聖騎士の忠誠

第1話 始まりはここから


見渡した風景は全てが曖昧だった。ただその中で唯一はっきりしているのは、銀髪の少年だ。
 激しく上下に動く視界と脳の奥に響くような息遣いで、振動や風を感じなくても走っているのだと理解できる。
 しゃがんで待っていてくれた少年は、飛び込んだ自分を思い切り抱き留めてくれる。少し低い柔らかな体温と、包み込むような力加減、自分よりいくらか大きい体――鮮明に残っていた。
「ダークお兄ちゃん!」
「フレイヤ、急いで走ったら転んじゃうよ。気を付けて」
 頭を優しく撫でられてから、ダークと呼ばれた少年の体が離れる。細められていた目が緩やかに開くと、血の色をしていた。
「ケガしてもダークお兄ちゃんが助けてくれるから、大丈夫だもーん!」
「こらこら。いつまでも僕が側にいるなんて約束、できないんだぞ」
「やーだー! ずっと一緒にいるのー!」
 ダークは苦笑いを浮かべて、フレイヤの頬に手を添える。父のような、兄のような存在だった。
「……そうだね」
 今思えばその憂いを纏った雰囲気は、すでに決意していたのだろう。ダークの伏せられた瞳に違和感を覚え問おうと思えば、またたく間に「いつもの」穏やかな顔に戻った。
「あれ、バルドは?」
「んー? バルドねえ、ほら、あそこ!」
 遥か遠くの方から、漆黒の髪を持つ少年が走ってくる。息も切れ切れだが、それでも足を止めることはない。無表情で感情を窺い知れないと大人たちに言われているのを知ってはいたが、フレイヤとダークにはよくわかる。二人を見つけた瞬間、わずかに目が開く。
「バルド!」
 そのまま飛び込んできたバルドも抱きしめて、ダークは笑い声を上げる。
「ははっ」
「ダークお兄ちゃん?」
「僕が絶対――君たちを、守るからね」
 徐々に色彩が失われていく。見上げたダークの顔も、バルドの顔も輪郭がどんどんぼやけ、懐かしいと思っている風景に溶けて同化した。浮遊感のあと、一瞬にしてあの場所を見下ろしていた。箱庭のような四角の世界。
 夢が終わる。あの頃には、もう戻れない。
◆◆◆
 鋭い光で目を覚ますと、外ではすでに野鳥がさえずっていた。見慣れない天井をしばらくぼうっと眺めてから、ゆっくりと体を起こす。カーテンの隙間から射し込む太陽光が自分自身に馴染んでいくのを感じながら、枕元に置いてある愛剣をまず手に取った。
 予定していた時間からはやや早めだったが、どうしたって部屋の外を行き交う宿泊客の気配で落ち着いて寝られないのはわかっていた。身支度を整え、愛剣と兵士試験合格通知を手に持つ。これがないとわざわざ二週間かけて故郷から城下町に来た意味がない。
 階下からは女主人が用意してくれた朝食の香りが漂ってくる。早く行かないと全て食べられても仕方ないと言われてしまうだろう。
 部屋を出る前にカーテンを開ければ、城下町が見渡せる。大勢の人が行き交い、商人がグリフォンを連れて歩いている。商店では勢い良く果物が売れていき、小さな子どもたちが大人の間を縫って走っていた。
 踵を返して、やや古びた廊下を通り、これまたよく軋む階段を降りる。受付兼食堂兼休憩所はドアも開け放たれたまま、朝食を摂る宿泊客で賑わっていた。
 食事が置いてあるテーブルはほぼ埋まっていたが、それでも空いている椅子を何とか見つけ滑り込む。
 こんがりと焼かれたソーセージに、採れたての野菜を使ったサラダなどなど……山盛りで用意されている。
 おそらくこの宿にも何人かの入兵志願者が存在して、そのために作られたものなのだろう。朝食は全ての活力として、ありがたくいただくことにする。
 男たちの腕をかきわけながらも取皿に各料理をどんどん盛った。大事なのは見た目ではない。いかに効率よく栄養を摂取できるかだ。できる限りパンも鷲掴みして、後悔しないように脇へと置いておく。
「いただきます」
 スープをすくうが早く、口の中に放り込む。その熱さと味わいがなくならない内にソーセージを半分かじり、パンにかぶりついた。彼女の周りでは宿泊客たちが食べっぷりを驚きの表情で見ているにも関わらず、フレイヤはそのどれも気にしていない。
 ただ唯一癇に障ったのは、清浄な空気の中に交じる酒のにおいだった。
