『……元恋人に、少し冷たすぎるんじゃないのか。二日前に、キスまでしたのに』
千影はベッドの中で、その言葉の意味をずっと反芻していた。わかりたくもないのに、思考を巡らせば巡らせるほど、事実が突きつけられる。
波原と涼子は元恋人で、そんな二人が殺し合おうとしている。
そして何より一番大事なことは、どう見てもお互いに気持ちが残っている。いくら考えても、波原の「(涼子を)殺せ」という意見を尊重する気にはなれなかった。
自分勝手な考えかもしれない。
涼子から波原を奪うという感情にどうしてもなれないのは、自分が誰かを傷付けることを望まないからだった。
なのに、千影は波原を好きでいることで樹と陸を傷付けていることに変わりはない。
眠れず彼女は一夜を明かし、目をこすりながらも紅蓮に急ぐ。状況は刻々と変わっているはずで、素早く対応できる体制が必要だった。
何回通っても慣れない、空間が歪む感覚を超える。
ホールに置かれているソファでは、悠が目を閉じ、腕を組んで休んでいた。彼もまた、昨夜のことで眠れていないのだろう。
その事実は全員に共有すべきか、波原が話すまで待つべきか、まだなにも話していない。
訓練をする気分には、なれなかった。
たかが好きな人に恋人がいただけだ、事件にはなんら関係がない。
そう思いたかったのに、思えなかった。
悠の隣に座ると、微かな寝息が聞こえてくる。いつもなら誰かが近付けばすぐに目を覚ますのに、それほどまでに疲れているのだ。
「……悠、どうしよう」
千影はそっと、弱音を漏らした。好きな人に好きな人がいたからといって、戦いをやめるわけがない。
守るものは、今もそこに存在する。だからこそできるだけ、誰も傷付かない方法を考えたかった。
悠は起きる様子を見せず、もう少しだけ甘えたい欲が出てきた。
彼の肩に頭を寄せて、千影は目を閉じる。
知っていた。アリシアが本当はディートハルトをどう思っていたのかも、笑顔の裏に隠していた寂しさと、辛さ、そして不安も、全てだ。
前世の自分と、混同しているのかもしれない。
だけれどその考えが正しいかどうか、答えのないことに思考を巡らせているのも確かに理解している。
「どうしたらいいのかな……」
人の温かみは安心する。
悠が偽の彼氏だというなら、このくらい許容してくれるだろうか。
誰かによりかからなければ、折れてしまいそうだった。
ひたすら不安に心を揺らがせているうちに、いつしか意識がなくなっていた。
悠の隣は、安心する。
「……千影。千影」
肩をゆすられて目を覚ますと、悠の顔がぼんやりと見える。いつの間にか寝てしまっていたようで、霞んだような思考も怠かった体も、違和感は抜けている。
彼を視認してから一気に覚醒し慌てて時計を確認すると、七時だったはずの時計は十時になっている。
何度目をこすって時計を見ても、十時のままだった。
そして自分が悠の肩に寄りかかって寝ていたことを思い出し、恥ずかしさで表情を窺うことができない。
「う、わ……ご、ごめん、眠れなくて」
「眠れたか?」
そう問う悠の声は優しい。
病人に優しい感じだろうか、本当に優しくしてくれているのかはわからないけれど、まるで別人だ。
どう反応していいかすらも見失って、ただ頷く。
「ね、眠れた。スッキリした」
「そうか」
波原も来ているのだろうかと考えるが、部屋に行けばわかることだ。
悠は立ち上がって腕を伸ばしながら、あくびをする。
それからもう一度千影の隣に座ると、ふわりと煙草の匂いがした。悠の匂いだ。
「……千影、俺から離れるなよ。いや、樹でも陸でもいい。奴は絶対にお前を狙ってくる」
「ああ……そうだ、な」
返事に若干の間が空いているのを、悠は聞き逃さない。さっと彼の表情が変わった。こういうところは細かい男だなと思いながら、逃げ道を考え始める。
「まさか、行こうだなんて考えてないだろうな」
案の定その言葉に素早い切り返しができるはずもなく、、千影は喉を詰まらせた。
