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永遠の紅蓮

第13話 波原貴広という人間


 波原と涼子が会うという、当日だった。
 樹が情報を持ち帰ってきてから、波原と樹の二人は地下の訓練室にこもりっきりだった。
 千影はそんな二人が心配で、朝早くから紅蓮に顔を出していた。淹れたてのコーヒーを樹の座っている場所に置くと、疲れた微笑みが返ってくる。
「ありがと」
「うん」
 今度は貴広の横に立ち、コーヒーを渡す。礼を言って口に含んで、大きなため息をついていた。疲れてもいるのだろうが、それよりも状況が良くないのだろう。
「……あまり、良くないのでしょうか」
「人数が増えているな。今までの倍だろう」
 波原は背もたれに体重をかけてこめかみを揉む。
 樹から昨夜来たメールを読んだところ、二人共徹夜のはずだ。疲れるのも当然のことで、何か食事を用意したほうがいいのかと考える。
「あれ、いねえと思ったらこんなとこにいたのか」
 千影が真剣に悩んでいるところを、ノックもせずに入ってきたのは悠だった。あくびをしながら波原の元へ歩いていき、横に置かれた紙の束を勝手に取り上げる。
 波原は慣れているのだろう。怒りもせずにコーヒーを飲み、目を閉じていた。
「……ふぅん」
 あまりにも突然出てきたのでびっくりして見上げていると、悠と視線が合い軽く微笑まれる。
 今までのこともあり、彼が自分に対して好意的という部分に対しては疑いの気持ちが出てきてしまうのだが、最終的に悠が何を考えているのかはわからない。
「何とかならねえ数字じゃねえけどなぁ」
 貴広に書類を返してから、悠は近くにある椅子の上に腰掛けた。その表情は、昨日会ったときよりずいぶんと穏やかだった。
「どうすんの、貴広。今日だろ」
 決めかけているようなそんな顔で波原は数秒黙りこんだあと、意を決したかのように口を開く。
「悠、お前……夜は?」
「空けてある。こんなときのために俺がいるんだろ」
 足と腕を組んで、悠は波原をまっすぐ見ていた。
 悠と波原の間には、数年の付き合いがあって、信頼関係がある。だからこそ通じるものがあるのだろうと、千影はそう考えていた。
 もし自分が弱い存在だったら、ここで待機することを選んでいた。だけれど、少なくとも悠との呼吸は合うし、波原を護れるという自信がある。
 千影は必死に悠へ合図を送ると、彼はすぐに気づいた。「わたしもつれていけ」と口の形を動かすと、あからさまに悠の顔がしかめられた。
 軽く首を横に振り、悠が却下の合図を出しているにも関わらず、千影は悠を睨みつける。頑として引かない。
何度か視線だけで応酬を繰り返した後、悠が少し視線をそらし、大きな溜息が聞こえてきた。
「……貴広」
 いかにも渋々、といった様子で、だ。しかし千影も引くわけにはいかなかった。
 波原は悠の声に振り向き、怪訝そうな表情をしている。
「千影も連れて行かねえか」
 紙をひたすらめくり、キーボードを打ち続けていた樹が、顔を上げて無言で悠を振り返った。
 本気か、とでも言いたげな視線だったが、悠はただ首を横に振るだけだ。
 波原が千影の前に立つ。自分よりもずっと背の高い彼に、面と向かって立つのは久し振りだった。その目には、心なしか威圧感を覚える。
「高柳も確実に来るぞ、千影」
「大丈夫です。私は前より……ずっと強くなってます」
 即答した。
 怖いとも思う。行きたくないし、できることなら戦いたくない。
 だけどそれが、波原の役に立てるなら。
 状況を変えられるなら。
 波原は自分が退くことがないと判断したのか、しばらく黙考したあとに口を開いた。
「……やむを得ないか。何より女性がいるほうが、油断を誘える。奴らは君に油断してるからな」
 ならば、自分にできることはその隙を突くだけだ。
 死にたくはないと思うけれど、波原を守って死ぬのならば、それもまた納得できるとそう思う。
 千影は強く頷いて、彼の瞳をまっすぐにみつめた。
「やらせてください」
「……いいか? 樹」
 苦笑いをしながら波原は、樹の方を見やる。