「ぎゃははははは!」
「で、オレ思いっきり殴ってやったらよお!」
 フレイヤが奥の席で、彼ら中年三人組は入り口側だった。不快さに顔をしかめる客はいるが、視線に敏感な男たちが睨みつければそそくさと知らないふりをする。宿屋の女主人は恰幅がいいが、それでも三人を相手取るには腕力が足りないと諦めたのだろう。誰に頼るでもなく、淡々と給仕に勤しんでいた。それは正しい判断だ。
 何とかできるフレイヤにとっては、この上なく不快であるが。
 しかし栄養を摂取する手は止めないままに、男たちを睨みつける。
 あちらから喧嘩を売ってくれれば有り難いのだが、と瞬きもせずにひたすら殺意を送り続けていると、早くも気づいてくれた男の一人が大股で近寄ってくる。あんな隙だらけでは、故郷なら神父に足払いからの肘打ち、床に叩きつけコンボを決められているところだ。守られているということは幸せなことだ、とフレイヤは真顔で頷く。
「おおい、姉ちゃん! オレらになにか用かぁ!?」
「いえ、別に」
 膨れ上がる殺気を抑えつけることはせずに、開放する。ここでむやみやたらに騒ぎを起こしたりはしない。試験を受ける前に資格を剥奪されては困るからだ。
 スープを手に取ろうとした途端、そのスープカップが男の手によって払われる。木の床に落ちたそれは、大きな音を立てて散らばっていった。即座に立ち上がり、満足げににやついている男の顔を鷲掴みした。壁に思い切り押し付け、もう一方の手で剣の鞘へと指を置く。みしみしと男の後頭部から音がするが、気にしてはいられない。
「ぐ……う……」
「女ぁっ! なにしやがる!」
 気配も隠さず飛びかかってくるなど、愚の骨頂だ。二人目と三人目が飛びかかってくるのが手に取るように理解でき、神父とシスターの教えはかなり正しかったのだと嫌でも納得させられる。
「あら、女性に飛びかかるなんて」
 場にそぐわないくらいおっとりとした、しかし鋭さをにじませる女性の声が左後ろから聞こえてくる。
「おっさん、やめとけよ。その女、アホみたいに力あるぞ」
 右後ろからは、やや粗雑な男性の声だ。本来だったら自分がかわすはずだった打撃はなく、恐る恐る後ろを振り向くと二人の男女がいるだけ。
 男の背後から艶かしく腕を伸ばし首を折る一歩手前なのは、深い緑の髪を持った女性だ。同じくらいの年齢なのかはわからないが、色香たっぷりの紅色をした唇が、今は血を舐めたように光を放っている。やや垂れた瞳をこちらに向けて彼女がウインクをしたところで、ようやく受験生なのだとわかった。
 もう一方の男をすでに床に叩きつけてブーツで踏んでいたのは、背の高い男性だった。精悍な顔つきで、燃えるような赤毛をしている。こちらも剣を抜きそうな一歩手前ではあったが、体術だけでのしたらしい。
「ところでさぁ、おじさん達?」
 もはや誰もが静まり返って事の顛末を見守っている宿屋の一階で、黙々と食事を進めている少年がいる。明るい水色の髪は、今日の青空に近い。理知的な瞳を中年男性三人に向けて、話し続けた。
「知ってるかもしれないけれど、僕たち兵士とか騎士とかになりたい人たちって各所の教会でびっちり訓練受けて来てるんだよね。それこそ染みつくくらいに」
「そうそう、そうですの。例えば必死に理性で抑えていなければ、この首をぽきりと折ってしまうくらいには厳しい過程を経ていますわ」
「で、そこの女もあと二倍くらいは力入れられるだろ」
 危ない。懲らしめるつもりが殺してしまうところだった。一度深呼吸をして、男を離す。フレイヤの腕で喉を押さえつけられていた男は床に尻もちをつき、空気を求めるように咳き込んだ。これじゃあどちらがガラの悪い連中かわからない。彼らが自分を見上げるその感情はまさしく「恐怖」だ。
「……食事は美味しくいただくものだ。材料と作った人、料理してくれた人に最大の敬意を払って口にする」
「ひ、ひぃっ」
 鞘から剣を振り払い、男の首筋に押し当てる。
「食事は静かに摂れっ!」
「はっ、はいぃっ!」
 地を揺らすが如く腹の底から吐き出した一喝は、場の雰囲気を無音にした。
