永遠の紅蓮

第15話 目覚めた恋心


『ねえ、アリシア。取り引きをしようか』
 恐ろしいほど粘ついた声で、高柳は千影の太ももに手を乗せる。
 悪寒を感じた千影は振り払おうとしたが、次の言葉で、完全に逃れる機会を失った。
『僕ならディートハルトの元恋人の、美亜。アイツを生き返らせられる』
 嘘だとも、本当であってほしいとも思った。
高柳はしつこく彼女の太ももを撫で続ける。不快感を表せられず、千影は歯を食い縛った。
『……どういう、こと』
『そのままの意味だよ。僕はアリシアを愛している。愛しているからこそ、君が大切に思っているディートハルトを、助けたい。だからこうして、取り引きをしようと話をしてるんじゃないか』
 自分の肩に、高柳の細い腕が回された。
 抱き寄せられる。逃げられない。
 悠を大切に思う気持ちがあることは、本当だ。
 いつでも強くて、危険なときは助けに来てくれる。
 女性にだらしないし、いい加減な男だ。
 でも、誰よりも強い。
 確かに、悠が自分に対して持ちかけていることは世間一般では許せない行為だ。
 だけど、こうして千影が前世の記憶を思い出し、そして、美亜のことを話す悠の表情を見てしまったなら。
 パートナーとして、彼を助けられるかもしれないのなら。
『何をしたらいいの』
 千影は、睨み付けるように高柳を睨み付けた。右端の口角だけを上げてニヤついた彼は、そのまま唇を千影の耳元に寄せる。
 生暖かい吐息が耳にかかって、ただただ気持ち悪かった。
『アリシア、氷蒼に来るんだ。そしてたくさん殺そう。本当は生まれたときからアリシアの隣にいたかったんだ。それをさせなかった世界が憎い、そして前世の記憶を僕に持たせた神が憎い』
 呪いのような声だった。肩に回された手の力が、強くなる。
 いくら線の細い男性とは言え、力の差は歴然だ。
 いともたやすく千影は身動きを封じられた。
『四日後だ。三日後に、涼子が波原に会いに行く。その次の日、迎えに行く。来てくれるよね?』
 しなければいけない行動は、明確だった。
 誰かに相談するような時間も、助けを求める時間もない。
 やるといったら、この男はやるだろう。
 千影は唇を真一文字に結んで、頷いた。
『……わかった。氷蒼に入る。その代わり、貴広さんに会いに来る三日後以外は、絶対に接触しないでくれ』
 それだけは、絶対だった。
 理由を問われた千影は「答える義理がない」と言い返す。
『……まあ、いいか。四日後の昼すぎには美亜を連れて迎えに行く。蓮見悠と行動してさえいてくれれば、それでいいよ』
 高柳は立ち上がって、公園から出ていった。
 とんでもないことを約束してしまったのではないかという感情と、高柳に触られた不快感、そして恐怖が全て襲い掛かってくる。
 ベンチに置いた手は、震えていた。
 自分は強いと思っていた。
 なのに、高柳に掴まれただけで、逃げることはできなかった。
 それは千影にとっての弱さだ。
 悠には戦闘で迷惑をかけた。まだ返していないお金も、行為もある。
 それ以上もなにかがあるように思えるが、それは恐らく、アリシアとして達成できずレオに逃げた彼女の、後悔の念だ。
『……大丈夫、悠、助けるから』
 立ち上がった自分の足は、もう震えていなかった。

「はー、美味かった! 兄貴、ごちそうさま〜」
「ごちそうさまでした」
 陸は背伸びをして、千影は悠に深々と頭を下げる。
 大した金額ではない、と悠は手を振って、千影に頭を上げさせた。
 悠はふとからかいたくなり、口角を上げながら千影に話しかける。
「お前、払うって言わないのな」