 樹ならきっと、賛成してくれると思った。今まで散々波原のことを相談し、そして愚痴を聞いてくれたのだ。
 波原の言葉に振り返った樹はクールな表情を彼に返してから、パソコンに向き直った。一度止まったタイピング音が、また聞こえてくる。
「おれはサポートができるならそれで」
「ずいぶんアッサリだな」
 波原のためになるなら、とそれだけで行動している千影を、樹は笑ったりしなかった。だからこそ、反対しないとわかっていた。
 自分でそこを、ずるいと思う。
「全体を見るのが、おれの仕事です。そのために使える人間を使わないのは――おれの主義に反します。寝ます。上使っていいですか」
 端的にそれだけを口にして、樹は立ち上がった。
 その平坦な口調からは、本当にそう思っていることがよくわかる。ありがとう、と心の中で礼を言った。
 樹は波原に資料の紙を渡して、そのままドアの方へ向かう。徹夜のせいか足取りがふらついているが、上まで行けないほどではないだろう。
「ご苦労だった。後で昼食を買ってきておく、寝ててくれ」
「はい」
「樹!」
 色々な感情を込めて彼を呼ぶと、樹は振り返って微笑んだ。
「……頑張れ、千影」
 樹は大きな欠伸をしてからコーヒーを飲み干し、ドアを開けて階段を上っていく。
 部屋に残ったのは、千影、悠、そして波原の三人だ。
 何を話したらいいのかわからない不安感にかられて、悠を見やる。そもそもこの三人になる機会が、あまりなかったような気がした。
 何か話題がなかっただろうかと辺りを見回していると、唐突に波原の声が聞こえる。
「悠。陸の様子はどうだ」
「二日、三日は安静だそうだ。病院で大人しくしてくれてる方がありがたい」
「え?」
 二人が話している内容から何があったのか想像はつくけれど、知らされていなかったことに驚く。
 困惑した顔の千影に気付いて、悠が口を開いた。
「ああ……陸、あいついま病院にいるから」
 まさか、氷蒼の奴らに重傷を負わされたのだろうか。もしそうだったら麗奈は一体どうしたのだろう、もしかして麗奈まで巻き込まれたのではないか。
 一気に頭の中を不安が埋め尽くして、悠の腕をつかむ。その様子に悠は驚いたようで少しだけ目を見開くが、すぐ冷静に説明してくれる。
「どこか怪我したの!?」
「森谷と棗さんの氷蒼侵入に、護衛で向かって怪我をしたそうだ。帰り迎えに来た麗奈ちゃんに治癒してもらったが、途中で麗奈ちゃんの力が尽きたらしい」
「そうなんだ……」
「じゃあ俺、病院に寄ってくる」
「ああ。何かあったら連絡する」
 痛くはなかっただろうか。
 千影は心配になって、背を向けた悠の腕をつかむ。
「待って、私も……」
 悠についていくことに対して、他の理由もあった。いま波原とふたりきりになったのなら、何を話していいのかわからない。
 なのに悠はどこか怒ったような表情で、耳打ちをする。その吐息が妙に熱くて、ぴくりと反応した。
「阿呆、俺が席外せばしばらく二人になれるだろうが。いいから貴広と話せ」
「あっ、う、うん……」
「よし」
 コーヒーショップの件といい、女子会のときの会話といい、自分より他人のために行動するような女だ、
 無理やりでもなければ一生進展する様子がない。
 そういった考えで悠から出た言葉なのだが、千影はどうにも不安そうだった。しかしここまで面倒は見ていられない。あとは自分でなんとかしろという気持ちを込めて、黙って外に出る。
 煙草が吸いたい、と思った。カバンの中には、三泊分の服が入っている。これから陸の下着も買いに行かなければならない。
「……俺、どう考えても不毛だよなあ」
 誰にも聞かれないように口を開いて、悠は知らされた病院に向かうことにした。

 陸は電車で二駅ほど離れた、星ノ宮駅近くの病院にいると連絡を受けていた。
 電車に乗ってぼうっと外を眺めていると、一人の女性が話し掛けてきた。
「これから旅行ですか〜?」
 馴れ馴れしく腕に回された手を優しく振りほどき、笑顔を浮かべる。
「急ぎの用事なんで。すみません」
 至極残念そうにしながら去っていく女性の背中を見送ってから、悠はまた窓の外に視線を移す。
