千影にさせてはいけない。
「……他の、みんなは」
「下で準備してるよ。悠の目が覚めて少ししたら出発しようって。でももしかしたら、まだ話してるかも」
 一拍置いて、麗奈は不安げに口を開いた。
「樹が、数年前に氷蒼で波原さんと氷蒼のリーダー見たって話をしてた。あたしは途中で抜けてきたんだけど――」
 どうやら理解しきれていないようだ。
 それもそうだ、と悠は考えながらドアノブに手をかける。
「俺は全部知ってて、貴広に手を貸した。……言わなければいけないのは、時間の問題だったんだ」
「……え?」
 悠は黙って、その場を後にした。
 声の聞こえる方に向かって歩いていくと、波原がいつもいる部屋の前だ。ドアがいきなり開けられ、涙を流した棗が一瞬悠を見るが、そのまま走り去っていく。
 中に入ると、冷たい瞳をした波原と、神妙な表情の樹、表情を変えない陸、顔をしかめる蓮が座っている。波原の傍らには、無表情の美亜が腕を組んで立っていた。
 波原は特に動じる様子もなく、スッと目を細めて悠に問いかける。
「……悠、調子はどうだ」
「問題ない。いま棗さん泣きながら出ていったけど。追うべきは貴広なんじゃないのか?」
「……今の話で悲しむ要素は何処にもないが……一時間内に戻ってくる。それまでに調子を整えておけ、寝ぼけるなよ」
 一度頷いて、悠は波原の座っていた椅子に座る。
 波原が出ていってからたっぷり十秒、沈黙があった。
「全部聞いたか」
「んー……うん」
 陸は何とも言いがたい表情で、ソファに背中を預ける。
「人の前世を使って世界をどうこうしようとした、そのためには前世と素質を見抜ける確実な人間が必要だった、誰ともわからん精子と卵子をかけあわせて特殊なわけわからん薬を使い、貴広と涼子サンが産まれた。その二人は人の前世を視ることができる。主義の違いから袂を分けた二人はお互いを殺すために今まで生きている――で、合ってる?」
「それで合ってる」
「なんで兄貴は黙ってたの」
「……事情を知れば知るほどお前らが情に流されると、俺と波原がそう判断したからだ」
 陸は複雑そうに眉をひそめ、ため息をつく。
「そんなにオレたちのこと、信頼してなかったの」
「貴広に言え。俺は俺の判断で、お前らに言わなかった」
 そこは波原自身の問題で、悠が関与する部分ではない。陸はどこまでも納得いかなさそうに、呟く。
「……貴広は、涼子サンのこと、好きなんでしょ」
「そうみたいだな」
「っ……ならどうして、殺さないで済む方法を探さないんだ……」
 陸は悲痛な面持ちで床を睨みつけた。そこに思い至る感情は悠も充分に理解している。自分もそんな時期があった。そしてその時期を、通り過ぎた。
 皆も思うことは口にせず、黙ったまま、時間は過ぎていく。ピッタリ一時間で、波原は棗を連れて戻ってきた。
 彼女の瞳は赤かったが、何も口にする様子はない。
「……悪かった。美亜、準備は」
 問いかけられた美亜は、不敵な笑みを浮かべて波原の背中を思い切り叩く。
 何も答えなかった。
 痛みによろめいた波原だったが、先に手を振ってドアの外へ向かう美亜を見て、大丈夫そうだなと呟いた。
「悠」
 ずっと窓の外を眺めていた悠が、波原に呼ばれて振り返る。
「もう、いいか」
「ああ。最後だ。気を引き締めろ」
 麗奈は心配そうに悠を見上げる。彼女は、千影が氷蒼に向かったあとどうなるかを知らない。
 女性に、しかも麗奈に知らせるのは酷だという、波原の判断からだった。
 悠は麗奈の頭を一回くしゃりと撫でて、そのまま一歩を踏み出した。
 もう、繰り返さない。

