聖騎士の忠誠

第3話 白銀と漆黒


 波乱の午前中といっても過言ではないほどの試験だった。
 午後に実技試験を控え、王城にて仕事を得たい志願者たちはここでようやくひとときの休息に身を委ねられる。
 男性用・女性用と二つの休憩室が調整され、毛布や水、果物など、存分に次の試験に向けての準備をすることができるのだ。
 フレイヤとベアトリスはオリヴァー、レーンと別れたのち、女性用休憩室に向かおうと歩みを進めていた。廊下の調度の一つ一つが美しい輝きを放っているにも関わらず、そのどこかしらの宝石が欠けているのは、きっと不自然でない程度に国王が金貨に変えているのだろう。
 先程の大きな食堂から玄関へと戻り、今度は食堂よりも更に広い部屋へと案内される。
 くるぶしまでほども埋もれそうなくらいふかふかな絨毯の上に、鎧も脱ぎ捨てて休息を堪能する女性志願者たちの姿がある。
「あら……」
 ベアトリスは感嘆の息を吐いて、部屋の中に足を踏み入れようとした。
 フレイヤも、できればここで最低限の疲労を取り除いておきたいと後に続く。
「ああ、えーと……フレイヤ・エーベルハルト殿?」
 自らの名を呼んだのは、顔も名前も知らない兵士の一人だ。何やら羊皮紙を持って、フレイヤの顔とその紙を交互に見比べていた。
「……はい、私が確かにフレイヤ・エーベルハルトですが」
 何か問題を起こしただろうかと考えて――その考えを、考えなかったことにする。
 朝の宿屋事件といい、何かとどこかで起こしている気がしていた。
 しかしこの段階で兵士に声をかけられるようなことをしたのだろうか? 全く思いつかない。
 ベアトリスも不思議そうな表情を浮かべて、足を止める。
「フレイヤさん? どうかいたしましたか?」
 彼女も話に入れていいのか、そういった意味を込めて兵士に視線を移す。
 彼は『どうか彼女は話に入れたくない』と必死の感情をこめてくる。
「ああ……いいえ、ベアトリスさん、先に休んでいてください。どうやら先程の筆記試験会場に忘れ物をしたようです。取りに行ったのち、横で休ませていただきますので」
 元々自分が単純だと認識しているため、つける嘘はこれが限界だ。これ以上に何か策を張り巡らせよう、人を騙そうとすると、必ず大きな綻びが出る。……これも、神父に鍛えられた上で『才能がない』と断言された能力のうちの一つだった。
 ベアトリスは一瞬怪訝そうな表情を浮かべるが、了承したのか一礼をして部屋の奥へと向かっていく。
 さて、ここまでで自分は何一つ、聞いていない。
 フレイヤのあとには誰もいないのか無人の空間が続くばかりで、ひとまず、と兵士が休憩室の扉を閉める。そして限りなくわきの方へ移動して――一言。
「フレイヤ殿、せっかくのご休憩の前に申し訳ございません。ええと……朝に宿屋で、しれ者を撃退されたとか」
 息と心臓と血液と、気と思考と、ありとあらゆるものが止まったかのような感覚が身体へと覆いかぶさる。
「げ、撃退といえば……ええ、そのような、感じのことを」
「その件で、話を伺いたいとおっしゃる方がいまして。一応任意ではあるのですが、ご同行を願えないかと思いまして」
 任意も何も、一兵士が「断ってくれるなよ」のような表情を浮かべて恐る恐る打診しに来るほどだ。よほど身分の高い城の人間に呼び出されているに違いない。
 最初から拒否権はないはずだが、それでも一応、意思だけは聞いてくれるらしい。
「……いえ、行きますよ。ただできるだけ手短に切り上げられると嬉しいです。休息の時間は大事なものですから」
「はっ、ご協力いただき感謝します! そうですね……おれも試験のときの休憩は寝こけていましたし……できるだけ、善処します。では、こちらへ」
 兵士は微かな私情を交えながら苦笑いで、目的の部屋まで案内してくれるようだった。
 特に交わす言葉もなく、階段を上っていく。
