どこまでも透き通った湖の中心に存在する、真っ白な古城。
様々な侍女や兵士、騎士たちが慌ただしく行き交うその城は、レネディア城と呼ばれていた。
最上階に近い一室から出てきたのは、齢二十を超えるかどうかくらいの男性だ。
透き通る絹糸のような金色の髪と、翡翠色の瞳をしていた。
レネディア城を護る聖騎士、名はディートハルト・ライオットだ。
神に忠誠を誓い命を捧げ、対価として得た聖なる力を使いこなす聖騎士。ディートハルトはレネディアでたった一人、神に認められた聖騎士だった。
腰の辺りで裾が広がった白い服は、聖騎士だけが着ることのできる正装だ。金色の縁があしらわれ、見るものの動きを止めるほどの美しさである。
今日のディートハルトは非番だった。
やっと訪れた安息の日に、ぼうっと視線を空に向ける。それから前に視線を戻すと、いつの間にか、一人の美しい女性が立っていた。
傍らには、静かな瞳でディートハルトを見据える、ブロンド色の髪の青年が控えている。彼女の護衛である、レオだった。
「……お前か」
「アリシアとお呼びください、ディートハルト様」
絹糸のように細く滑らかな、青い髪をもつ女性だ。瞳も髪と同じくらい深海を思わせるような青で、毎回見る度に吸い込まれていきそうになる。
白いワンピースの袖からは、すらりと白磁の腕や足が伸びていた。
いつも微笑みを浮かべているレネディアの巫女がどうしてこんなに威圧的な笑顔なのか、ディートハルトにはさっぱりわからない。
せっかくの非番なのだから余計な心労をかけないでほしいと大げさなため息をついて、婚約者アリシア・ブラッドレイの横を通り過ぎようとする。
しかし、そのときだった。
腕をがっちりと掴まれていた。
ディートハルトは狼狽えた。こんな強い力を持つのは、彼女のそばに控えるレオしかいない。
俺より位の低い者が何をする、と怒鳴りつけようとして、ディートハルトは動きを止めた。
その力の持ち主は、間違いなくアリシアの手だったのだ。
「……お前っ……」
彼女の指が食い込むほどにぎりぎりと掴まれ、その女性ならぬ力に困惑する。なのにアリシアは眉一つ動かさず、自分の方へディートハルトを引き寄せた。
「三日前の戦で怪我をされていると、王から伺いました。どうぞこちらへ」
「心の底から断る、こんな怪我、眠ればなおっ……」
怪我をしている肩の部分に凄まじい衝撃を感じたディートハルトはそこを押さえて、床に崩れ落ちた。
赤いカーペットのふわふわとした感触すら、今は理由もなく憎らしい。顔を歪めながらアリシアの方へ視線を移すと、右手を握りしめたままニコニコとしている。
「ディートハルト様にのみ、私は王からこの力を行使することを認められております。さあ、こちらへ」
諦めるしかない。ディートハルトはじくじくと痛む傷を押さえながら、まるで怒られた子供のようにアリシアに腕を引かれて、一室の前にたどり着いた。
ディートハルトと同じく神に選ばれた少女、アリシアは人の傷を癒やすことができる。だが、その分精神の消耗が激しく、力を知らされているのは彼女の護衛であるレオと、そしてディートハルトだけだった。
アリシアがこの城へ来て三年になるが、ディートハルトは数えきれないほど傷を治癒してもらっている。
白いドア。傷を治してもらうときにしか入らない、アリシアの部屋だった。
「レオ、見張りを頼みますよ」
「承知しました、アリシア様」
レオは端的にそう答え、金色の瞳を廊下の左右に向ける。誰もいないことを確認してから、アリシアは部屋の中へと入っていく。
部屋は整然としていて、生活感を全く感じさせない。何度入っても、慣れない場所だった。
「お座りください」
容赦なくアリシアに言い放たれ、仕方なくベッドに腰を降ろした。
全くどうして、聖騎士団長の俺がアリシアの言うことを聞かなければならないんだ。
いまだに殴られた場所の痛みは続いていた。彼女は武器も扱える巫女であるため、戦争のときは最前線にいる。だから鍛えているのは知っていたが――強い。
「……巫女が人を傷付けるだなんて、とんだ話だな」