 愛剣を握れば、体の奥底からなにか滾るようなものが湧いてくる。それは血液を通り、肌を巡り、皮膚を伝い、迫力として現れつつあった。
 途端、城下町全体に大きな鐘が鳴り響く。穴が空きそうな程に読み返した通達書に記されてあったことをふと思い出して、流麗な動作で剣をしまう。
 試験開始の二時間前には鐘を鳴らされる。
 ということは、ここで油を売っている時間は全くないのだ。
「……行け。次私が騎士になったときに貴様の顔を見たら、無事では済まんぞ」
「夜道にはお気を付けくださいまし」
「命拾いしたな。あとで店主に謝れよ、酔っぱらいどもが」
 男女から手、または足を避けられた残りの男たちも、もんどり打つようにして逃げていく。その足音が聞こえなくなるまで聞き耳を立ててから、ようやく女店主に謝ろうと振り返る瞬間だった。
「あなた! お強いですのね!」
 腕にとてつもなく柔らかい膨らみが二つ当たって、驚きに視線を向ける。
 すると緑の髪をした女性が腕に絡みつき、しかも振りほどけない力と関節をきめられていた。
「い、いえ……別に。それよりも、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。あなた方もこれから試験でしょうに」
「そんなことありませんわ! こんなに強くお美しい方の立ち回りを拝見できるなんてまたとない機会です! ねえ、赤毛の君?」
「高級そうな名前で呼ぶのやめろっつうの。オレはどうだっていい。アンタくらいの細腕ならいつでも折れる」
「って言ってるような筋肉バカが、技巧で負けるんだよね?」
「あん?」
 まずい。このままでは収集がつかなくなる。
 フレイヤは即座に判断して、周囲で戦々恐々と状況を見守っている宿泊客と女主人の方へ頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました! あまりに食事が美味しかったもので、礼を失するような食べ方をしている彼らを許せずに……その、申し訳ない!」
「……え……そこが原因なの……?」
 困惑するような青い少年の声が聞こえてくるが、この際それはどうでもよかった。
「わたくしも謝罪させていただきます。朝の清々しい気分を害してしまいました」
 害すると言うよりは一番不穏だったのではないかという指摘を飲み込んで、共に謝ってくれる礼儀正しさに好感を持つ。
「オレからも謝罪する。この通りだ」
「騎士を目指す人間がこんなんじゃあね。僕も、ごめんなさい」
 状況が飲み込めずに思わず顔を上げたフレイヤは、唖然とした。元はといえば自分が原因だ。酔っぱらい男三人を睨みつけて、喧嘩を売ったのは間違いなく自分だ。連帯責任とか、そういう問題じゃない。
「君たち……」
「ああっ、いいんだよ、いいんだよ騎士様! ありがとう、助かった!」
 慌てた声で答えたのは女主人だった。その言葉を皮切りに宿泊客達が礼を言い始める。その様子からどうやら城へ報告が上がって受験資格を剥奪されることはないだろうと、ようやく安堵した。昨日の晩に城下町に到着した。回復しきっていない疲れが苛立ちに直結したのかもしれない。
「それよりもほら、試験があるんだろ!? 他はあたしたちで片付けるからさ、あんたたち早く行っておいで!」
 言うが否や、客達がばたばたと机を並べ始める。誰も怪我をしておらず、割れたのはフレイヤが飲んでいたスープカップだけのようだ。一気に蚊帳の外へ置かれたことに対しどうしていいか戸惑っていると、緑色の髪をした女性から声をかけられる。
「もしよろしければ、一緒に城へ行きませんか? そこの方々も」
「オレはいかねえ。組んでるだのなんだの、余計な噂立てられたくねえしな」
「まあ、おねーさんたち二人ならともかく、四人はちょっと多いしね。僕は先に行ってるよ」
「あら、残念」
 全く残念そうに答えていないのが、この女性の一番恐ろしいところだとも言える。 「では、行きましょう!」
「えっ……」
 まだ一緒に城へ行くかどうかも答えていないのに思い切り腕を引っ張られて、ずるずる外へ出た。