どうすることが正解かなんて、一晩考えてもわからないのに、いま考えて見つかるものか。
それに、高柳との取り引きもある。
曖昧に濁せばそれは嘘となり、きっと彼を傷つける。
「今のところは、考えていない」
悠の舌打ちが聞こえてからは、一瞬だった。
手首を掴強くまれて、背もたれに押し付けられる。
吐息を感じられるほどに悠の顔が近くにあり、状況とは裏腹に落ち着いた気持ちでまじまじと眺めてしまう。
その瞳はエメラルド色で、綺麗に透き通っていた。
通った鼻梁に、ふわりとした金髪、そして自分を見つめるその視線。あまりにその目が真剣で、千影は視線を離すことができなかった。
「……俺が絶対に行かせない。波原もお前も、俺が守る」
「な、なに言ってるんだ、私が貴広さんを裏切って氷蒼に行くだなんて、そんなことは……」
ない、とは言えない。
千影は自らが置かれている状況をわかっているからこそ、語尾を曖昧にすることしかできなかった。
「だ、大体……悠には、私がいなくても」
「千影」
強い口調で名を呼ばれ、身体がびくつく。
だってそうじゃないか。自分は悠にとって、遊び相手でしかない。道具としての価値しかないじゃないか。
それを口にしたらもっと怒られそうで、唇を結ぶ。
代わりに千影は、その言葉を口にした。
「悠」
「なんだ」
「……亡くなった彼女さんのこと、まだ好き?」
あまりにも唐突なその一言は、悠の感情を固め、あのときへと戻す。
視線が微かにさまよい、だが、悠はその回答を有耶無耶にすることはなかった。千影と視線を合わせ、そしてハッキリと口にする。
「好きだ」
「そっか。うん、わかった、ありがとう」
その先に続けるべき言葉は、やはり出てこない。
大事な相棒の気持ちは確認できた。それならあとは、やるべきことをやるだけだった。
「じゃあ、貴広さんと話をしに行かないとね」
千影はソファーから立ち上がって、階段を登ろうとするが、悠に後ろから抱きすくめられた。
最初はふわりと優しい力だったのに、言葉を発することができずに秒数が経つにつれて段々と強くなる。
「ゆ、悠、離して」
「氷蒼に行かないと、今ここで俺に言え」
千影は口をつぐむ。
あまりに長い沈黙で、悠はとうとう耐え切ることができなくなった。その答えを、どうしても求めたくなるのは、同じことを二度繰り返したくなかったからだ。
「……貴広に言われれば、行くのか」
「行く」
抱きしめられる力が更に強くなった。
耳元で「行かないでくれ」と小さな声が、何度も聞こえた。それにも、応えられない。
前世を思い出してしまった、今となっては。
「……言ってくれ、頼む。守りたいんだ、お前を。言葉をくれ」
悠の辛さは、ディートハルトの辛さだ。
千影は前世の記憶が蘇ってからようやくわかる。自分がアリシアと全くの別人だとわかっていても、その魂は一緒で、抱えているものもずっと継続されている。
そうではないと、新たな幸せもあるんだと、自分が示したかった。
「無理だよ。貴広さんの指示があれば行く」
「高柳が、いるんだぞ……」
その言葉を聞いて、体が震える。
考えなかったわけではない。高柳の自分への異常な執着と、その目的。
氷蒼に向かえば、ろくなことにはならないと思う。
だけれど、波原のために何かできるなら、例え自分が望んでいなくても行動したかった。
そして悠を、救いたい。
「確かにそれは……とっても怖いな」
ゆっくりと千影は、悠の腕の中から抜け出た。
悠がこうして必死に自分を守ろうとするのも、前世から抜け出せないままだからだ。錯覚をしている。
悠は、美亜という女性を愛しているのだ。
その寂しさを紛らわせるための女性で、そのための、自分だ。
「とにかく、私が行かないという確証はない。それだけは、わかっていてくれ」
「……連絡先を、教えてくれ」
泣き出しそうな顔で言われて、千影は大きく揺らぐ。
確実に、自分は悠の前からいなくなる。
なのにどうして、連絡先を教えられようか。