嫌味を吐き捨てると、アリシアは気にも留めずにさらりと流した。
「貴方が自ら来ない上に傷を甘く見るからいけないのです。わたくしから逃げたくて女性の元を渡り歩くのは結構ですけれど、貴方はこの城の盾であることを自覚してくださいませんか。さあ」
アリシアは何かを待つようにディートハルトを見詰める。
仕方なく、本当に仕方なく、彼は上半身の服を乱暴に脱ぎ捨てた。
そこには肩から腰にかけて包帯が巻かれている。
アリシアの冷たい指が、ディートハルトの包帯をするするとほどいていった。
そこにあったのは、大きな裂傷だ。かなり深く剣に切り裂かれ、本来なら生きていないだろうとでさえ思うほどのそれに、アリシアが険しく眉根を寄せた。
「……よく三日も、わたくしに黙っていられましたね」
こうやって怒られるのがわかっていて、ディートハルトはアリシアの元へ行くことができなかった。勝利を持ち帰ってきているのに、やれもっと自分を大事にしろと、何度言われたか数えきれない。
それもあって、ディートハルトは逃げまわっていたのだ。
跪いたアリシアからふわりと花のような香りが漂い、思わず生唾を飲み込む。
しかし必死に思考を頭の片隅に追いやって、口を尖らせた。
「三日で治ると思ったんだ」
アリシアは何も返さずに大きく長いため息をついて、苦笑いを浮かべる。
アリシアの冷たい手のひらが、彼の傷に触れた。そのまま聞き取れないような音量で、何らかの呪文を呟く。
すると傷の周りに淡い光がまとわりつき、心地良い暖かさでディートハルトを癒やし始めた。
数分もそうしていただろうか。瞳を開けると、アリシアはすでに傷から手を離している。
跡形もなく消え去った傷は、触れてみても違和感がない。アリシアが完全に治癒しきったのだ。
「終わりました、ディートハルト様」
そうなればアリシアはいつものアリシアだ。常に微笑みを絶やさず、人に優しく接し、思いやり溢れる聖女のように戻る。
こんなに可愛くない対応になるのは、どうやら自分に対してだけらしい。
どうしてこんな女が、俺の婚約者なんだ。巫女なんだ。
そう思っても、声に出すことはない。そんなことを言えば、アリシアから拳が飛んでくる。
「……言いたくないが、礼を言う」
「せめて怪我をした当日に来てくださいませんか。そのあとは貴方の望むように、わたくしと会わなくてもよろしいですから」
その言葉を背に、ディートハルトは無機質なドアを閉じた。
横には、張り詰めた気配を巡らせるレオが立つ。
視線が、ふと合った。
「……お守りは大変だな」
皮肉交じりにそう言うと、レオからは鋭い睨みが返ってくるだけだ。
肩をすくめて、ディートハルトはマントを翻し、廊下の奥へと歩いていった。
レネディア城は、いや、レネディア国は、長い間フローレン国と冷戦状態にあった。
そんなとき、国と城が求めたのは神だった。神に仕える、巫女が必要だった。
何処かの村娘だったらしいアリシアが連れて来られたとき、まだただの兵士だったディートハルトは狼狽した。
将来有望らしい自分に、国王はこの巫女をあてがったのだ。その真意は今でも理解することができず、苦しむばかりだった。
神からの託宣を受けたアリシアがディートハルトを聖騎士にし、そして、本当にやわらかな笑みでその夜、言ったのだ。
「わたくしは貴方の剣となり、盾となります。わたくしが人質に取られた場合は遠慮なく、ご自分と、或いは周りの人を優先してくださいませ」
レネディアは、お世辞にも安全とは言いがたい国だ。
城下町や比較的城に近い町では安寧が保たれているが、末端の村々では、人買い、拉致、監禁、暴漢、殺人――その手の犯罪がのさばっている。
ディートハルトはそれを救いたいと思っていた。だから兵士になり、騎士になるのが夢だった。
しかし国王は動くことなく、ディートハルトは諦めの念にとらわれながらも聖騎士になって、ようやく進言することができた。だが、その言葉が聞き届けられることはなかった。
酷く落胆したのを覚えている。
神の力を、ディートハルトの力を持ってしても、救える命は少ない。