千影は、上手く会話をできているだろうか。
 蓮は、いつから千影のことを見ていたのか。
 それらの感情に全く気付いていない千影は、相当の鈍感だ。
 彼女が、貴広から誰かに心変わりをしなければ、すぐに奪われる心配はない。。
 それでも、いま自分がとっている行動は、なんの誠実さもない。
 どうすれば、好きになってもらえるのか。
 関係の解消を申し出たところで、彼女は一直線に波原に向かっていくのは目に見えている。叶わないと知っていてなお、彼のことを好きでいようとしているのだ。
 女性との関係を、切ろうと思えばいつでも切れる。それだけの付き合いと割り切っている。だが、千影は自分がそういった付き合いをしていることを知っているのだ。彼女の性格から考えれば、今の関係は相当譲歩されている。
 麗奈に誠実に向き合えという言葉が、深く、重く悠の心に刺さった。麗奈とも割り切っていると思っていたが、彼女はそうでないらしい。
 アリシアに会うとは思っていなかったのだ。
 よしんばアリシアが生まれ変わったとしても、国が同じとは限らない、自分に近しいとも限らない。自分のことを覚えているのかもわからない。
 だから会わないのであれば、それでいいと思っていた。
 なのに今、自分の相棒として千影は隣に立っている。まるで過去の、あの時のように。
 十分ほどの道のりを全て千影のことに費やしていると、すぐに星ノ宮駅に到着する。
 改札口を出て、すぐの病院だった。
無言で歩いて病院にたどり着き部屋の番号を尋ねようとしたところで、椅子に腰掛けて陸がテレビを見ているところに遭遇した。
手にはお菓子を持ってひたすらに小さな子供と再放送の特撮ものを見ている。
「うおー、りくにいちゃんあのわるもの、つよいな!」
「いやいや強いやつには弱点がある、見てろ、少年」
「おれもひっさつわざだす!」
 ロビーであるためか、看護師は微妙なしかめ面をしている。
 悠は間髪入れずに陸の頭を殴り、ナイフのように鋭い視線で弟を睨み付けた。
「いだっ、うわっ、兄貴!」
「なにしてる、二十歳。見舞いに来て損した」
「えっ、お見舞い!?」
 そう言うと慌てて陸は立ち上がる。
 子供たちが陸の足にまとわりついてくるが、必死に謝って追いやったあと、彼は悠を見た。
 完全に腰の引けている表情だ。
「い、いや、まさか兄貴が来てくれるなんて微塵も思わなくて。と、とりあえず部屋行こう」
 陸は慌てて歩き始めた。心配していたよりもよほど足取りはしっかりしていて、やはり千影を連れてくるまでもなかったと、少しだけ安心する。
 移動先はエレベーターで五階、一番奥の部屋だった。
 ベッドの上にはお菓子や漫画がばら撒かれている。
 自分の部屋じゃねえんだから、と悠は大きくため息をついた。
「……片付けくらいしっかりしろ」
「いやー、なかなか苦手でさー。あっ、何か色んな人が持ってきてくれたお菓子あるよ、食べる?」
 棚の中にはたっぷりとお菓子が入っていた。あまりの量にとりあえず悠はげんこつで陸の頭を殴る。
「いて! それが病人に対する態度かよー! っつか持ってきたのオレじゃないしー!」
「うるせえ黙れ、お前ほとんど治りかけてんだろ。心配するだけ精神力の無駄だっつうの。着替え持ってきた。俺の服だからあとで返せよ。洗濯しねえで返してきたらもう一回病院送りにするからな」
「全くもー、仕方ないなー」
 バッグを床の上に置いて、悠は椅子の上に腰掛けた。
 渋々陸も散らばる本やらを一箇所に集めて、ベッドの中に突っ込む。そうしてみると、陸は本当に病人みたいだ。
「悪かったな、貴広が無理言ったみたいで」
「んん? ああ、護衛のやつ?」
 あらかじめ買ってあったペットボトルのお茶を渡すと、陸は困ったように首をかしげてから、そのお茶を半分くらいまで飲み干す。
「兄貴が謝らなくてもいいんじゃないのとは思うけどね。おれは元々氷蒼だし、手伝えると思っただけだよ。でもまあ、許す」
「……今日、貴広が涼子に会うそうだ」
 その報告を聞いた陸は、台の上にペットボトルを置いた。
 信じられない、という表情をしている。