 階段を上っていく。
 階段を上っていく。
 この城の一階も二階も豪華なものだが、更にきらびやかでまばゆい調度品やシャンデリアが増していくのを横目でちらちらと確認していた。
 フレイヤは薄々、勘付き始める。
「……あの、すみません」
 更に二度ほど階段を上り、そうして恐らく長い長い廊下の中央ほどに位置する扉の前にいる騎士を見て、絞り出すような声がフレイヤから出てきた。
 兵士は直前で振り返り、悪気のない笑顔でヘルムの後頭部をカンカンと叩く。かいているつもりなのだろう。
「実は伏せてほしいと頼まれまして……誰が聞いているかわからないものですから。ではバルド殿、あとはお任せしても?」
 振り返る兵士の肩ごしに、その冷たく凛々しい表情が見えた。
「助かった、感謝する。あとで陛下から提示された条件通り、最高の美酒を部屋に届けよう。職務に戻って構わん」
「はっ! では、失礼します!」
 がしゃがしゃとアーマーが去っていく音がする。
 フレイヤは何も言わず、何も言えないままその男をぼうっと見つめていた。
 冷たさを感じさせる切れ長の瞳は黒曜石のように深く、底の見えない色をしている。
 同じくらい艶やかな黒髪を襟元で整え、面長の彼には静寂がまとわりつく。
「……フレイヤ」
 全く知らない男の声に、一瞬だけ心臓が跳ねた。
 いや、知らないはずがないのだ。
 数年前、同じように王都へ向かう彼の声は確かこんな感じだったはず。
 重低音の声が、たくましくなった身体が、黒を基調とした騎士服が――何より、思い出の中の面影が、彼をバルドだと理解させる。
「え……え、バルド? 本当に?」
「国王陛下の側にいるのが俺以外だったら大問題だ。久し振りだな、フレイヤ」
 バルドは昔から表情の変化には乏しいところは変わっておらず、人格に寄っては大喜びの表現をしそうな言葉でも、終始無表情だった。
 しかし言葉の端々に、フレイヤしか、エリオットしかわからないような嬉しさがほんの少しだけ伝わってくる。
 よくわからない人間に試験の最中、自分がしでかしたことについて呼び出される不安は瞬く間に溶けていた。
「うん……久し振り。大きくなった?」
「国王陛下に大量に詰め込まれるからな。フレイヤこそ、いい筋肉がついたな」
 この言葉にも全く感情という感情が込められていないため、怒りどころがわからない。むしろ純粋に褒められている可能性だって考えられる。
 どう反応を返すのが正解かしばらく考えて、そして諦めた。なにしろ会うこと自体が数年ぶりだ。のりだって変わっているかもしれない。
「ありがとう、まあそりゃあ、少しはね」
「手合わせを後ほど願いたいくらいだ。で、本題だが率直に言う。国王陛下が話をしたいそうだ」
 バルドが何度も国王陛下と連呼しているが、その正体は幼馴染のダークだ。
「……今朝の件、バルドも知ってるわけ」
「概要だけだな」
「もうちょっとかっこいい話題を先に入れたかったなあ……」
 食事を邪魔されて堪忍袋の緒が切れ、その場にいた志願者たちと不届き者を撃退したなんて、フレイヤにとっては恥ずかしいことこの上なかった。
 まるで食い意地が張っているようではないか。
「その辺りとは別件だから気にするな」
 がっくりとうなだれていると暖かい感触が頭の上に乗せられて、無意識の内に鼻の奥がツンとする。
 顔を上げれば、バルドが自分の頭から手を離し、扉をノックするところだった。
「陛下、志願者フレイヤ・エーベルハルトを連れてまいりました」
「ああ、入れ」
 心の準備をしたい、とバルドに言う前に、厳かな木の軋む音を立てて扉は開かれていった。
「……ダ、こ、国王陛下、本日は、お、お招き」
 話そうと思っていたことがたくさんあった。
 神父もシスターも年々老いていってるのに、強さは微塵も変わらないこととか。