隣国に、海と接しているフローレンという国がある。食料としての魚介類が豊富なフローレンと親交を深めようと幾度か会合を行なってはいるが相手の考えることはわかりやすかった。
レネディアは聖騎士ディートハルトの存在により、フローレンとの均衡を保っている。その軍事力を、フローレンの国王は欲しがっていた。
腹の探り合いと、上っ面だけのほめ言葉は延々と平行線だ。
少なくとも、国王の脇に控えるディートハルトは話を聞きながらそう思っていた。
アリシアと別れ、自らの体に触れた指先を思い出す。
穢すことのできない聖女を婚約者として、何が変わるのだろうか。よしんば結婚ができたとして、子を成さないわけにはいかない。
そうなったら愛人を迎え、跡継ぎを産むだろう。
だったらアリシアの存在とは、何なのか。
そういった面を含めて、ディートハルトは彼女から距離をとっていた。愛さないようにするならば、相手を知らないのが一番だった。
なのにあのように怪我をするたび、甲斐甲斐しく世話をされて。返せるものは、何もないというのに。
いつも変わらないその微笑みを頭の中で思い浮かべて、歯噛みする。
アリシアの幸せとは、一体何なんだ。
中庭で一眠りしようとホールへ向かい、ディートハルトは眼の色を変えた。
むせ返るような、熱い、血の匂いがする。
ディートハルトの心臓が一回、大きく鼓動を打った。
城内で反乱が起きたのか、或いは侵入者なのか。
目の前は倒れる兵士と呻き声で溢れかえっている。
恐れることなく、素早くアリシアが駆け抜けていって、兵士の前に座り込んだ。
「どうした!」
マントを翻して衛兵を呼ぶ。衛兵は敬礼をしてから、状況を伝え始めた。
「はっ。フローレンとの国境を警備していた兵が、フローレンの兵に攻撃を受けました。その内数名が、帰還した模様です」
一体何のために? 疑問が次々と浮かび上がってくるが、しなければいけないことはすぐに代わりの兵を派遣することだった。
アリシアはためらいもなく兵士の傷の加減を診る。兵士は矢を受けたのか、上半身からはどくどくと赤い血が流れでていた。
狼狽える侍女に、アリシアが厳しく指示を出す。
「包帯と湯、マリリアの薬草を持ってきなさい!」
「は、はいっ!」
返事をした侍女はもつれる足取りで、城内へと消えていった。
周りにはまだ、数人の兵士が呻いている。
国境に配置した兵の残りは殺されていることだろう。
彼らの死を悼み傷を心配するのは後だ。倒れているが意識のある兵士のそばに跪いた。
恐れ多いという視線を受けながらも、淡々と問う。
「聖騎士団長、ディートハルト・ライオットだ。国境周辺の警備はどうなっている」
「こ、国境……警備隊、デリクス、です……。恐らく、だれ、も、いませ、ん」
「承知した。あとは俺に任せろ」
激しく兵士が咳き込み、血だまりができる。
起き上がりを支えた侍女のエプロンが赤く染まり、ぐったりと兵士は倒れ伏した。
この様子では、デリクスの命は永くないだろう。
そんなことを頭の片隅に追いやって、顔を上げた。
「ディートハルト様!」
衛兵が駆け寄ってきて、青ざめた顔をしている。
「どうした」
「フローレンから、書状がディートハルト様に」
「何故……」
国王ではなく、俺に。
そんな疑問も、書状を確認してみることで解消されるだろう。
ディートハルトが手紙を開いてみると、そこにはこう書かれてあった。
【アリシア・ブラッドレイはオレのものだ】
どくん、と先ほどよりも大きく心臓が鼓動を打った。
思わず反射的にアリシアの方向を見て、その場にいるかどうかを確認した。
いる。しかし、アリシアの顔は蒼白だった。彼女の近くにもまた衛兵がいて、真剣な面持ちでなにかを伝えていた。
アリシアの目が不安げにディートハルトを捉える。
だがすぐにそらされ、悲痛な面持ちでアリシアは唇を噛み締め、背を向けようとする。
その傍らには、しっかりとレオが連れ添っていた。
「……すまない、少々席を外す。動かせる兵を五百人ほど、先に国境へ回してくれ」
「はっ!」
手紙の内容を知っているからか、不満気な表情も浮かべずに衛兵は敬礼をし、すぐさま去っていく。