 清々しいほどに晴れ渡った空は、絶好の試験日和だ。町中を歩く人々の活気は増し続け、後方にある広場の方ではなにか披露が行われているのか、歓声が聞こえてくる。そして城下町を出ると、前方には門、長い坂道、そびえ立つ真っ白な城。
 幼馴染ダークを追ってようやく今日、入り口に立てる。
 国王になった彼を守るため、そして彼を追って城に行ったバルドの片腕になるために。
◆◆◆
「まあ、そういえばわたし、あなたの名前をお伺いしていませんでしたわ」
 城へと向かう道の両脇には木が鬱蒼と生い茂り、暑さはないものの常に木陰であるためにどんよりとした暗さが体に付きまとう。前も後ろも、同じく志願者だと思われる年若い男女が息を切らせながらゆっくりと登っていた。
 二時間前に知らされたのはこの長距離の階段を登らなければいけないからだ。
「……私の、名前ですか?」
 千段あるとかないとか、四方八方で噂が飛び交っている。しかしこの階段が使用されるのは新たな王が登城するとき、王が崩御したとき、そしてこの入団試験の前座のみだ。普段はグリフォンなどを使って飛行するのが常だと聞いている。
「ええ。もしかしたら、あなたが素晴らしい騎士になるかもしれませんでしょう? しっかりと心に留めておきませんと」
 妙に持ち上げられるな、と逆に警戒心が働く。そもそもこの階段を登り始めてからしばらくは経つというのに、この女性は息を切らす様子が全く見られないのだ。
 それを言えばフレイヤだってそうだが、自分は自分の実力を理解している。ちゃんとこの前座をクリアできるという神父の確信あって受験を許可されたのだ。
 だが、ここで答えないのも後々面倒なことになるかもしれない。渋々口を開いた。
「……フレイヤ。フレイヤ・エーベルハルトと申します」
「フレイヤ様、ですね。わたしの名は、ベアトリス・レヴィと申します。何かと粗相をすることもあるかもしれませんが、結果がどうなろうとよろしくお願いしますわ」
 にこり、と笑いかけられて、思わず心拍数が高くなる。自分より遥かに実った二つの膨らみを強調するかのように露出度の高いタンクトップと、深いスリットの入ったスカートなのだ。先程は見る暇もなかったが、袖から伸びる腕は陶器のように白く傷がない上に、腰まであるだろうウェーブのかかった髪は、きらきらと日光で透き通っている。  隣を歩いていると汗なのか香水なのか、花のような香りが漂ってくる。性別関係なく惑わされる人はいるのだろう。
 すぐに結婚できるだろうにとは思うが、人にはそれぞれ事情があるものだ。追求する気にはならず、ただ頷くだけに留める。
「よろしくお願いします」
 道中黙々と歩くだけでは何かと気まずい思いもあるが、それ以上に自分の弱みやクセを握られることに対しての警戒心があった。今のところベアトリスという女性の、本心らしい本心が何一つとして見えてこない。恐らくフレイヤの考えと同じで、少しでも自らの情報を漏らさないようにしているのだろうと思えるが、それにしては自分に声をかけるのはよい方法と思えなかった。
 しばらくは互いに共通する話題も思いつかず、ひたすらに歩みを進めた。階段を上る前にはすれ違うのも困難なほどに志願者で溢れかえっていたのに、今はおそらく半分くらいに減っているだろう。脇道で受験破棄の意思を示す光を放てば、城の調教師がグリフォンと共に迎えに来る。そうして帰っていった人を何人も見た。
 たまに木々の間から吹き込んでくるやや冷たい風に火照りを静めながら、汗を拭きつつ着実に中腹辺りまで差し掛かったところだ。太陽が天高く登るまでに到着さえしていれば良いという看板と共に兵士が水を配り、魔術師が風を吹かせ、そこは休憩所になっていた。
 大きく開けた視界に周囲を見渡すと、山の外には城下町の喧騒がある。空では荷物を運ぶグリフォンが飛び回り、余程風が気持ち良いのか目を細めている。空気が少なくなるにつれて息苦しさもあるかと思ったが、その心配はないようだ。
「フレイヤ様、どのくらい休憩していきますか?」
 ベアトリスが使い捨ての容器に入った水を渡してくれる。口の中を潤す程度に留めておこうと、申し訳程度に飲み込んだ。この城へ行くまでの体力勝負は、もって三時間という所だろう。ダークが故郷を出ていってから八年――実に彼らしい試験のやり方だと、思わず口元が緩む。