 ダークの両親が息子によろしく、たまには帰ってくるのよと自分の娘のように見送ってくれたこととか。
 けれど、何もかもが再会の淡い恋心に溶けてゆく。
「何だ、フレイヤ。オレの部屋に来てまで、気にしなくてもいいんだよ」
 春の風を思わせるように暖かな声がフレイヤを迎える。
「……陛下。せめて扉を閉め切ってからにしてください」
「えー、お前も言葉遣いを改めなくていいって言ってんだろ、バルドー」
「……ほら、フレイヤ。入れ」
 緊張で地面にはりついたままの足が、ようやく一歩だけ前に進む。
 ダークの銀髪が日光に透かされ、きらきらと光っていた。
 バルドに軽く背中を押されて、完全に部屋の中へと足を踏み入れていた。木のぬくもりを感じさせるような落ち着いたブラウンを基調とした部屋の真ん中に、これまた大きな机がある。椅子の背もたれは遥か高く、そして机上に置かれている書類も更に高く。
 椅子から立ち上がった国王ダーク・メイスフィールドは、そのままゆるやかにフレイヤの前へと歩いてくる。
「……国王、陛下……」
「ダークでいいよ、フレイヤ。よくここまで来たな。神父の試験は地獄のようだったろう」
 灰色の瞳が、どこか遠くを見つめていた。一瞬だけその容赦のない試験を思い出して気絶しかけるが、こんなところで倒れている場合ではない。
 せっかく、ようやく、初恋の人に再会できたというのに。
「フレイヤ、わかっているとは思うが国王陛下を名前で呼べるのは今、このときだけだからな」
 城に入り、謁見する前に会えるなど夢のような話だった。もちろん、入れるかはわからないが兵たちの目の前で国王を呼び捨てにするなんてことは不敬、死罪にも等しい。こくこくと何度も頷いて、改めてダークを見上げる。
 彼は白地に金のラインが入り、裾の広がった騎士服に身を包んでいた。
 国王であり、国を守り続ける騎士団の頂に立つ人、彼しか持ち得ない称号「神騎士」は絶大なる力を持っていた。
 曰く、エイデンのように愚王でもなければ、武芸にも知略にも長け、常に公平であり続ける賢王であると。
「ダ……ダーク」
「よしよし。んじゃあバルド、お茶を淹れてくれ。最高級の、フレイヤが飲んだことのなさそうなもので頼む」
「……わかった、観念する、ダーク。三十分だ。三十分だけ話していい。だからあとは実技試験までフレイヤを休ませてやるんだぞ」
 本来はその【用件】を話すだけの時間だったのだろう。長いため息のあとにバルドは自らを納得させるように呟き、ポットと茶葉の入った缶の並ぶ場所へと歩いていった。
 ……すごい。本当にここで、ダークは国王をやっているんだ。
「そこのソファーにかけてくれ。あの階段を登ってきたんだ、疲れてるだろう」
「あ、ありがとう」
 指し示された豪華な模様の入っているソファーに座ると、柔らかすぎて城下町の飲食店とは全く違う感触に慄いた。
「や、やわらかっ……!」
「来客用のソファーだからな。それくらいならオレも処分はしないさ」
 ダークは向かいに腰掛けて、やおらフレイヤの顔を、目を、真っ直ぐに見つめた。
 あの頃から、数年は経っている。ダークが村を出たのは十八のときで、フレイヤはまだ十二歳だった。
 その視線が何を意味するものなのかはかりかね、思わず視線をそらす。
「でっかくなったなあ、フレイヤ」
「それ女性に言う言葉じゃないよ……」
「はは、でもオレが村を発つときの記憶しかなくてな。……黙って出ていって、悪かった」
 語尾が消え入るように弱気だった。それに異変を覚えダークへと目を向け直せば、懐かしむような灰色の瞳が急に伏せられ、頭を下げられる瞬間だ。
「ちょっ……と、国王が、そんなに簡単に謝ったら、ダメだって!」
 それでも『気にしないから大丈夫』とはすぐに答えられない。彼がフレイヤとバルドに黙って村を出ていったことは少なからずフレイヤに傷と寂しさを残し、遠くで彼が国王になったことを知らされたときのショックも相当だった。