ディートハルトはすぐさまアリシアの後を追った。
どうしても、名前を呼べない。
気づけばその細い手首をつかんで、こちらへ振り向かせていた。
「ディートハルト様……?」
平静を装っているように見えて、彼女の深海の瞳が少しだけ潤んでいる。
自分の胸をうずかせ、たまらない目だった。
「どうした」
「……いえ、何でもありません……」
その表情と声音は、明らかにディートハルトを拒絶していた。
今まで彼女が見せたことのない、婚約者である彼を拒絶する態度。
彼女の身に何が起こっているかを知っているからこそ、その態度に苛立ちを感じていた。一言助けを求めさえすれば、どんなに身が砕けようとも助けに行くのに。
「っいえ……ディートハルト様……」
喋りかけたアリシアを、レオが止める。
まるで「口に出すな」とでも言いたいようだ。
「アリシア様、オレが」
「ですがレオ、わたくしが申し上げなければ、ディートハルト様に不誠実です……!」
レオはそれを聞き入れず、噛み付くような視線でディートハルトの方に向きなおる。
「アリシア様はたった今、フローレン国第一王子、ウルリヒ・フローレンとご成婚される。ディートハルト・ライオットとの婚約は破棄だ」
「レオ!」
一瞬、足元がぐらついたかのような衝撃にディートハルトはよろめいた。
一体いつからそんな話になったのか、そしてアリシアはそれを受け入れたのか。
どうしてさっき知らされたなら、俺に黙っていようとしたのか。
問い詰めたい気持ちに駆られながら、ディートハルトはアリシアに背を向ける。自らの意志ではないことは、明白だった。
「……聞いてくる」
たった少しでも、原因を知りたかった。
自分の言動がアリシアにふさわしくないと、判断されたのだろうか。
「ディートハルト様」
だが、それよりも先にアリシアの鋭い声がディートハルトを止める。
「ディートハルト様、もう決定されたことなのです。覆すことはできません。わたくしはウルリヒ様の元へ嫁ぎます。今あなたが考えるべきは民のこと。武器としてのわたくしを失うのは聖騎士団にとって大きな損害となるかもしれません。しかし――」
そこで一回、アリシアは言葉を区切った。
損害だなんて、武器として、なんて。
そんな感情はディートハルトの中のどこにもない。ただ口うるさい婚約者で、鬱陶しくて、誰よりも愛しいと心のどこかで思っていた。
ただ接し方も、大事にする方法もわからず、自らの心に背を向け続けていただけなのだ。
そう説明したくても、言葉が出てこない。ひたすらに彼女がどうしたら行かないかを考え始めていた。
目に涙をためたアリシアが、そっとディートハルトの頬に手を伸ばす。
「……ディートハルト、わたしはあなたに、生きてほしい」
丁寧な口調が全て取り払われた、巫女ではないアリシアとしての言葉だった。
行かせてはならないと、心が警鐘を鳴らす。なのに体は、動かなかった。
「アリシア様、行きましょう」
「ええ」
何を言っていいかもわからず、ディートハルトはその場に留まっていた。このままだと一生会えなくなるのにも関わらず、思考の一切が吹き飛んでいた。
そっと頬に触れていた手が話され、悲しげな微笑みが見える。
「……わたくしの命はこの先、永くありません。ですから、全てをあなたのために使うことにしています。では聖騎士よ、永遠に神のご加護を」
「まっ……!」
走り去る彼女を追おうとしたディートハルトの首筋に、レオの短剣が突き立てられる。
アリシアは廊下の奥へ消えていく。
ディートハルトの方を一切振り向こうとはせずに、名残惜しさも見せずに、姿をなくす。
「貴様!」
「もう遅い」
間髪入れずに返ってきたその言葉が、より一層深くディートハルトの心をえぐる。
「アリシア様は決意された。そのアリシア様を惑わせるようなら、オレは今ここでアンタを叩き斬る」
「……ただの従者のお前に、なにが」
「アリシア様の唇の柔らかさを知っているのはオレだけだった。アリシア様を抱きしめられるのは、オレだけだった」
その言葉に、ディートハルトは怯む。
それは、アリシアと、レオが、どういうことだ?