「……わかった」
しかし漏れ出た言葉は肯定だった。
自分が、一番驚いていた。
だがそれを態度には出さず、淡々と連絡先を交換する。スマートフォンから顔を上げた悠は、すがるような視線で千影を見やる。
「いつでも、呼べ。辛いとか、嬉しいとか、迎えに来いとか、なんでもいい。行くから」
その言葉に、誰よりも甘えたかった。悠なら存分に甘えさせてくれるだろう。だけど、それをしていい相手は違う。
「私よりも、麗奈のところに行ってくれ。きっと今も寂しがっている。私は大丈夫だから」
四つも年上で、強くて大学生の、格好いい偽彼氏。だけれど、それが許されるような関係ではない。
スマートフォンをポケットの中に閉まってから、千影は悠に背を向けた。
「千影……」
どうあっても、拒絶の方法を取るしかないことは、自分が一番理解している。
「……少し外に出てくる」
まるで何かから逃げるようにして、外へ出た。
その背中をいつまでも、悠は見つめている。
どうしたものかと考えて外に出ると、陸が立っている。ぼうっと、空を見上げていた。
「陸くん……」
「お、千影ちゃんじゃん……おれたちの力で人を殺さない方法ってないよね、って、考えてたとこ」
その表情は、どこか悲しげだった。
千影はどんな言葉をかけたらいいかわからず、黙りこむ。その不安は陸へと伝わり、微笑んだ彼は千影の頭を軽く撫でる。
「や、ただ思っただけだし。おれたちにはこの方法しかないもんね。どう、千影ちゃん。貴広とはうまく行きそう?」
言われて千影は、何も答えられない。
黙り込む自分を、陸は「上手くいってない」と解釈したらしい。それ以上は何も言及せずに、ただ歩いていくのは陸なりの気遣いなのだろう。
「陸くん……」
「用事があってさ。中で済ませたら、ご飯でも行こうか。この間ぶらぶらしてたら、ランチが美味しそうなお店があってさ……」
千影は断ろうとした。断ろうとして、昨日の波原の言葉が頭をよぎる。あの表情は、確実に、お互いを想い合っている。
あまりにも、一人でいたくなかった。
「ついてきてほしいんだ、ホールで待っててよ」
中に入ると、気難しい表情をした悠が一人で考え込んでいる。
なにを考えているのかは、想像に難くない。
「あれ、兄貴来てたの。仕事熱心だね」
顔を上げた悠は、千影と陸を交互に見、そして舌打ちをした。
「あっ、なんで舌打ちするの!」
「っせーな。俺だって悩むことくらいあんだよ」
へー、意外。と陸は笑った。彼の明るい表情が、千影をホッとさせてくれた。
●
「どうしたんだよ、今日特に来る予定なかっただろ」
悠はため息をついて、その足を階段にかける。
「貴広に用事があってね。ほら、突入するならもっと詳しい見取り図いるだろ。それの作成」
パソコンのキーボードを打つ動作をしてから、陸は悠の横を通ろうとする。
そのとき、陸が悠の肩をつかんだ。
「……千影ちゃん、何かあった?」
耳元で問われて、悠は目を見開いた。
千影の様子に気付いていながら普段通りの態度を取るなど、自分なら全くできそうにない。
何と答えたらいいのか考えて、思わず言葉が濁る。
「まあ……ちょっと」
「兄貴が原因じゃないんだね?」
陸が悠を睨み付けた。
そういう人間に見えるかと問い返そうと思い、悠はため息をついた。
「違うに決まってんだろ。教えてやるかよバーカ」
「ふーん、そう。ならいいけど?」
信じているのか信じていないのか全くわからない表情で、陸はそのまま階段を登り、波原のいる部屋の中へ入っていく。
やはり波原はいて、ソファーで寝ていた千影と悠をスルーして仕事に行ったということなのだろうか。
「……余裕ってか」
波原が千影の感情に気付いてないわけがないのだ。それは今まで数年の付き合いで知った波原という人物から、よくわかっている。
吐き捨てるように言った悠の隣に、陸を見送った千影が立つ。
「……悠、どうしよう。みんなに説明したほうがいいと思う? 貴広さんの許可を得ずに」