 国王の座についたことがショックだったのではない。打ち明けられるまでの関係を築けなかった自分に悔しさを覚えているとわかったのは最近のことで、それまではただただ寂しさが原因だと思っていた。
「いい、フレイヤ、謝らせとけ」
「バルド……」
 目の前に透き通った紅茶の入ったカップを置いてダークの側にバルドが控えた。彼はまだ、頭を上げない。
「……あのあとバルドが城に来るなんて思ってもいなかった。その上、フレイヤまで……」
「あ……ええと、私もバルドも、自分がしたいことのために来ただけだから。大丈夫、だから。頭、上げて」
 ダークが恐る恐る顔を上げ、それでもまだ不安そうだった。
 一国の王ともあろう人間が、こんな、城に入る志願者に頭を下げるなど――と、怒る人は怒るのだろう。
「……ありがとう。お前、強くなったなあ」
 ふ、と、ダークの表情が微笑みに彩られた。かなり厳しく王としての振る舞いをしてくるのだろうと覚悟していたのに、いまだ幼馴染の初恋のお兄ちゃんだ。
「実力が伴うのなら、いつかダークのそばに行きたいと思ってるから」
 ソーサーからカップを手に取り、ありがたくそっと口に含む。優しい香りが鼻から抜け、温かさが喉を通っていった。
 加えて渋みもほとんどなく、紅茶としては一級品のものなのだろうと詳しくなくてもわかる。
 確かにこんな上品なもの、村では飲んだこともない。
「それで、聞きたいんだけれど。わざわざ数年ぶりの再会ってだけで呼んだんじゃないんでしょ?」
 束の間の休息で緩んでいた気持ちを引き締める。雑談以外の何かがあることは明白で、それは話を切り出した瞬間のダークの表情が最も顕著にそれを語っていた。
 一人の個人としての感情を押し込めて、彼の背筋が伸びる。その高貴さは確かに王たるものに必要な素質だろう。
 フレイヤも思わずつられて、姿勢を正した。
「……そうだな、名残惜しいがこの辺りにしておくか。バルド」
「はっ」
 バルドが恭しく頭を下げ、何かを探しに奥へ向かう。
「フレイヤ・エーデルハルト。貴殿は今朝、宿屋にて我が国の不届き者を粛清してくれたと聞いた。間違いはないか?」
「はい」
「そしてその場に、オリヴァー・ロックウェル、ベアトリス・レヴィ、レーン・クロムウェルの三人がいた」
「ええ、確かにおりました」
 ダークは淡々と事実だけを確認していく。一体彼が何を聞きたいのかも明確にならないまま、怒られるためだけに呼び出されたのではないと、それだけは理解できた。
「私が貴殿に頼みたい用は、これだ」
 バルドが横から差し出す紙を見て、フレイヤは目を見開いた。
 そこに描かれているのは紛うことなき赤毛の男。
「……オリヴァー……?」
「正解だ。単刀直入に伝えるが、その男、素性が一切不明なんだ。貴殿には、ロックウェルの調査をお願いしたい」
 脳内に疑問が増えるだけ増えていく。
 素性が知れないというのはどういうことなのか。
 それがなぜ、自分に任されるのか。
 むしろまだ志願者の身であり、城の内部事情に干渉していいのか。
 適切な切り返しをすることができず動きを止めていると、横からバルドの声がかかる。
「どうしてお前なのか、という点に於いては許してほしい。出自もはっきりしていて、俺たちが信頼の置ける人物である、という条件が第一だった」
 普段、あるいは別の機会に聞くことができればもっと嬉しい一言だったが、話の流れが不穏すぎて喜ぶまでに至れない。
「本来城は多くの志願者たちを、能力があるなら――と迎え入れてきたのは貴殿も知っての通りだ。しかし最近、隣国といい、国内といい、少しキナ臭くなってな……取り分け戦闘技術は格段に高い男らしい。オレとしては、寝首をかかれる前に始末しておくかどうか判断する必要がある、ということだ」
 宿屋で助けてくれた姿を思い出す。筆記試験後の昼食で、何も言わずレーンの横に座って食事を始めた姿を思い出す。