「オレが今、どんな気持ちかアンタにわかるか。彼女にとって、オレはアンタの代わりだった。オレもそれを望んだ。それでもいいと思っていた。……これ以上、邪魔をするな」
レオの胸ぐらをつかみ上げて、壁に押し付ける。
そうだ、俺は、何のために我慢していた。
彼女と接して、好きになってしまったら。
どれだけ愛しても体を重ねることができない彼女を、好きになってしまったら。
だから好きにならないように、距離を離した。
なのに、全身が燃えるような嫉妬に襲われた。
「……あの神の力は、アリシア様自身の生命力を代償とする。アンタのために代償を払い続けたアリシア様は、もう一年と保たない。アンタはその価値がある人間なんだ、ディートハルト」
ディートハルトは、震えた手を力なく離した。
彼女について知らないことがありすぎて、思考が追いつかない。
生命力を代償に、もう一年と保たない。その言葉だけが脳内をぐるぐると回っている。
アリシアがディートハルトを治癒した数は数えきれない。
あれだけ冷たく跳ね除けたにも関わらず、文句も言わず、不安を出さずにアリシアは何度も自分の傷を治したのだ。
普通の女なら、愛想を尽かすだろう。
「なん……だっ、て」
激しく咳き込みながら、レオは襟元を正す。
「アリシア様は、自分を道具としか思っていない。アリシア様は村から城に行くまでの間、道端に捨てられていたオレを拾ってくださった。オレを大事にしてくれるのに、アリシア様は自分を大事にしない。アンタなら幸せにできるのに、大事にできるのに、その資格があるのに、アンタはそうしなかった! それがアンタの罪だ!」
「ディートハルト」
急に後ろから声をかけられて、ディートハルトは振り向く。聖騎士団副団長の隻眼の女性、バルバリアだ。
「国王から、聖騎士団は待機せよとのご命令だ。様子見のつもりだろう」
「あ、ああ……そうか……」
視線をレオの方に戻したとき、もう彼の姿はない。
ディートハルトはその後、アリシアに会うことはなかった。
●
よく晴れた日だった。鳥たちは変わらずさえずりながら空を飛び、花は風に揺れる。
まるで戦など起こっていないかのような、いつも通りの朝だった。
国境周辺には、侵攻し始めているフローレン国の兵士や魔術師がいるらしい。必死にレネディアは応戦しているが、最初から攻めこむ気でいたフローレンの兵士たちに押され気味だと、兵士から聞いている。
あれから三日も経った。
すぐにでも前線に行き、ウルリヒからアリシアを奪還したいのに、それは許されなかった。
王の指示を待つしか、団長のディートハルトにはできることはない。
動けずに自室の中でやきもきしていると、バルバリアが唐突にやってきた
「ディートハルト、聖騎士団の出動許可が降りた。すぐに向かう。あと……」
一瞬言い淀んでから、バルバリアは口を開いた。
「アリシア様が最前線におられる。対峙の際はできる限り無傷で保護せよとのお達しが、陛下から」
「……そうか、わかった」
迷う理由など、何もなかった。
国の思惑。そんなこと、知ったことではない。
国王にとってアリシアが道具でも、ディートハルトにとっては、婚約者なのだ。
ディートハルトはマントを翻した。
必ず彼女をこの城へ連れ帰る。そして、一から関係を築き直す。それしか、方法が思いつかなかった。
全てはアリシアのためだ。
馬を駆りたどり着いた国境周辺は、すでに屍の山が積み上がっている。
その最前線に、彼女は、立っていた。
生きていた。
いつ死んでもおかしくない戦場なのに、アリシアは血を流しながらも立っていたのだ。
それはフローレンの国王が、かつてレネディア国の巫女であったアリシアを殺せるわけがないだろうという、策略だった。