「勿論、俺と千影も護衛についていく」
「……高柳は、来るのか」
 陸の雰囲気が、段々殺伐としてくる。
 それを見て、悠は背筋が凍るような思いになった。自分の弟だけあって、普段へらへらしていても、本気で怒るとなると、怖い。
「十中八九、来るだろうな」
「そんなところに、何で千影ちゃんを……」
 陸は青ざめた顔でそう呟いてから、気付いたようにため息をつく。
「ああ、そうか、千影ちゃんは貴広のことが好きなんだっけ」
 陸はベッドに頭を預ける。
 視線はずっと真っ白な天井だ。
 悠が知る限り、陸はその情報を知らないはずだった。それが知られているなら、自分が千影と遊びの恋愛関係にあることも知っているのだろうか。
 恐る恐る口を開く。
「……お前、いつ千影からそれ聞いた」
「ちょっと前にね。あと、この間フラれたし」
「な、何だって……」
 驚いて悠は、思わず立ち上がった。
 彼は何でもないことのように、言うのだ。それは確実に、陸の心に傷をつけたはずなのに。
 どう声をかけたらいいのか悩んでいると、陸は慌てて話を続ける。
「あー、別に勘違いしないでよ。オレはレオとして告白しただけだし、陸としてはまだ好きだよ。だから諦めるつもりもなければ、機会があれば兄貴から遠ざけるつもりだ」
 その視線には、確実何かがが込められていた。自分が何をしているのかわかっているのか、という戒めが感じ取れる。
 椅子に座りなおして悠は、口を開いた。
「……お、俺は」
「わかってるよ、遊び相手に千影ちゃんが最高だと思ってるんでしょ。そこについて俺は兄貴に一切賛同できないから」
「違う」
 自分の声が、やけに病室に響いた気がした。
 陸は、次に出る言葉をひたすらに待った。
 だが、待っても待っても出てこない。
 悠は言いあぐねていた。
 なにをどう説明したらいいか、わからない。
 陸は千影がどんな状態でも愛すると口にした。しかし、悠はそうじゃない。独占したい。そんな気持ちが渦巻いているのなら、これは愛とは違うのではないか。そんな気持ちが後ろめたいから、口を開けない。
「もしかして千影ちゃんのこと、本当に好きなの?」
 静かな落ち着いた声で、陸は悠にその本心を問うた。
 悠は、それでもその先に言葉を紡ぐことはできない。
自分でも情けないと思う。だけど、たった二文字ですら口にするのが躊躇われる。
 十数秒たっぷり待った陸は、急に笑い始めた。
 悠が喉に言葉を詰まらせ、驚いて顔を上げる。
「……笑うな」
「いや、こんな兄貴初めて見たから。いいよいいよ、わかった。まあわかったけど、協力はしてやんないから」
 流石双子の弟、とでも言うべきなのだろうか。千影以上に見透かされている気がする。その言葉を彼女にすら言ってないのに、陸に言うなんて、と思ったのもあるが、ひとまず弟が察してくれて助かったと素直に感謝しておく。
 悠はコーヒーを半分ほど飲んでから、テーブルの上に置いて立ち上がった。そろそろ紅蓮に戻らなければ。
 ドアに手をかけたところで、ひょうひょうとした、それでいて突き刺さるような声が聞こえた。
「まあ、分は悪いかな。最初から素直に告白してれば良かったのにねえ。おれの方が絶対ポイント高いし」
 グサグサと本気で痛いところを突いてくる。
 何も言い返せずに黙っていると、それでも陸が笑った。
「頑張ってみれば。本当に好きなら」
 励ましの言葉だった。悠が顔を上げると、陸は優しく微笑んでいる。
 なにもかも最初からやり直せたら、と思えるほどの感情で、心が焼き尽くされそうだった。
 だけど、陸はこうして言葉をくれる。
 彼もまた、千影が好きなのに。
「……ありがとう。じゃあ、帰る」
「うん、わざわざありがとう、兄貴」
「ああ、また」
 彼女を守りに行かなければ。いや、千影と、貴広を。
 悠はバッグを背負い直して、紅蓮に戻ることにする。
きっと、千影が待っている。

 波原と他愛もない話をするのは初めてのことで、緊張していた。もう一時間くらい、時には無言をはさみながら話しているだろうか。
 話せば話すほど波原の優しさに、惹かれていく。