「……僕が君をどれだけこの胸に抱きたかったか、君はきっと知らないだろう」
 病的に細く白い腕の中に抱かれながら、千影はきつく目を閉じていた。
「っ……」
 外はすでに暗く、コオロギの鳴き声と窓から入る電灯の光が、とても静かだ。
 千影は大きな天蓋付きベッドの上に手首を縛られ、為す術もない。
「僕は君を、今世こそはしっかり愛すと決めたんだ。そのための手段はなんでも使おうとしてきた。君には僕しかいないようにするために噂を流した。でもやっぱり――森谷が、邪魔だったな」
 こんなときに浮かぶのがどうして悠の顔なのか、千影はぎゅっと目を閉じる。
 自分は貴広さんが好きだ。
 だけれどいつも近くにいて、大切なところは見落とさないで拾ってくれて、最初は大嫌いだった悠のことが、段々、大切に思えてきた。
 彼もまた、寂しい人間だ。
 そんな悠に、たとえ非人道的な手段だったとしても、幸せを与えられるなら。自分がそれをする価値はある人間だと、思った。
 高柳に口付けられたのは首筋だ。悪寒がする。
「大丈夫だよ。学校もちゃんと行けるよ。そして僕と一緒に、紅蓮の人間を根絶やしにするんだ。仲間を増やすんだ。ずっと僕と一緒にいよう、千影」
「……うん」
 知っている。
 この男は前世、自分に何をしたのか。
 私のことなどどうでもいいのだ。
 きっと彼をこんな状態にしてしまったのは、前世の自分と、前世のウルリヒだ。
「やっと君を手に入れられた……」
 そんな言葉自体、手に入れられてない事実に気付いていない証拠だ。ベッドに横たえられ、冷たい唇が千影の唇の上に重なる。
 ただ不快感しかなく、しかし振り払う理由もない。
 千影は考えた。
 もし高柳に前世の記憶がなかったら、彼はきっとこんな人生を歩まなかっただろう。
 だが、事実として彼の記憶はある。
変えられない現状に、高柳はどれだけ思い悩んだのか。
 誰も悪くない。
 ――でも、怖かった。
 そのスカートの内側に、高柳の手が滑り込んでくる。
「たす、けて……」
 なんと自分勝手なことだろう。
 勝手に美亜を生き返らせるようにして、悠を救った気になって、連れて来られて、これからきっと、きっと。
 鋭い瞳で、高柳が千影を見くだした。
 貴広さんはきっと、私がどうなろうと知ったことではない。でも、でも、好きだ。
「……自分から来たのにね」
 千影のブラウスが、高柳の力に寄って引き裂かれる。無防備に彼女の下着が見え、ただ羞恥に頬を赤く染める。
「来たらどうなるかわかっていたんだろう? 今さら助けてなんて言っても遅い。君は僕のものだ」
 その指が、ブラジャーのホックへ手をかける。

「……ここに恐らく、千影ちゃんがいるわ。高柳の私室よ」
 白い服と金色の刺繍に彩られた騎士服で悠は氷蒼の施設の前に立っていた。周りには、紅蓮のメンバーもいる。
 棗から地図を渡されて、悠は頷いた。
 そして森谷から通信機を受け取り、耳につける。服は前世から馴染みのある騎士服なのに、そこに現代の機器が入ると変だな、と何となくそう思った。
「……蓮見。頼むぞ。陸も」
 森谷は神妙な顔で、視線を氷蒼の方へ向けた。
 悠と陸が千影を助けに行くことになっている。皆もまた、二人に任せたいとそう思っていたからだ。
「おれは単独で……」
「ダメよ」
 波原のその言葉を遮ったのは棗だった。今まで彼に反論することのなかった彼女が反論をしたことに、波原の表情は硬直した。
「危険だから、私もついていくわ」
 棗がそう答えると、波原は苦笑いを浮かべる。
「……おれを誰だと」
「未練がましい男」
 きっぱりと、棗は言い放った。普段そんな強い口をきくことのない棗だからこそ、その言葉は珍しい。
「貴方の個人的な問題で単独行動させるわけにはいかないの」
 何かが吹っ切れたのか、棗は冷静な表情だ。
 知って良かったのかもしれない。
 波原は若干こわばった顔を浮かべて、しかし断りきれずに曖昧に話題を濁した。
「……麗奈と樹は屋上からだ。蓮、美亜は正面で一緒に行動してくれ。陽動を頼む。悠と陸は千影を最優先で裏から行動してくれ。棗は……オレと一緒に、涼子を殺す」
 最後の一言だけ、波原の調子が淀んだ。
 それに気付いていても、悠たちは何も言わない。
「……悠」
 美亜に呼ばれ、悠は視線を向けた。彼女の瞳は、強く先を見ている。
「大丈夫だから」
 頷く。そして悠と陸は……ディートハルトとレオは、千影を、アリシアを助けるために走り出す。