その推測には、どれだけバカでもたどり着く。現に、アリシアは誰にもとどめを刺されず、刺さず、立っている。
だが、おかしいところがひとつだけ存在した。
彼女は巫女だ。
ディートハルトという人間が知る限り、アリシアはその多種多様な宝石の力を使いこなしていた。
魔力の付与された剣や弓で、その体ひとつで戦ってきたのだ。それは傍らで剣を振るっていたディートハルトが一番わかっている。
アリシアの呼吸や剣の捌き、思考に至るまで、長い間共にしていたのだ。
なのに彼女がいま持っているのは、ただの剣と盾だ。
「……どうして、あれを使っていないんだ」
呆然として、ディートハルトはその意味を考えた。
三年前、初めて顔を合わせたときに言われた言葉を思い出す。
『この神の力は、わたくしの純潔をもって発揮されるとのお言葉です。どうかわたくしが必要とされなくなるまで、どうかお待ちください』
耐え難い怒りがディートハルトの体の中を駆け巡る。嫉妬と不快さと、殺意と悪意に塗れた。
何度もアリシアを抱く夢を見た。
ただ現実のアリシアは、抱くことは許されなかった。それは彼女が巫女であり、神に愛されたからだ。
「アリ、シア」
アリシアとディートハルトの視線が、合う。
目を見開いた彼女は、泣きそうな顔で微笑んだ。
横から割り込んできた兵士の一人が剣を振り上げるが、わかっていても反応することができない。
「ディートハルト!」
思い切り突き飛ばされて、地面に転がった。視界の先ではバルバリアが剣を振り払い、敵兵を始末する。
「突っ立っているな! ここは戦場だぞ!」
彼女の言葉はわかるが、意味が理解できない。
剣を持つ握力すら確保することができず、立ち尽くしたまま呟いた。
「……アリシアが、力を、使っていない」
「ディートハルト、しっかりしろ!」
「アリシアが、あの男に」
自覚したくなかった。
すればするだけ、彼女を抱けない苦しさを抱えて生きていくことになる。
こんなことになるなら、巫女の彼女など尊重せず、抱いてしまえば良かった。
奥の方に、王座のような椅子の上でふんぞり返っている金髪の若い男が見える。のんびりと観戦しているその男こそウルリヒだと、本能でディートハルトは理解した。
アリシアとの最後の会話を思い出す。ウルリヒとの結婚を、心の底から望んでいるとは到底思えない表情だった。
きっとその行為も、苦痛なものだったのだろう。
俺が自覚しようとすらしなかったばかりに、悲しく、辛い思いをさせた。
ディートハルトの手に、力がこもる。
あの男を、殺す。
剣の一振りで敵兵たちをなぎ払い、叫ぶ。
「どけぇええぇえっ!」
獣の咆哮にも似ていた。狙うのはアリシアただ一人だ。触れられる距離に行けば、あとは連れてくることができる。
もう一度やり直せるかわからない。でもあの苦痛の中に、アリシアを置いておけない。
「バルバリア、俺がアリシアを取り戻す。指揮権をお前に託す。我儘を言ってすまない……頼む」
気付いてしまえば、気付かなかったころにはもう戻れない。
「……死ぬ気で取り戻してこい」
バルバリアは一度頷いて、すぐさま後ろに声を上げた。ディートハルトはアリシアに向かって一直線に走る。
もう少しで彼女に向かうことができる。だが、その剣を槍で受け止めたのは、レオだった。憤怒の表情で、ひたすらにディートハルトを睨みつけていた。
「……どけ」
レオが口角の片方だけを上げる。それは初めて見る、嘲笑だった。
「さすが聖騎士様だな、他の奴らとは実力が段違いだ」
お互いに睨み合いながら、一歩も譲らない。
「……貴様、アリシアの側にいながら、何故」