 悠の言葉に甘える形になっていたが、やはり半分出すべきだったのかと慌てて財布を出した。神楽以外では樹としか出掛けたことがないために、そういった常識に欠けていることを痛感する。
 千五百円を出そうとしていると、悠に顔面を鷲掴みされた。顔全てが悠の手に覆われて、息ができない。
「い、いたたたた」
「ちょっと兄貴、なにしてんの女の子に!」
 陸が悠から千影を引き剥がす。
 攻撃しようと思ってされていないことは明白だったので特に怒る理由もなかったのだが、陸の顔が鬼の形相になっている。
 悠は悠で、ばつが悪そうに口を開いた。
「……いや、コイツからかってみただけだし」
「ほんっと千影ちゃんには雑だよね兄貴!」
「り、陸くん陸くん、大丈夫だから……」
 千影は笑って手を振る。
 普段なら怒っているところだけれど、これが最後の会話だと思うと、楽しい気持ちがあった。
「全く、千影ちゃんも優しいんだから。兄貴、オレこれから一回紅蓮に戻らなきゃいけないから、千影ちゃんお願い。変なことすんなよ」
「するか」
 陸が悠の横を通り過ぎるときに何かを伝えているが、千影の方からでは聞こえない。ただ、悠の表情が微妙に歪んだだけだった。
「じゃあ千影ちゃん、また明日会おうね」
「うん、またね陸くん」
 手を振る。きっと陸も悲しませることになるだろう。何て自分勝手な結果なんだろうと思いながら、その背中を見送った、
 自分勝手であろうが、自ら決めたことなのだ。
 最後、少しだけでも尊敬する相棒と一緒にいたくて仕方なくて、千影は悠の服の袖をつかむ。彼の表情が、揺らいだ気がした。
「悠、このあと時間ある? 他の誰かとデートとか」
 少しだけ心臓をどきどきさせながら聞いてみると、悠が固まった。
 もしかしたらデートの予定が入っていて、どうやって断ろうか考えているのだろうか。
 こちらから辞退しようと思っていると、止まっていた時が動き出したかのように早口で喋り出す。
「い、いや、ない。なんにも、全く、ない。暇。夜まで暇」
 ああ、それならちゃんと、お別れができる。
「……たまには遊ばなきゃって思って。どこか連れて行ってくれる?」
 きっと何かあることは見抜かれているのだろう。
 悠は何度か口を開きかけて、最終的にはそれを諦めた。ハッキリとしている悠には珍しい行動で、微かに心配されているのが伝わる。
「そうだな……どこか行くか」
「うん、ありがとう」
 ゲームセンターに連れて行ってもらい、周囲で女子大生が着ているというブティックを案内してもらう。
 有名らしいビュッフェの前を通って、紅茶の美味しい店に行き、公園のベンチに座った。
 チョコバナナクレープを買ってきてもらい、鳥の囀りと子供たちの笑い声と泣き声を微笑ましい気持ちで聞き流しながら、ようやく話しだすことができる。
「……悠、この間は家のこと詮索するななんて怒って、ごめん」
「ああ……あれは俺が、」
「違うの」
 クレープを握りしめて、千影は話を続ける。
「……私、家を追い出されてるの。出て行けって言われて、一人だけ味方のお兄ちゃんにお金出してもらって、いま、一人暮らししてる」
 出来る限り、冷静に話せるように努めた。だけれど心は家族に言われたことを思い出し、声は震え、鼻の奥がツンとする。
「……ち、かげ」
 悠が困っているから早く話さなければ、と自分を奮い立たせる。話さなければ。紅蓮にいることを、悠の隣に立つことを、終わりにしなければ。
「ほら、私こんなだから、今まで樹しか友達いなくて。でも、貴広さんと悠が迎えに来てくれた。麗奈と友達になって、悠と喧嘩しながら、強くなろうって頑張って、が、がんばって……」
 とうとう耐え切ることができずに、一筋の涙が落ちていく。