 男の熱い吐息が部屋に響く。
 ブラジャーをはだけさせられた千影は、乳房を見せまいと身をよじった。
 しかしその姿は扇情的で、余計に高柳を欲情させる。
 ぎしりとベッドがきしみ、ゆっくりと高柳が千影の上に覆いかぶさった。
 ああ、こんなことなら、例え偽りの感情であっても悠に抱いてもらうんだった。
 アイツなら、別に良かったのに。
 いきなり鋭い平手打ちが、千影の頬を襲った。
「許さない……僕以外の男のことを考えるだなんて、許さない」
 嫌だ。怖い。
 千影の脳内で、アリシアだった自分がされたことを思い出した。
 あのときのアリシアは諦めていた。
 仕方なかったから。ディートハルトが私に捕らわれずに暮らすためだから。
 そう言い聞かせて、そうして純潔を失くした。
 そんなこと繰り返さないために、私は産まれてきたのではないか。
 そう考えた瞬間、今までの自分の行動が全て間違っていたと理解できて、でも、逃げられない。
「やめて……私はアリシアじゃないのに!」
「本当に今更だね。君はアリシアだろう?」
 そう答えた高柳の瞳は、もう千影を見てはいない。
 千影を通して見る、アリシアだった。
 本能が拒絶し始めた瞬間、千影の心臓が一度大きな音を立てる。
 彼女が一回目を閉じて開ければ、その瞳は青かった。
「……ウルリヒ」
「ア、リ、シア……?」
 一瞬高柳が目を見開いた。そして泣きそうに歪んだ顔をして、そのまま彼女にまた口付けた。
「アリシア……!」
「何をしているのですか。この子は貴方の玩具ではありません。今すぐ解放しなさい」
 アリシアは鋭く高柳を睨み付け、厳しい言葉で言い放った。
 だが高柳には届かない。
 嬉しそうに顔をほころばせ、その乳房に指を這わせる。
「……わからないのですね……」
 落胆にアリシアの表情が歪む。
 その唇が乳首を含もうとした、その瞬間だった。