最後の言葉はことさらに強調された。
これは避けて通れない道であり、はっきりさせなければならない問題だ。
悠は次の段にかけた足を諦め、階段の上に座った。隣に、千影も座り込む。
ふわりとした暖かさが、触れるか触れないかの距離で悠に伝わってきた。
その温度に心を奪われている場合ではないと自らを叱咤して、悠は話を進める。
「土壇場で、やっぱり好きだから殺せない、とは言わん男だ。それは俺が保証していい。ただ、伝えるべきではないんじゃないかと、俺は思う」
「それは……どうして?」
「俺達の剣が鈍る」
千影は胸の前に手を当て、ぎゅうっと握る。
確かにそうだった。その事実を知らされただけでも、千影の涼子に対する敵意は揺らいだ。
もし波原と涼子が元恋人同士で深く通じ合っていることを、樹や麗奈が知ったとしたら。
瞬く間に、千影の脳内で樹たちが血まみれになった。
そんなことになるのは、嫌だった。
「だったら言わなくてもいいと、俺は思っている」
体育座りになって、千影は顔を膝の間に埋めた。
千影が泣いたのかと一瞬思うが、嗚咽が聞こえないので、泣いてはいないようだ。
元から悠は、貴広の目的と、それに至る経緯までを聞いている。先日の出来事はさして気に留めるほどでもなかったが、それでも気になったのは、千影の憂いだった。
「気にするなと言っても無理だろ。できるだけ早く、忘れろ。それでも好きなことに変わりはねえんだろ」
「……うん」
顔を上げた千影は、泣いていなかった。
目に強い光を宿している。
それほどまでに好きなんだと示されて、悠の胸がズキリと痛んだ。
そのまま十分ほど黙ったままでいると、ドアの開く音が聞こえる。
振り向くと、陸と波原だ。
勢い良く千影は、慌てて波原に頭を下げる。
「お、お疲れ様です!」
「……あぁ」
気怠げに波原は返事をして、そのまま煙草を出す。悠がポケットからライターを出して投げ渡すと、受け取って彼は火を点けた。
ジリジリと、煙草の先を火が焼いていく。
「お疲れ……悠、サンキュ」
「ああ」
投げ返されたライターを、悠はポケットに仕舞う。
陸は飼い主を見付けた犬のように瞳を輝かせて、千影の元へ歩いていった。
「千影ちゃんっ、ご飯ご飯っ!」
「うん、行こうか」
そこでふと、双子の視線が合った。
お互い睨み付けるように意思の応酬が始まる。
悠は自分も連れて行けと視線で言い張るが、陸は微動だにせずそれを却下し続ける。
「じゃあ、おれは部屋に戻る」
千影はその間に、波原の元へと駆けていった。
「あのっ……貴広さんっ」
呼び止められた波原は、気怠そうに振り返った。
「ああ、どうした。夏休みだろ、高校生は遊ばないと」
「あああ、あのっ……」
赤面したまま、千影は何かを言おうとしている。波原は数秒黙っていたが、彼女が結局言い出せないままでいると、そっと微笑みかけた。
「……頑張ってるな。今度夕食にでも連れて行こう」
「い、いいんですかっ?」
千影は満面の笑みになった。
悠と陸は、それを苦々しげに見ているが、彼女はそれに気付かない。
「どこでもいいぞ。特に思いつかなければおれがある程度なら案内する」
「あ、ありがとうございますっ……」
「……兄貴、邪魔してくれば」
「馬鹿野郎、お前が行けお前が」
舌打ちをして悠は、顔を赤らめて喜ぶ千影を見ていた。あんな表情、自分の前じゃ見せたことがない。
あれを自分の前でだけ見せてほしいと思うのは、それすなわち、恋愛感情だろう。
「すまない、やらなければいけないことがある。またあとでな」
「は、はいっ!」
煙草を咥えたまま煙を吐き出して、波原は部屋の中へ戻っていく。千影は波原の方をぽうっと見ていた。
「……あー、貴広、うらやましー」
「全くだ」
悠はポケットに手を突っ込んで階段を降りていき、千影の首根っこを掴む。
「ぐえっ、な、なんっ」
「奢ってやるからメシだメシ」
「ちょっと兄貴! 奢りは嬉しいけど千影ちゃんを乱暴にしないでって!」