「私は五分で充分です。城について休む方が長く休めるでしょう。ベアトリスさんは?」
「わたくしも賛成ですわ」
「ああ……えっと」
 五分の休憩にベアトリスを巻き込むつもりはなかった。神父に人間を明らかに逸脱した育てられ方をしたため、自らの体力をどう客観的に見積もっても並大抵の女性がついてこられるとは思っていない。
 しかし、ひねることなく本心を言えばどうあっても険悪な雰囲気になる。それは今までの経験で理解しているつもりだ。だからこそ、もう少し支障の出ない言い方はないか視線を空へ向け、右へ左へと動かして頭を悩ませる。
「どうかされましたか? 不都合がおありで?」
「そ、そんなことはないのですが……」
「なら、言葉になさってみて。わたくし、並大抵のことでは動じなくってよ」
「……本当に、ですか?」
 ふわりとベアトリスが地面に跪き、フレイヤの手を優しく握る。柔らかな、癒やすような温かみに包まれて、何だか正直に答えてしまっても良いような気がしていた。 「ええ。本当ですわ」
 騎士団への入団試験を受ける前に親しい人間を作らないという神父の言いつけをさっそくぶち破りそうになって、持ち直した。どんな足の引っ張り合いや騙し合いがあるのか、想像できたものではない。
「じゃあ、ええと……私、故郷で、猿のような生活をしていて」
 ベアトリスは下を俯き、肩を震わせる。やはり猿のような、という言葉自体が良くなかったのだろうか。野山を駆けずり回り父親には投げられて育ち、ダークやバルドと遊ぶのは木の枝を打ち合う騎士様ごっこだ。
 ゆえにそうとしか伝えられないのだが、ここで他に言い繕えるような上品な言葉も思いつかず、おずおずと彼女の名を呼ぶ。
「……ベアトリスさん……?」
「ど、どうぞ、お続けになって……」
 声も震えているし、一向に顔を上げる様子もない。やはり怒っているのだろうか。しかし先を促されている以上答えないわけにもいかず、ゆっくりと続きを口にする。
「あ、あの……それで私は、いくら鍛えているとはいえ、無茶をしている自覚があり……ベアトリスさんを付き合わせるには、忍びないと……」
「……っふ」
 鈴を転がしたように可愛いそれが笑い声だと気付いたのは、ようやく顔を上げた彼女の表情からだった。
「ふふっ……ふっ……」
 ベアトリスはこらえきれなくなったように再度下をうつむき、顔を両手で覆う。一生懸命に我慢しているようだが、最早その努力が遅いということには気付いてもらえてるのだろうか。
 ただうろたえて彼女から何かしらの反応があることを願って待つが、予定していた五分を過ぎようとしても震えっぱなしだ。いい加減声をかけた方がいいだろうと思ったところに、やっと彼女が顔を上げる。
「しっ、失礼、いたしました……わたくし……そんな心配のされ方、初めてですわ……」
 細く美しい指先で涙を拭い、ベアトリスは立ち上がる。フレイヤは一向に状況がつかめないままでいると、勢い良く手を差し出された。
「問題ありませんわ。今のお話で、いかにあなたが優しい方か理解できました。わたくしは頑丈ですから、多少のことでは疲れません」
 思わずその格好良さに手を握り返して引き上げられるが、「逆なんじゃ」という感情にとらわれてやっぱり混乱するだけだ。
「……辛かったら言ってくださいね?」
「フレイヤさんこそ」
 何だか流されたような気もしながら、七分と少しの休憩を取ってから二人は歩き始めた。
 一段ずつ階段をのぼり、視界の端で緩やかに変わりつつある景色を楽しみながらも足は止めない。その間も屈強な男性受験者が一人、また一人と崩れていく。
 かなり距離は遠いが、それでもあるところに兵士が立っていることは確認できた。
 横で小さく、息をつく声が聞こえた。ベアトリスはどこか安心したような表情を浮かべ、風に髪をなびかせている。
 多少は無理をさせていたのだろうかとは思うが、彼女が自分に助けを求めない以上、手出しは無用だった。
 助けを求められずして助けられたとき、自分ならきっと自信を失う。
「……何事もなく、つきそうですわね」
「そうですね。城での昼食と休憩ののち、筆記試験でしたっけ」