 窓を蹴り破って、悠と陸が飛び込んでくる。
 入りがけの悠の一閃を、高柳は背を反らしてかわした。間髪入れずに突き出される剣戟を、軽く避けるだけで高柳はかわしていく。
 陸は槍を握ったままアリシアを抱き上げ、部屋の隅に退避した。その姿を見、高柳を睨みつける。
 一度間合いを取るようにして下がった悠が、呼吸を整えるようにして細く息を吐いた。
「……貴様を殺しに来た」
「何だお前ら……どうして、僕の、邪魔を」
 陸は後ろでアリシアの縄をほどき、自分の上着を羽織らせる。目だけが青いアリシアを見て、陸は驚きに瞳を瞬かせる。
「アリシア、様?」
「心配をかけました。外傷はありません」
 優雅な動作でアリシアは立ち上がる。
 背筋を伸ばし、顎を引き、前だけを見据える。
 髪は静かに深い青色に変化していき、髪の先まで深海の色が広まったのち、周囲を見渡す。
 悠は今すぐに後ろを向きたかった。
 アリシアにそのまま抱きついて、子供のように泣きたかった。
 だが目の前には、憤怒の形相の高柳がいる。ここで自分が食い止めなければ、陸と千影が殺される。
 あのとき護れなかった人間を護るために、ここで自分は立っているのだ。
「あんなことをしておいて、俺が怒らないとでも思っていたのか? ナメられたもんだな」
 高柳はすぐにその姿をウルリヒに変えて剣を抜き、悠の前で構えた。
「美亜とヨリ戻したんじゃないのかよ、アンタ! そういう約束で僕はアリシアを」
 目にも見えぬ早さで、悠はそのまま高柳の方向へ突っ込んでいった。
 剣の柄でみぞおちを思い切り突かれた高柳は受け身を取ることもままならず、本棚に背を強打する。
 悠は、高柳の首元に剣を突きつけた。
「俺と貴様の約束ではないだろう? 卑怯な方法で貴様は千影を連れ去った。殺してやるから今すぐ死ね」
 剣が高柳の首筋を傷付ける。
 首筋から流れた血が、高柳の白いワイシャツを染めていく。
「陸、アリシアを離すなよ。ここでカタをつける」
「勿論」
 床に刺した剣から亀裂が広まる。
 そこから光の剣が何本も出てきて、高柳の足を貫き動きを止めた。
 最後の一本が高柳の喉元ギリギリで止まり、高柳は死の恐怖にごくりと生唾を飲む。
「俺の能力はデータが取れなかっただろう? 当たり前だ、純粋な剣技のみで生き抜いてきた。いつか対峙するだろう、氷蒼の頭を倒すために。でも俺はこの力を、貴様を殺すために使う」
「ちっ……どうして、どうしてお前はいつも……だって僕の方が、先にアリシアを見つけたんだ! だから、だからっ……!」
「ガキの我儘かよ」
 吐き捨てるようなその言葉が、心臓を一突きしたかのような威圧感を伴う視線が、高柳の体をすくませる。彼が恐怖を感じた瞬間、勝負は決まったも同然だ。
「……アリシア様、どうして」
 部屋の片隅で陸はアリシアを支えながら、刻一刻と変わる状況を睨み続けていた。それでも浮かぶ疑問を止められずに口に出す。
 自分のように最初から記憶を持つものは同化しているが、そうじゃない千影にとってアリシアは別人格に近い。
「わたくしにもわかりません。ですが、千影がわたくしを呼びました。ディートハルト様とレオ、二人を助ける力がほしい、と」
 陸は眉を下げ、泣きそうな表情になる。
「千影ちゃんが、オレたちを……」
「ディートハルト様」
 アリシアは何かを投げ渡す。受け取った悠はそれを確認して、驚いた。
 金で縁取られた白く細長い剣で、燐光を放つそれは神々しく、今にも全てを浄化しそうな程だ。
「悠だ」
「では悠。この剣を貴方に授けます。千影のあなたに対する信頼を元にして、彼女の力が込められています」
「……そうか」
 それと同時に、金色の槍がアリシアの手の中に収まる。そのまま、陸の方に浮遊して移動した。
 流れこんでくる力は暖かく、強く、そして優しい。確かに千影の力だと、彼女の横に長く立っていた悠は思う。
 一方槍を受け取った陸は、ポカンとアリシアを見上げる。
「アリシア様、オレも貰っていいんですか?」
「千影はレオに感謝しています。思い悩んだとき、すぐそばにいてくれて、支えてくれたこと。自分の好きな人を知っていて、それでもそばにいてくれたこと」
「千影ちゃん……」
 陸は涙ぐみ、その目をゴシゴシと乱暴に拭いた。
 そして新たな武器を床に突き刺し、アリシアを抱き寄せる。そこから無数の赤い槍が出てきて檻を作り、千影と陸の二人を守る。
「兄貴、こっちは任せて」
「ああ。任せる」
 手から、いや、心から、抑えきれないほどの力が溢れてくる。あまりにも嬉しいのだと、そう思った。
「僕はアリシアを好きなだけなんだ、どうして、どうしてっ……」
 喚き散らす高柳を一瞥して、見下す。
「貴様はウルリヒの分と貴様の分生きてきて、何も理解できなかったのか?」
 容赦無い悠の一撃が、高柳の脇腹を貫通する。
 痛みに高柳の瞳から涙が落ちるが、それほどで殺意が揺らぐわけがない。ただ沸々と沸き上がる怒りを、言葉に乗せてぶつける。
「さっきの威勢はどうした。千影を手に入れたつもりになって浮かれてたのか?」
 どす黒く、重低音の怒気を孕んだ静かな声がゆっくりと高柳の体内に侵入してくる。
 それは血液を巡って恐怖を全身に知らせるほどの怒りだった。
 美亜を亡くしてから、諦めたような瞳で過ごしてきたはずなのに、煮えくり返りそうな怒りが悠の腹の底で沸いている。
「悠」
 アリシアに呼ばれて、悠は振り向かないまま答えた。
「なんだ」
「その剣は、斬られた人間の前世の記憶を消します。千影の心の底にある祈りから創られた剣ですから。貴方の意思一つで、人を殺す剣にも、記憶を消す剣にもなります」
 生ぬるい、と悠は思った。そして、甘い。
 本当ならば、二度三度殺しても足りないくらいだ。
「……兄貴」
 この手で高柳をどうこうできる機会は、きっと最後だろう。
「千影、お前ならどうする」
 ポツリと悠は呟いた。呟いてから、その剣を振り上げる。
 咄嗟に目を閉じてしまった陸が、恐る恐るその瞳を開けた。