悠は舌打ちをしてからジタバタと抵抗する千影を離して、不機嫌に玄関まで歩いていく。
陸は慌てて千影のそばに駆け寄り、怪我がないか確認する。
「うーわ、兄貴が乱暴なことしてゴメン、大丈夫?」
「いや、だ、大丈夫……」
やっぱり嫌な奴だ、と首をさすりながら思う。
先に歩いていく悠を睨みつけながら、しかし昼食は奢ってくれるというので大人しくついていく。
●
千影達が昼食の場所に選んだのは、近くにあるイタリアンのチェーン店だ。
見目麗しい双子の兄弟を脇に従えているからか、周囲の視線を感じ居心地が悪いながらも、店員に通された席に座る。すぐに水が運ばれてきた。
昼食にはほんの少し早い十一時だけれど、土日であるからか店内は混んでいるといえるくらいには人がいる。
千影が奥にある席に腰を降ろすと、当然といった様子で隣に悠が座った。それにムッとしながらも、陸が千影の向かいに座る。
そして千影の前にメニューを出した。
「千影ちゃん、なに食べる? 兄貴の奢りだしこの千五百円のパスタAセットとかいいんじゃない? サラダとドリンクと、あとデザートついてるしさー」
悠はポケットから煙草を出し、目の前で仲睦まじげにメニューをめくる二人を見て――煙草をしまった。食事前に煙草を吸うのはやめておこう。
「せ、せんごひゃく……」
ふと千影の方を見ると、普段そんな金額を使ったことがないのだろう。メニューをめくる手が止まっていた。
ここで変に我慢をされるのも何となくプライドに障ると思い、悠はAセットをとんとんと指で叩いた。
「何でもいいぞ。食いたいもん食え」
「う、あの、じゃあ、スープパスタのAセットがいい、です。ドリンク……ドリンクは、紅茶とかで、いいのかな」
彼女が指差したのは、クリーム系のスープパスタだった。陸の方に悠が目をやると、陸は既に決まったという表情で爛々と悠を見ている。
自分も特に選り好みはしないので、すぐに店員を呼んだ。
「ご注文お決まりですか」
決めたものをそれぞれ伝えると、店員はメニューを復唱してから、去っていく。
二分と経たない内に飲み物が運ばれてきて、三人はそれぞれ、無言のまま口をつけた。
話題の出し方を窺っている。そんな気はしていた。
「……陸も千影も、部活には入っていないのか」
せめて食事時は、そんな話をしたくない。
そう思って悠が振ったのが、この話題だった。
陸はうーんと首を傾げて、千影は苦笑いをするだけだった。
「オレ? オレはたまーに他の部活に助っ人で行くけど、流石にいつ呼ばれるかわからないから、入ろうとは思わないよなー。千影ちゃんってどうなの? 部活いっぱいあるけどさぁ」
「私は紅蓮があるから。弓道部は気になってるけど」
弓と言えば、彼女の的中率は五割ほどだ。その弱点を何とかしたくて、ということだろう。
「兄貴こそサークルとか入らないの?」
「あー……俺か? 俺もよく考えたら、紅蓮あるからあんまりやったことねえかも。特に趣味はないし」
どこから収入があるのかはわからないが、バイトという立場で雇われている以上、月十万を確約される。その他は緊急の呼び出しに応じて支払われた。
一人暮らしでは、それはそこそこの大金だ。
考えながら悠はアイスコーヒーに口をつけた。
よく考えてみると、千影の私生活についてなにも知らない。機会があるなら聞きたい、という悠の好奇心が、少しずつ膨れ上がっていく。
それを察知したかのように、陸が口を開いた。
「千影ちゃん、学校でよく本読んでるよね。なに読んでるの?」
「え、ああ、あれ? 結構ランダムなんだけど、女性作家の作品とかかな。図書室大きいし、いろんな本あるから借りてきてるよ」
「へー、今度オレにも教えてよ。読んでみたいなぁ」
「うん、いいよ」
面白くない。そういえば、陸は千影のそばにいるように言われて月ノ宮学園高等部に入学していた。
それならば、四六時中、彼女の近くにいるのだろう。