「あのね、ありがとう。本当に、今(・)まで(・・)ありがとう。迎えに来てくれて、いっぱい喧嘩してくれて、ありがとう」
 大粒の涙を流しながら、千影は嗚咽を漏らす。
 悠は思わず、何か続けようとする千影の唇を、自分の唇で塞いだ。
暖かく、柔らかい感触が流れこんでくる。
 つかんだ肩は、柔らかい。
 嫌がる様子も、拒否される様子もなかった。
 長い間そうしてから唇を離すと、千影は怒りもせずに、涙を拭っている。
「――どうした。なにを隠してる。なにを抱えてる。話してくれ」
 そう言ってくれたことが、嬉しかった。
 だけどそれを明かさないのは千影の意地で、見栄で、気持ちだった。

 心の奥が焦りに覆い尽くされ、心臓がばくばくと音を立てる。
 気付いていながら何も問わなかったことが間違いなのだと突きつけられるほどに、嫌な予感がする。
 いなくなる気なのだ、とようやく答えに辿り着いて立ち上がったとき、千影が公園の奥を指差した。
 視線をずらすと、そこにはとうの昔に亡くなったはずの恋人が立っている。
「……美、亜?」
 頭の中が真っ白になり、今まで考えていたことが全て吹き飛んでいく。
 どうして亡くなったはずなのに、ここにいるのか。
 聞きたいことは山程あるのに、喉の奥から絞り出すような呻き声しか出てこない。
 その横にある木からは、高柳が姿を現した。
 ただ千影を見詰め、薄い笑みを浮かべている。
 美亜の様子は、亡くなったときと変わらない。黒く長い髪を束ねずにそのまま流し、黒い半袖のセーターと水色のマーメイドスカートを履いていた。
 一体なにが起こっているのか。どうして美亜と高柳が一緒にいて、千影はそれに対して反応しないのか。
 なにも考えられない。
 昔の、亡くなった恋人への懐かしい想いが、確かに蘇ってくる。
 千影はためらいもなく立ち上がって、悠に背を向けたまま言葉を続けた。
「私、氷蒼に入ることにしたの。今がタイムリミット。貴広さんに、謝っておいて。悠も、ごめんね。次は敵だから」
 追おうとした悠が、立ち上がろうとして崩れた。
 その言葉が信じられない。
 誰よりも氷蒼を倒そうとしていたはずの千影が、どうしてここで。
「ま、待て。まだなにも、どうして美亜がいるのかも、聞いてない、説明されてないことが、ちか、げ、行くな」
 そっちには高柳がいる。彼の手に渡った千影のことなど、想像したくもなかった。
 その説明を引き継いで、高柳は大きく笑った。
「アリシアはお前を救うために、僕との取り引きを飲んだ。その女の蘇生と引き換えに、彼女は氷蒼に入り、僕のものになる。僕の願いが達成される!」
 悠は言葉を失った。
 そんなことが、いつ行われていたのか。彼女を一人にしたからだと、悠は唇を噛む。
 千影の歩みは止まらない。
「千影、駄目だ、戻ってこい! そいつの元に行くな!」
「……悠」
 あのとき発した言葉がトリガーだったのだろう。彼女のことを好きか聞かれて、好きだと答えた、あの言葉が。
 全てをかなぐり捨てて訴えるときがあるとすれば、それは今だ。
「でも、悠は……美亜さんのこと、忘れられないんでしょ?」
 答えられなかった。
 そんな悠を見て、千影は優しく微笑みを浮かべる。全てを許す、アリシアの笑みだ。
 前世で他の女性の元を渡り歩いたディートハルトを、いつもアリシアは許した。
「巫女は一夜を過ごすことを許されておりません。いいのですよ、ディートハルト様」
 我慢させていたと気付いたのは、蓮見悠になってからだ。
 彼女を愛しているならば、一言伝えれば良いだけだった。