 村での人間関係しか築いてこなかったから、もしかすると甘いのかもしれない。
 フレイヤから見たオリヴァーには不審に思う点もなく、ただのがさつで乱暴かつ不器用な同年代の青年、というだけだった。
「お断りします」
 勝手に口から出てきた言葉は自身も驚くほどに部屋中に響き渡った。目の前でバルドの表情が僅かに揺らぐのを見やって、やっぱりそんな反応にもなるよな、と他人事のように思った。
「それは――なぜだか、理由を聞いてもいいかな」
「私はまだこの城へ所属していません。仕える主が国王陛下であると決まればその命を受け入れることも勿論ですが、今の私はただの志願者です。それこそ、バルドに調査を依頼することを提案します」
 確かに自分にはオリヴァーとの縁がある。
 しかしそれは僅かな時間と言葉だけであり、彼の人となりや素性を判断するには足りない。
「それに、私は嘘が下手です。それは陛下もバルド様も、よくご存知かと」
 もし、万が一にも可能性があって、ダークが命令としてオリヴァーの素性を調べろというのならば、フレイヤは従うつもりだった。
 自らの貫き通すべきものを常に目前に掲げておかなければ、彼に何を見通してここまでやってきたのかを理解してもらえない。断ったのは、そのためだ。
 部屋の中に沈黙が満ちる。ダークがフレイヤの言葉を反芻し、噛み砕き、言外の意味まで捉えようと考えているのが伝わってきた。短すぎるような、長すぎるような間ののち、
「……うん、変わってないな、フレイヤ。わかった、いいよ」
という、穏やかな声が聞こえてきた。
「ダーク」
「まあ、必要ならバルドが調べるさ。オリヴァーの件はついでだ、気にするな」
 ダークはあっさりと国王の仮面を外して、紅茶を飲む。落ち着いたかのような一息を見届けたあとに、フレイヤは頷く。
「結局これも、敵だか味方だかわからない家臣からの進言だ。……何分、まだ城内にも敵が多くてな」
「大丈夫」
 これ以上に長居しては、休憩時間が終わるまでここに居てしまいそうだった。
 立ち上がって残りの紅茶を全て飲み干して、踵を返す。
「私が味方になりにいくから」
 ドアに手をかけて退室する前に、ダークとバルドの方へ向かって頭を下げる。
「美味しい紅茶をありがとう。じゃあ、戻るね」
 ダークは呆けたような顔をして、そのあとすぐに表情を引き締めた。
「……待っている」
「うん。じゃあ、またね」
「待て、送る」
 すぐにバルドがついてきて、言葉など何もかわさないままに扉を閉めた。
 そして前を歩く彼に無言でついていく。恐らく、きっとだが、休憩室に向かってくれているのだろう。
「……バルド、様」
 名前を呼べば、怪訝そうに眉を顰めて彼は振り返った。
「何か」
「ええと……かっこつけすぎたでしょうか、私」
 王の私室を出たのならば、そこはもう城だ。国王側近のバルドを呼び捨てにするなど不敬も甚だしく、身分差は絶対だ。
「君ならあのくらいは言うだろう。そうでなければ、私の見立ては外れている」
 まるで別人のような感情のない声音で返される。しかし言葉に含まれている意味は優しく、やはり幼馴染のバルドだと伝わってきた。
 私のいない数年間、二人は傷ついていなかっただろうか。
 国の急な体制の変更は、よくも悪くも影響を及ぼした。前王支持派は未だに玉座に支持派を据えることを企んでいると聞いたのは、王都だった。所詮うわさ話とはいえ、火のないところに煙は立たないのも確かだ。
「……お褒めに預かり、光栄です」
 しばし無言の時間が続いた。
 小さい頃はフレイヤが常に先頭を歩いていた。危険は全て引き受けると、幼心ながらバルドを心配してそうしていた気がする。
 なのに今、見上げる背中は大きく遠ささえ覚えていた。
 そういえば。
 バルドはフレイヤに何と告げ、王都へ旅立った?