「全てアリシア様の意思だ。オレにどうすることも、できない。オレにはあの状況を動かす力など、ない」
ディートハルトの力が勝った。槍をはじかれたレオは、後ずさりそうな足を必死にその場に留めている。だが、レオの力はディートハルトに叶わない。
「だったら俺が変えてやる!」
レオの横を駆け抜けて、ディートハルトは掲げた剣をアリシアの方に向けて斬りかかる。
その剣を、彼女はなんのためらいもなく受け止めた。
力ではアリシアは確実に負ける。なのに均衡を保っているのは、ディートハルトが受け止めきれるように力を調節していたからだ。
アリシアが、困惑に一歩あとずさる。
「……ディートハルト、様」
「俺の手を取れ、アリシア」
傍目からは状況が拮抗している風にしか見えないだろう。
いや、そう見えていると信じるしかない。
誰かの断末魔や叫び声、雄叫びが戦場に響き渡る。
その中でアリシアとディートハルトは、ふたりきりだった。
「だ、だって、わたくしは、」
もうあなたの役に立てないのに、と震える声でアリシアは呟いた。
「わたくしは……純潔を失いました、こんな、汚れたわたくしなど、ディートハルト様は許してくださらない……!」
汚れてなどいない。
そう答えようとした、そのときだった。
「アリシア様ッ!」
レオの叫び声が聞こえる。
彼女の瞳が、見開かれていた。
背中に数十本の矢が、剣が、槍が、短剣が、刺さっている。
スローモーションのように、彼女が崩れ落ちていった。後ろでは冷酷な瞳をしたウルリヒが、アリシアとディートハルトを見下していた。
「撃てぇ!」
放たれた言葉に、兵士たちがアリシアに更なるとどめを刺そうと矢を放つ。
それでも倒れ行く彼女を庇ったのは、レオだった。
彼もまたその矢に貫かれ、アリシアに触れられないまま、倒れていく。
「お前らはいつもそうだ……そうやって、オレの大事な人を、殺して、奪って、くそ、死ね、死んでしまえ!」
無慈悲な矢が、レオの頭を貫いた。
彼ももう、喋らない。
膝をついて、ディートハルトは空を見上げた。
こんなにも空が青いのに、どうして目の前には赤が広がっているのだろう。アリシアの青い髪が、海のように広がっている。
「ア……アリシア」
彼女の見開かれたままのその瞳が、絶望を物語る。
この三年間、幸せな思いなどただの一度もさせていなかった。拒絶される悲しさを抱え、それでも我慢しながら、ディートハルトに忠誠を誓い、見返りすらも気にせずにディートハルトの傷を治していたのだ。それも、生命力を代償にして。
幸せにできるのは、自分だけだった。
その機会さえも捨て、一体自分は何をしていたのか。
「う……あ……」
剣を振るう力は、もうなかった。
鋭い痛みを感じて、ディートハルトは胸元に視線を移した。巨大な剣で貫かれ、そこから真紅の血が溢れ出る。
周囲の声は既に雑音にしかならず、バルバリアが何かを言っているが、それさえも遠い。
ああ、これが絶望なのか。
せめて、せめてアリシアの手に。
ディートハルトは地面を這いつくばりながら、手を伸ばす。
たったそれだけが、最後の、本当に最後の、切れかけた糸のような希望だった。
意識が鈍く、重くなっていく。
もう目の前になにがあるのかも見えない。
こんなにも、自分は弱い人間だったろうか。
神にも、国王にも、忠誠を誓わなければよかった。
神は何もしてくれない。
ではこの力は、何のために与えられたのだ。
疑問だけが降り積もっていく。
「アリシア……アリシアァアアア!」
意識が落ちていく。
彼女に手が届いたのかどうかは、ディートハルトにはわからなかった。
そして現代の真っ白な分娩室の中で、ディートハルトはまた、この世界に生まれた。
第17話へ続く