「大丈夫だよ、悠の気持ちは間違ってない。だからもう、女の人と中途半端な付き合いするのはやめて。一番大事な人が、近くにいるんだから」
 最低だと思う。悠はどうにもできなかった。
 未練を残したまま死んだ美亜と共にいることと、生きた千影のそばで彼女を守ること、どちらも選べなかったのだ。
 悠の抱えてるものを、的確に突いた高柳の攻撃だった。
 千影が高柳の横に立つと同時に、美亜が歩いてくる。
「ちっ、ちかげ、駄目だ、行くな、貴広に言えないぞ、いいのか」
 泣き叫ぶように悠は口にした。どうしていいかわからない、だけど、止めなければ。止めなければ、千影が高柳に無理やり抱かれる。
 それを止められるのは、波原だけだった。
 千影は少し考えるようにして、軽く笑った。
「……うん、もういいかな。仁(・)くん(・・)、行こう」
 アッサリと最後の砦は崩される。勝ち誇ったような笑みの高柳が、悠を見下して千影と共に消えていった。
 悠は声にならないあえぎをしながら、呼吸を求める。
 また傷付けた。どうしていいか、わからない。
「……悠」
 声は、確かに美亜のものだ。
 本当に蘇生しているのだろうか。
「悠」
 二度呼ばれて、悠は顔を上げた。
 美亜は顔を歪め、そこに立っていた。
「……あなたの顔を見れば、あの子をどう想っているかくらいわかる。紅蓮に行こう。貴広も、棗もいるんでしょう。立ちなさい」
 美亜に引っ張りあげられて、悠はようやく立ち上がることができた。
 紅蓮までは、そう遠くない。何も考えられないが、とにかく、状況を説明しなければ。
 自分がここまで崩れ落ちるほどの情けない人間だとは思っていなかった。
 それが余計に彼女への感情を思わせて、悠はやっとの思いで、歩き出す。

 汗で髪が額に張り付いている。
紅蓮の波原がいる部屋に走りこんできた陸の顔は、血の気を失っていた。
「……どういう、ことだよ……」
 憔悴した様子でソファーに腰掛ける悠と陸の視線が合う。
 悠の横に立つ美亜を見、陸は兄の胸ぐらを掴みあげた。
「悠……お前、なにやってたんだ……?」
 怒りで震える陸の腕を止めたのは、樹だった。
 横に立つ麗奈は泣きじゃくっている。
 悠はその問いに答える気力すら失い、そして細く長い息を吐いた。
 それでも出てくる言葉は、なにもない。
「樹、お前悔しくないのかよ! お前だって千影ちゃんのことっ、いでっ!」
 その陸の頭を思い切りはたいたのは、蓮だった。
 彼にしては神妙な表情で、悠を見やる。
「お前の気持ちもわかるけど、コイツも止めたんだってよ。でもそのまま行っちゃったんだと」
「だからって……」
 棗は悠から話を聞いてそのまま地下室に閉じこもり、手がかりが得られないか探しているらしい。
 まさか自分一人がいなくなるくらいでこんなことになろうとは、千影も思っていなかっただろう。
 陸から腕を離された悠は、瞳から光を失い、ぐったりとソファーに背を預ける。
 誰も見たことがない、蓮見悠の情けない姿だった。
「貴広」
 誰もが黙り込む状況の中で波原に声をかけたのは、他でもない美亜だった。
 全てを見渡すような聡明な瞳で、辺りを見回す。
「……美亜が生き返ってくるとは思わなかったぞ、おれは」
「あたしだって一番予想してなかった。どういう手を使ったの、その高柳って男は」
「知らん。それよりも、お前が戻ってきたなら協力させるぞ」
 波原と美亜の会話は常に淡々としていた。必要事項のみを伝え、了承し行動する。
 それは彼女が蘇った今でも、変わりはしなかった。
 美亜は悠を見る。彼は、思考を放棄しているようにも思えた。
 手は微かに震え、ただ絨毯を見つめている。