『ダークを守るために、聖騎士になってくる』
 聖騎士は国の象徴、聖なる盾、正しき姿勢、あるとあらゆる公平を背負って職務を全うする騎士だ。その騎士服も、白地に金の線が入った裾の長い上着だと聞いている。
 目の前を歩くバルドは、全てが漆黒に包まれていた。
 聖騎士に対して、黒騎士がいる。汚れ仕事を一気に引き受けて、参謀、暗殺、工作、洗脳――その手段は別の騎士団からも快くは思われていない、というのがうわさだ。
「……バ」
 名前を呼ぼうとしたその時、見覚えのある景色が目の前に開けて思いのほか、がっかりした。
「さあ、戻ってよく休め。騎士になれば任務までに体調を整えておくことも重要だからな」
「ありがとう、ございました」
 頭を下げ、あっさりと返される踵を見送った。靴の音が聞こえなくなってからようやく姿勢を戻し、大きく息をつく。
 何だか眠る気にはなれず、バルドとは反対方向へ歩きはじめる。もし入ってはいけない場所があれば、間違いなく兵士が止めてくれるはずだ。外の空気が吸いたいと窓の外へ目を向ければ、青々とした空の下に庭園が広がっている。
 故郷でかいだような緑色の香りに癒やされたくて、扉のそばに立つ兵士に声をかけた。
「……申し訳ないですが、あの庭園に行きたくて。許していただけますか」
「ええ、構いませんよ。向こう側に金の淵で彩られた下へ向かう階段があります。そこから先は渡り廊下になっていますので、庭園にもつながっていますよ」
「ありがとうございます。庭園に兵士の方は?」
 もし金目のものを盗もうとしていても困るので、先に事情を説明しておこうと思った。だが兵士はヘルムの向こうの目を微かに細めて、階段のある方向へと手を向ける。
「大丈夫ですよ。我が城には魔術での警備も施されています。それに、庭園にも志願者はいます。是非お互いを監視するくらいの気持ちで休憩なさってください」
 互いに互いを監視するのなら、気も休まらないのではないかという疑問はこの際、横へと置いておく。静かに頭を下げて、庭園に向かうことにした。

 階段を一段ずつ降りていくたびに、濃厚な故郷の香りが鼻を通っていく。じんわりと緊張した身体に清浄な気が流れ込んできて、気持ちが持って行かれそうになった。
 ひゅん、ひゅん、と剣が風を切る音が聞こえる。
 休憩時間に訓練をしようだなんてよほどのもの好きか、丈夫な体力を持つ人だろう。
 会釈くらいはしておいたほうがいいのかもしれない、と考えた瞬間、見慣れた赤毛が視界に現れた。
 振る剣の筋は早く、重く、正確だった。なのに型にとらわれることはなく、ある意味奔放とも言える。
 汗に濡れた髪の毛先から水滴が飛び、地面へと落ちていく。そんな一連の動作をぼうっと見守っていると、やや乱暴な手つきで回転された剣が鞘へとおさめられた。顔をうつむけて呼吸を整えるようにしてから、赤毛の奥にひそむ殺意を含んだ双眸がフレイヤの方に向けられていた。
「……んだよ、お前かよ。誰かと思ったら……」
「ご挨拶だな。休まなくていいのか」
 オリヴァー・ロックウェル。
 先程、ダークに調査を頼まれたその人だ。
 話を持ちかけられただけだというのに少しの後ろめたさがあり、その後の言葉に困る。
 彼は彼で特に話しださないフレイヤに困惑したのか、少し眉をひそめて花壇の淵に座った。ポケットからぐしゃぐしゃの布を出し、乱暴に髪を拭く。
「実技試験は誰と当たるかわかんねえからな。あれだろ、お前。オレの実力をはかりに来ただろ」