 高柳はそこにいて、眠っている。

 陸とアリシアの方を振り返り、悠は口を尖らせる。
「勘違いすんなよ。現代の法律ってのは、人ひとり居なくなるだけでも結構めんどくせえんだ」
 剣を鞘に収め、悠はマントを翻してアリシアの元に歩いてくる。
 陸は兄の表情を見てから仕方なさそうに微笑んで、アリシアを離した。そしてそのまま、ドアの方に向かう。
「アリシア様」
 背を向けたまま話す陸の表情は、全く見えない。
「どうしました」
「……好きでした。貴女のことを誰よりも愛していました。だからオレ、陸として今度は千影ちゃんを愛します」
 それを聞いたアリシアは、クスリと笑いを漏らす。
「……陸、千影の中からずっと見ていましたありがとうございます」
 ドアノブを開き、こちらも振り向かずに「あとで合流ね」と悠に言い残して出ていく。
 悠は――いや、ディートハルトが、アリシアを抱きしめた。その瞳からは涙が溢れ出て止まらない。
 確かに目の前に、あの日失ったアリシアがいるのだ。
「アリシア……ッ!」
「ディートハルト様、もう終わりにしましょう」
 ディートハルトはアリシアに深く口付けた。
 いま目の前にいるのは、他の誰でもないアリシアだ。
「好きだ、好きだ、好きだ……愛している、アリシア。俺はずっと悔やんで、何度お前を抱けないことを悩んだか、何度お前をこの腕に抱く夢を見たのか、こうして話せるなんて、アリシア……!」
 そしてもう一度、深く口付ける。
 もう囚われるのは終わりにしたかった。
 それはアリシアも、同じなのだろう。
 冷たい指が、ディートハルトの涙を拭う。
 そしてアリシアから、優しい口付けが返ってきた。
「……貴方とキスができて幸せです、ディートハルト様。一度もできなかったから……もう、一回」
 ディートハルトは、アリシアが愛しくて愛しくてたまらなくなる。アリシアからもう一度口付けを受け、そして更に口付けを返す。
「……もう、大丈夫ですか?」
 その問いは、美亜にも聞かれた。
 もうここにわたくしがいなくても大丈夫ですか。
 その問いに、ディートハルトは答えることができる。
「大丈夫だ。これからはもう、この記憶を大事にできる。アリシア、お前に想いを告げられたから」
 思い切り抱き締めると、アリシアの笑い声が聞こえた。
「……ふふ、安心しました、ディートハルト様、いえ、ディートハルト。私、ずっと貴方と一緒にいたかったよ」
 ああ、そうだ。でも、いることはできなかった。
 肩に彼女の重みが増した。胸の切ない痛みがなくなるまで、ずっと千影を抱きしめていた。

 意識が途中で途切れていた。夢の中でアリシアと会話をした気がするが、起きた今となっては薄れている。
「あ、れ……私、って、ゆ、悠!?」
 抱きしめられていることに気付き慌てて離れようとするが、悠は千影を離さない。
 その耳元で、鼻をすする音が聞こえてきた。
「……悠? もしかして、泣いてる?」
「……お前、どこ触られた」
「え、え? えーっと、キスされて」
 悠の唇が、軽く千影の唇に触れる。離れて見つめ合い、心臓の音も落ち着かないままに長い間口付けられる。角度を変えて、深みを変えて、何度も何度も口付けられた。
 真っ赤になった千影は悠の胸元を押し返してやめさせようとするが、キスの雨が止むことはない。
「他は」
「い、言ったら変なことするつもりでしょ」
「言わないともっとひどいことするぞ」
 ぐ、と千影は喉をつまらせた。
「く、首筋」
 ちゅ、ちゅ、と吸うような音を立てて、丁寧に悠が口付けていく。余すことなく、消毒するように。
 千影はためらいながらも触れられた場所を口にするたび、甘い唇に身体を震わせる。
「悠っ……もう、終わりだからっ」
 言うが否や強く抱きしめられて、名残惜しげにやっと離してもらえる。触れられた場所が熱く、自分がどこかで続きを求めているのではないかと思うくらいだ。
 気付けば外から聞こえてくる怒号や叫び声に、千影は勢い良く立ち上がる。
「って、もしかして今みんなここに」
「来てる。千影、お前を助けに。あと――貴広が、涼子を殺しに」
「こ、こんなことしてる場合じゃないでしょ! 止めに行くから、悠!」
 怖かった、気持ち悪かった。
だけど、悠と陸が助けに来てくれた。だからもう、大丈夫だ。
悠は千影がそう言うことをわかっていたのか、困ったように黙りこんだ。こうすることこそが波原の幸せだと、ずっと思っていたからだ。
千影は高柳を一瞥するが何も言うことなく、前を向いた。
「……こんな結末、良くない。そう思ってるから悠も、高柳くんを殺さなかったんでしょ」
 その瞳はどこまでも前だけを見据えている。そういう千影を、悠は好きになったのだ。
「私は貴広さんのことが、好きだから。そんな終わりに、させない」
「……わかった、俺も行こう」
 悠の手を借りて千影は立ち上がり、そして走りだす。


第18話へ続く


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