「問題ない。死んだ人間より生きてる人間を優先させるのは当然のことだ。あたしは死んでいる。それは変わらない」
 言うなり美亜は、悠の腕を引っ張りあげた。
 彼が視線の先に美亜を認識した瞬間、悠の頬に激しい痛みが走り、口の中に血の味がにじむ。   
 悠の前に慌てて麗奈が立ち、美亜を睨み付けた。
「……いくら悠の恋人だからって、酷いんじゃないですか」
「こんな腑抜けた男を恋人にした覚えはない。悠、一時間で持ち直せ。彼女を助けに行く」
 悠は答えない。美亜はため息をついたあと、ドアに手をかけた。
 その真鍮のドアノブに手をかけてから、ふと美亜は波原の方を振り返る。
「貴広、棗と話をしてくる」
「了解」
 軽く手を上げた波原にふと微笑んでから、美亜はそのまま出て行く。
 波原の横では陸が何かを察した表情になっていた。
「……貴広、美亜さんって千影ちゃんそっくりだね」
「その上、悠の訓練の手ほどきをしている。実力はおれと互角だな」
 冷たいタオルが、悠の頬に当てられた。
 それが麗奈のハンカチで、心配気に彼女が自分の頬を拭うのが感覚的にわかる。
 窓から入ってくる風も、部屋の中に漂うコーヒーの香りも、全てが他人ごとのように思える世界だった。
「悠、千影助けて。それで千影とまた出掛けたいの、お願い、お願い……!」
 麗奈はぽろぽろと涙をこぼしながら、顔を伏せた。悠の手の甲に、彼女の涙が落ちる。悠は真っ赤な天井を見上げた。
 ポケットに手を突っ込むと、紙袋とシャリシャリとした音が聞こえてきた。
 そうだ。まだ、あのとき買ったネックレスを渡していない。
 ぐ、と、ポケットの中の手を握りしめる。まだ、なにも伝えていない。
 前世で伝えられなかった想いと、今世で抱いた想いを伝えることしか、自分を、自分の生き方を変えられる方法はない。
「……助けに行く。絶対」
 もう、なにが正しい道筋なのか悠にはわからない。
 わからないけれど、彼には通すべき筋があった。
 あのとき助けられなかったアリシアを、いま助けて、そして高里千影にもう一度出会う。
 それだけが、悠の動く理由だった。
 波原は安心したような顔をして、悠を見る。
 小僧だった悠をここまで育てたのは美亜と波原のようなものだ。
 そこには父親のような安堵が存在する。
「貴広。負けないからな」
「……何のことかな」
 とっくに気付いているその言葉の意味を、波原は飄々とはぐらかした。
 きっと自分が感情を現すことは、誰も幸せにならない。だからこそ波原は、自分の考えていることを隠し続け、今までこうして行動してきた。
「樹、相応しい時期だとか、計画とか、もうなしだ。今夜全力で千影を取り返しに行く。夜まで特攻しないで我慢してやる。最短で作戦立てろ」
「……おれを誰だと思っている。できるに決まってんだろ」
「悠、お前に一番必要なものを渡しておく」
 唐突に波原はクリップで留められた冊子を、悠に投げ渡す。数枚程度だが、そこには氷蒼内の地図と、事細かに詳細が記されていた。
「充分だ」
 ここまで来たなら、一刻の猶予もないことはわかっている。
 波原が好きなのに、違う男に抱かれるという気持ちは、悠にはわからない。
 だが、それが彼女にとって屈辱的で、苦痛をこらえ、それが悠のためだと言うならば。
 悠はポケットから煙草を取り出して、ライターで火を点けた。緩やかな煙が、確かに彼の心を落ち着かせていく。
「……地下にいる。何かあれば呼んでくれ」
 美亜のことも、確かに、確かに好きだ。
 しかしどうしようもない事実として、彼女は既に亡くなっている。
 死んだ人間に会いたいと思うのは、当然の気持ちだ。
 だがきっと、美亜は言うのだ。