 オレは強いからな、と言うオリヴァーの言葉は、冗談なのか本意なのか全くもってわからない。
「そんな卑怯なことはしない。頭を働かせて情報を集めるよりも、剣の一撃を受ける方がよほど実力がわかる」
「オレも馬鹿だ馬鹿だと周りに言われるが……お前も馬鹿だな」
 朝が初対面の人間に知ったような口を聞かれるのは心外だった。
 しかし問題を起こすと、城内であることも踏まえて一発で放り出されるだろう。不満を口に出せないまま唇を真一文字に結んでいると、どこか躊躇うような、喉の奥から絞り出されるような声が聞こえた。
「あー……わりぃな。本当に悪い。自覚はしてっけど、どうにもいいとこの出じゃねえから……人の機嫌を損ねやすい。この通りだ」
 困り戸惑い、どうしたらいいかわからない、そんな雰囲気が下げられた頭から、全身から伝わってくる。
 不機嫌になったことはなったのだが、あまりにも素直に頭を下げられ……それよりも、すきを見せられて、呆れていた。だけどそこに彼の性格や信念を見た気がして、微笑ましくも思う。
「簡単に頭を下げては、自らの品位を貶めるぞ。別にいい。私も剣や体術だけをひたすらに鍛えてきた。参謀にはなれまいよ」
 それよりも先程の言葉が脳内で反芻される。
 いいとこの出ではない、というのは、すなわち出自不明ということだ。
 先程ダークから聞かされた話が僅かに真実味を持って、フレイヤの心をじわじわと炙っていく。知りたいという気持ちとは裏腹に、騎士として正しい道を進むことだけを心に叩き込んでいた彼女には、他人から知り得た情報を元に話を聞き出すなど、卑怯なことこの上ない行為だ。ぐっとダークの言葉を奥底へ押し込んで、花壇に咲く桃色の花へと視線を投げる。
「品位、ね……そんなもんはどうでもいいけどな」
 つくづく枠に捕らわれない発言ばかりだ。
 もし彼が騎士になったならば、不要な一言で場を乱しそうだと苦笑いを浮かべる。
「お前は純粋な休憩に来たんだろ。悪かったな、席を外す」
「ああ……いや、いても構わない。先約を取っていたわけでもないしな」
「バッカ、オレが構うんだよ。我ながらピリピリしてんだ、お前にまで噛み付いたらどうする」
 言葉を最後まで聞いて、意味まで噛み砕いてしっかりと飲み込んでから――吹き出した。
「っ……ふふ、ふふっ」
「……喧嘩売ってんなら今なら買うぞ」
「いや、違う。優しいやつだと思っただけだ」
 オリヴァーはフレイヤを睨みつけるようにしていたが、優しいという言葉を聞いて不可解なものを見る目をした。
「……わっかんねえ。噛み付いてやるって言ってんのに。気ィ抜けちまったよ、じゃあなじゃあな、ふあーあ」
 早々に会話を畳みたがっているのは明白で、でもフレイヤも敢えて引き止めない。
 赤毛に混ざる彼の耳が赤くなっていることに気付いたからだった。
 左手を鷹揚に振って渡り廊下の奥へ消えていくオリヴァーを見送って、フレイヤは花の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
 故郷の村に植えられている花と木と、空気の匂いがする。
 ダークもまたあの場所を大切だと思ってくれているなら、十分かもしれない。
 懐かしい風に包まれて、フレイヤはしばらくここで過ごすことに決めた。




第4話へ続く


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