 ドアの開く音がして顔を上げると、悠が立っていた。どこか疲れているようだが、視線が合うとそっと微笑む。何か、あったのだろうか。
 悠のそばまで走って行き、問う。
「陸くん、具合どうだった?」
「すっげえ元気。菓子食ってたからぶん殴ってきた」
 波原と話していてもどこか頭の片隅で考えていたことが解消されて、安心する。波原に報告しようと後ろを振り向くとすぐそばにいて、低い声が耳の近くで聞こえた。
「陸は」
「あと三日もあれば治りそうだ。心配いらん」
「そうか」
 二言三言、いつ紅蓮に寄れそうかだとか今後の予定を話してから、悠の雰囲気ががらりと変わる。何度も見て知っている、バイトをするときの表情だ。
「今日の話は……どうする、波原」
「……今済ませておきたい。部屋を変える」
「わかった」
 波原がいつも使用している部屋に入り、その高級ソファーに千影と悠は座った。
 悠と肩が触れ合い、少し間を空ける。
 疲れているだろうから、深く寄りかかれた方がいいに違いない。
「ああ、悪い」
「大丈夫だ」
 向かいに座った波原が落ち着いたのを確認してから、悠が切り出す。
「……で、どうする波原」
「呼び出しには応じる。相手がおれを殺そうとしてきたら、殺せ。それだけだ」
 肘掛けに肘を預け、頬杖をついて波原は足を組んだ。  
 それは紅蓮を束ねる頭として必要な威圧を感じさせ、もし自分が氷蒼の人間だったら震え上がっていたに違いない。
「……相手の目的って、一体なんなんでしょう」
 考えても考えてもわからない疑問を口にしたのは、間を保たせるためだけに違いなかった。
 彼は右端の口角だけを上げ、笑顔を浮かべる。
「さあな」
「……千影、やっぱりお前、来ないほうがいいんじゃないか」
 まさかそんなことを言われるとは思わず、千影はその瞳を細めて悠を睨み付けた。
 悠からしてみると、また前世のような結末になるのではないかという不安があったからなのだが、千影にそれを察することは若さゆえにできない。
「今更なにを言っている。あまり馬鹿なことを言うと怒るぞ、悠」
 妙に迫力があって言い返せず、悠はため息をついてまた波原を見る。
「……悪かった、俺の心配が過ぎた。貴広も千影も、もし俺が殺されたらすぐ逃げろよ。氷蒼のトップと高柳まとめて二人相手できるほどの能力ねえんだろ」
「縁起でもないこと言うなよ、相棒」
 波原は肩をすくめて、そのまま視線をそらした。逃げるつもりは、ないのだろう。
 時間は刻々と、進んでいく。

 午後十一時が、佐原涼子の指定してきた時間だった。
 場所は人の気配が感じられない、工場の跡地だ。
 殺し合いがあっても発見が遅くなるに違いない。
 波原が運転する車に乗りながら、千影はひたすら無言でいた。
 悠も話すことはなく、ひたすら窓の外を眺めている。
 夜は更け始め、視界には夜空の黒が広がっていた。
 十時半の段階で到着し、悠が先に降りて周囲の気配に涼子たちがいないのを確認してから、千影と波原を降ろさせた。
 不気味だった。
 周囲には廃材や、誰かが置いていったと思われるゴミなどが散乱している。
 風は少しもそよいでおらず、空気がどんよりと淀んでいるのがわかった。
 千影は波原を守るようにして、神経をあちこちに張り巡らせる。
「……来てねえな」
 悠がぽつりと呟いて、その言葉にただ頷くだけだ。
「時間通りに来るかどうかもわからんな」
 冷静に答えたはずである自分の声は、緊張のせいかかなり固い。
 ましてや、高柳も来るのだ。少しの隙も見せるわけにはいかないんだと、警戒を続ける。
 悠はできるならば、千影に戦わせたくなかった。
 だがそれは同時に、彼女の戦力を信頼していないということにもなる。
 悠が彼女を好きだという、決定的なことを千影が知らなければ。
 そのまま三十分、張り詰めた時間が過ぎていった。
 午後十一時五分。周囲の気配が動いて、悠はその方向に視線をすぐに移した。
 波原より、三メートルほど後方だ。
 赤いスーツを着た、佐原涼子が立っていた。
 傍らには、高柳とあと二人、男がいる。
「……遅刻だぞ」