「悠は、趣味まで行かないにしても好きなことないのか?」
陸のように話し掛けてくれればいいのに、とは口に出さない。
すっかり男勝りの口調に戻ってしまった千影に、悠は少しがっかりしながら答えを返すために思考する。
自分にも好きなものはあっただろうか。高校生くらいまではひたすらあらゆる武術系統に打ち込み、強くなることだけに心血を注いできた。
女性は寂しいという気持ちがあったからこそ抱いてきただけだ。それは趣味とは違う。
自分には、なにもないのだろうか。
黙り込んでいる悠を見て、千影は慌てた。
そんなに考えさせるつもりで問うたわけではないのだ。
「い、いや、多趣味だと浅く広くになるもんな。陸くんは?」
アッサリ回答権がずらされてしまったことに驚いた悠は口を開こうとしたが、最終的にはなにも言わず陸の回答を待つことになる。
特に思いつかなかったし、これ以上会話が盛り上がることもないだろう。
「オレかー。写真かなぁ。結構旅してたから、色んなところに身一つで行ってさ。今度兄貴と千影ちゃんも家においでよ、アルバム見せるから」
「本当? きっと綺麗な写真なんだろうなあ」
「お待たせしました」
店員が歩いてきて、メニューをテーブルの上に並べていく。全て揃ってから、少しは全員で黙々と食事を摂り続ける。
また会話のタイミングを失った。
残り少なくなったとき、千影がふと口を開いた。
「……あの、悠、陸くん、その……真面目な話、していいかな」
最後の一口を飲み込んだ陸は、そっと表情を崩す。
「いいよ。気になってることがあるんだよね。ね、兄貴」
「……構わない」
悠は残り一口というところだったが、フォークを置いて紙ナプキンで口元を拭う。
千影の中では、ずっと気になっていることがあった。それを相談できるのは、この二人だけだ。
「……陸くん、私、涼子さんに『氷蒼に来い』って言われたの。貴広さんから命令が出たとして……二人とも、私があの組織をぶち壊せると思う?」
食事後には、相当重い話だった。悠はコップを持ったまま千影を凝視し、陸はフォークを皿の上に落とす。何を考えているのかさっぱりわからない。
「ちょ、ちょっと待って、それは、どういう、え、行こうと思ってるの?」
陸の表情が青ざめている。悠も、できることなら失神したかった。あれだけ止めているというのに、何故言うことを聞かないのか、それを聞いてどうしようと思っているのか。
全く双子二人には、読み取れなかった。
千影はオレンジジュースをストローで吸ったのち、聞こえるか聞こえないかくらいでため息をついた。もちろん、隣の悠には聞こえている。
「そういうわけじゃないけど……貴広さんなら、きっと確実にできるよう、そういう作戦の立て方すると思って。私、強くなったから、貴広さんの役に、立てるんじゃないかと思って」
悠が見てみれば、テーブルの下のその手は震えていた。
覚悟がしたい、という意味合いなのだろうか。陸も悠も、なんと答えていいかわからず、黙った。
だけど何かは返さなければいけなくて、選ぶ言葉ひとつひとつを限界まで考える。
どう答えていいかもわからないが、彼女の実力は確かに成長していた。
ずっとペアを組み続けてきた悠だからこそ、言えることだ。
「強くはなってる。役に立てるとも思う。だが、そんなことしてみろ。俺も陸も、黙っちゃいねえぞ。勝手な行動は、絶対にするな」
真剣な、少し怒った声になるように意識して、悠は更に釘を刺す。
こればかりは陸もひたすらに頷いていた。
「そうだよ、アイツの目的はわからないんだよ。千影ちゃんが危ない目に遭うとか絶対絶対絶対、ダメだから」
二人でこれでもかというくらいに念を押すと、千影は優しく笑った。その笑みは嘘をついているときの顔だと、悠は美亜を見て知っていた。
――コイツは、氷蒼に行こうとしている。
なんとしてでも、止めなければならない。悠はそれだけを考えて、最後の一口を飲み込んだ。
冷房の風が、いやに冷たかった。
第15話へ続く