『生きてる方を大切にしなさいよ、ばぁか』
 そんな彼女だからこそ、悠は美亜を愛した。
 全ては過去なのだ。
 地下への階段を降り、訓練室のドアを開ける。
 黒い長髪を既にポニーテールにくくっている美亜は、口の端を上げて不敵な笑みを浮かべた。
「……頼む」
「ひねり潰してやるから、来なさい」

 悠が出ていってからふと、樹が呟く。
「……波原、数年前、オレを見ているな。あの施設で。研究所で。どういう、ことだ」
 波原は、肩をすくめた。それが肯定の意であることに気付いた麗奈と棗は、その表情を固くした。
「……言うつもりはなかったけどな。樹がバラしてしまったなら、仕方ないから話しておこう。どうせここからは、時間の問題だ」
 ごくりと樹は、生唾を飲む。

 地下に降り、訓練室に淀みなく進んだ悠まず、向かい合った。
 そして同時に、前世の姿に変身する。
 悠はスラリと鞘から剣を出した。
 美亜は整った顔の金髪の男性になり、その手には短剣を持っている。
「さて」
 美亜の口から出たのは、吐息混じりの低い声だった。
「単刀直入に聞こう。あの子に惚れてるだろ」
「惚れてる」
 悠が振り払った剣が風を切り裂き、流麗な動作で彼は剣を構えた。それに応じるように美亜も短剣を構え、手首をくるくると回す。
「あたしに未練は?」
「死んだ人間に対して未練がないわけないだろ。馬鹿なこと言うな」
 く、と喉を鳴らして美亜が笑った。あまりにも開き直り、あまりにも直球な一言だったからだ。
「よろしい。あたしが死んだことは君を悲しませただろう、後悔させただろう。申し訳ないと思っていた。だけど、君にはあの子がいるんだな?」
「いる。もう、ずっとそばに」
 駈け出して繰り出した一閃を、美亜が受け止めた。ジリジリと、美亜が押されていく。
「もう、寂しくないな?」
「言い切ることが強さなら、そうするぞ」
 ほんの一瞬だけ、美亜が寂しそうな笑顔を浮かべた。その笑顔の中にある感情は、予想するまでもない。
 悠の剣が、少しずつ押し返されていった。
「……ウソだろ俺いま二十歳だぞ」
「あの頃は手加減をしていたからな。だいぶ強くなったな」
 くんっと、急に美亜の力が抜けた。前のめりになった悠に対し美亜は足払いをして、そのまま悠は前に倒れる。すぐに立ち上がった悠は鼻を打ったらしく、涙目になりながら美亜を睨み付ける。
「お前っ……」
「だが、まだまだ弱い」
 歯を食いしばりながら、悠は立ち上がった。
 こうして昔は、ありえないほどにしごかれて、そうして彼女に惹かれていったのだ。
 忘れられない、大切な記憶だった。あのとき交わした言葉も、体の温もりも、しっかりと覚えている。
 だからこそ、後ろを向いてはいられない。
 美亜はもう、いない。
 そこから悠は、必死に剣を振るった。
 自らの記憶が曖昧になるほど振るって、意識がはっきりしたのは、地面に膝をついてからだった。
 汗がじっとりと体を濡らし、気持ち悪い。
 美亜はため息をついてから短剣を鞘に収め、そして悠の前にしゃがむ。
「おーい、大丈夫か? あんまり全力だと今夜までにバテるぞ。少し休め」
 なんの返事もすることなく、悠は床に倒れ込んだ。
 本当にどうしようもないくらい、がむしゃらに戦ったようだ。
 眠気にまどろんで、悠の意識が遠ざかっていく。美亜の声も、既に遠い。
 目を閉じて意識を手放す瞬間に見えた景色は、かつて自分の魂が生きた、そして死んでいった、あの城だった。

 ディートハルトは、静かに目覚める。


第16話へ続く


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