 煙草に火を点けて、後ろも振り返らずに波原は話し掛けた。悠と千影は姿を変え、彼を守るように立つ。
「おや、そこまで時間に厳しい男だったかな、貴広」
 涼子はまず、千影を見た。
 その蛇のように這う視線が息苦しく、千影の喉を締め付けようとする。
「つれないな、せっかくのデートに護衛を連れてくるとは」
「お前こそ、横に何人かいるだろう」
 煙を吐いて、波原はようやく涼子の方へ向き直った。
「二日ぶりだな」
 その言葉に耳を疑ったのは、波原側だった。
 あくまで悠は手紙を渡しただけで、その後、波原がなにをしているかは知らない。干渉する意味はない。
 だが、彼がそう言ったということは、波原は二日前に涼子に会ったのだ。
 千影は状況が理解できないまま、波原を守るという任務を全うするためにフェニックスを構え続ける。
「ああ、そうだな」
 笑って涼子は、高柳を見る。
 高柳は喉を鳴らして笑い、また涼子は波原へ視線を移す。
「今日はそう悪くない話を持ってきた。こちらの要求から言わせてもらおう。高里千影を氷蒼に寄越せ」
 千影の呼吸が止まりそうになった。
 そして横で、悠が怒りに拳を握る。
 波原は冷静なままで、涼子を睨み付けた。
「千影は紅蓮のメンバーだ。渡しはしない」
 ハッキリとそう答えた波原に、千影が安堵を示したそのときだった。
「高里千影をこちらに渡せば、氷蒼の情報を全て君にあげるよ、貴広。高里千影の能力と、氷蒼の情報は対価になり得る。どうだ、小娘一人で得するだろう」
 横で千影が揺れるのを、悠は感じ取った。
 自分が氷蒼に行くべきか、迷っている表情だ。
「……行くんじゃねえぞ」
 小声で話しかけると、千影は歯を食い縛ってそれに答える。
「貴広さんの指示がない限りは、行かない」
「千影」
 じっと何かを耐えるようにして、千影は前を見据えている。自らの気持ちでどうなる問題ではないと、自分でもわかっていた。
「断る」
 波原がもう一度そう告げると、涼子は彼を憤怒の形相で睨み付けた。
 彼は動じもしなかったが、千影はその鬼気迫る表情に、ぐっと後ずさりしたい気持ちをこらえる。
 また嫌な沈黙がしばらく流れてから、諦めたように涼子の表情が歪む。それは微笑みと混ざり合い、狂気を生み出している。
「……元恋人に、少し冷たすぎるんじゃないのか。一昨日、キスまでしたのに」
 頭をコンクリートで殴られたのなら、きっとこんな感じだろうというレベルの衝撃に、精神がぐらついた。
 いや、それよりも――いま考えるべきは波原の身の安全だ。
 波原はすっかり短くなった煙草を携帯灰皿の中に入れ、何でもないことのように答える。
「話はそれだけか? 交渉は決裂だ、これ以上なにか言うなら――」
 悠と千影が、剣を構え直して一歩前に出た。
 彼の隣に立つ自分の手は、震えている。
 それでも、表情を一切崩しはしなかった。
 涼子は笑って、高柳の肩を叩いた。
「仕方ないな。帰るぞ、仁」
「少しくらい遊ばせてほしいんだけど」
 まだ幼さを残す甘えたような声で口にする高柳に、涼子は冷たく言い放つ。
「遊んでいる暇はない」
「ちぇー。じゃあ、仕方ないから我慢しようかな」
 残念そうに唸ったあと、高柳、そして涼子は忽然と消えていった。
 何分か経ってから、悠と千影はようやく剣をしまうことができたのだった。
「……行ったか」
 波原は息をつき、車のドアを開ける。
「帰るぞ」
「はい」
 助手席に乗り込んでミネラルウォーターを口にするが、心臓の鼓動はなかなか落ち着いてくれなかった。
 緊張がとけるほど、頭の中が真っ白になっていく。
 ただひたすらに、涼子の残酷な言葉を脳内で反芻していた。
 苦しいのに、その思いを伝えられる人間はいなかった。悠はそもそも、自分を遊び相手として認識している。だからこそ、少しだけ信頼できるかもとは思っても、生きている上でできた悩みを、ましてや恋愛相談なんてできるわけがない。
 誰にも頼ってはいけないのだと、ただそう思う。


第14話へ続く


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