 ここまで来たら、あとは淡々と上るだけだ。
 全力を出して頂上へ走り、辿り着き、敵がいたらどうする? 息切れをしたその身体で戦うというのだろうか。
 そういった意味でも調子を崩さないということは大事で、
「どいてよこの筋肉バカ! アンタは思いやりの心はないわけ!? 僕に道を譲れよ!」
「てめえこそ、そんな細い腕でこのさき城を支えられるなんて思ってるんじゃねえぞひよっこが!」
「ひよっこぉ!? 僕のことバカにしないでほしいんだけど、バカにバカって言われたくないよね!」
 瞬足と言っても過言ではないほどの速さで、つい先ほど助けてくれた二人が横を通り過ぎていく。
 何も見なかったことにしておいたほうが良いかと数秒悩んでからベアトリスのほうに視線を向けると、彼女も神妙な顔をして一度頷いた。
 今は何もなかった。
「……城での筆記試験は、結構難しいという話を聞きましたね」
「その難しさは兵になり、何を成し遂げたいか、どこを目指すかにも寄ると師がおっしゃっていました。フレイヤさんは、どちらへ?」
 言われて、少しだけ考える。国王を直接守ることができる立場につきたいなんて答えれば、頭がやられているとしか思ってもらえないだろう。国王の隣、バルドがいる場所は、本当の本当にダークが信頼をおける者、そして心身共に強さを身に付けた者しか立てない場所なのだ。
「そうですね……どこまでも高く」
「模範的な回答ですわね。いいですわ、城に入った暁には、あなたの本心を聞かせていただきますから」
 やはり無難な答えを「選んだ」ことは見透かされていて、苦笑いを浮かべる。そこを追及してこないということは、相手にも良識はあるらしい。
 ゆったりと話しながら歩いていると、やがて城への到着を告げる兵士の姿が少しずつ見えてきた。
 ふらふらになった志願者達が倒れこむようにして、四つん這いになりながら頂上へとたどり着く姿が散見される。
 今、もし敵国の兵士が来たら、あるいはこの兵士が敵国の人間だったら――と考えて、あとはやめておく。
 ここはダークが治める国、そんなことは有り得ないのだ。
 城へ向かう彼の背中を見たとき、フレイヤは決めていた。余計な考えは捨てて、ただ前だけを見て進む、と。
「……私もあなたの本心を伺いたい」
「では、その前にこの前座を達成してしまわなければいけないですわね」
 最後の一段を、特に苦労もなく上りきる。すると誰しもが圧倒されるであろう、雲をも貫く城が鎮座していた。黙して強烈な存在感を放つそれは、王の威厳あってのこと……の、はずだ。
 隣で感嘆のため息が聞こえる。ベアトリスが両手を組み、跪いていた。  周囲では呼吸を荒げながら空気を求める男たちがごろごろと転がっているというのに、息一つ切らさず、微動だにせず祈りをささげるその姿は、どこまでも神々しい。深緑の髪が木々の中に溶け込むようで、彼女が今後治世に影響するような働きをしたら絵画に飾られることだろう。美しさをなるべく手元に、いつでも見られるように残しておきたい欲望はいつの時代も変わらないはずだ。
「……ええ」
 祈りを終えたベアトリスは立ち上がり、今までの柔和な表情からは計り知ることができないほどの強い意志を秘めた視線を向けていた。
 きっとそれが彼女の素なのであろう。
「では、城の中に入りましょうか。きっとおいしい飲み物がたくさんありますわ」
 フレイヤのほうを振り返ったベアトリスは、また柔らかな笑みを浮かべている。
「そうしましょう。頭を使う試験が控えていますからね」  方々に倒れこむ受験者たちをかきわけて、両脇に兵士が立つ城門へと辿り着く。
「ようこそ、ダーク様が治める城『リディリア城』へ。受験者の方ですね! どうぞ中へお入りください。合格通達書も忘れずに!」
 槍が地面を叩く。金属と岩が打ち合う鈍い音が響いて、すぐに城門が開き始めた。城の正門に入るまでにもかなりの距離があり、道のりは長そうだ。
 だけどやっと一歩、踏み出せる。
 踏み出した片足は、やけに軽かった。



第2話へ続く


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